深い息
深い息
圭太は深く息を吸い、お湯の中に体を沈めた。来年は高校生になるというのに小柄なままの圭太の体は狭い浴槽にすっぽりと隠れてしまう。入浴剤が入っているから目は開けられない。息を止めているのに、なんだか鼻の中に入浴剤の臭いがするみたいだ。軽く眉根を寄せた。
圭太は乳児のころからスイミングスクールに通わされていた。いわゆる「ベビースイミング」と言われるものだ。少なくとも溺れない程度になってくれればいいと思っていた親の思惑を上回り、圭太は陸にいる時間よりも水の中にいる方が長いのではないかと思えるほど水に潜る子に育った。
海が近いから、という理由で祖父母の住む家に引っ越し、そこから中学校に通っている。
風呂の湯は白く濁った緑色をしている。潜ってしまった圭太の姿は、透けて見えもしない。圭太は湯の温かさにも緊張が解けていかないことを感じる。小さく小さく縮こまっていると陸にいるより不自由なだけだ。それでも潜らずにはいられない。
海が好きなのだ、何よりも。透明な日も濁りのある日も、海は圭太を自由にしてくれた。圭太は深い息を吐く。できるだけ息を吐き終わり、そのまま海の底を漂っていると水の中で呼吸ができるような気になる。けれど吸っても水は酸素を供給してくれず、圭太は海面に浮上する。
風呂の上に頭を出す。残った息を吐き出す。吸った息は人工的な木の臭いがした。
冬の寒い日、いつものように海に入ろうとしていると、後ろで叫び声がした。
「だめ! だめよ、やめて!」
なんだろう、と振り返った圭太の胸に女性が抱きついてきた。
「だめ! 死んじゃだめよ!」
圭太はきょとんと女性を見つめた。
事情を理解した女性は真っ赤になって圭太に頭を下げた。
「ごめんなさい! てっきり自殺かと思っちゃって……」
「水着で自殺はしないだろ」
「でも冬の海で泳ぐ人がいるなんて思わなかったんだもの」
「そんなのたくさんいるよ、海士とかサーファーとか海難救助士とか」
「でも君はどれでもないでしょ?」
そう言いながら女性は唇をつき出す。圭太と肩を並べるくらい小柄な女性がそうすると、幼い子供のように見える。ふわふわのピンクのコートも相まってぬいぐるみのようでもある。それがなんだかおかしくて、圭太は微笑んだ。
「なあに? 何かおかしかった?」
圭太は首を横に振ると海に向かって歩きだした。
「ねえ!」
圭太は振り返る。
「冬の海の中って、どんな感じ?」
「自由だよ」
圭太は水飛沫をあげて駆けていき、膝までの深さになると頭から波に飛び込んだ。
思うさま潜り苦しくなって海面に顔を出すと、遠く砂浜に女性が座り込んでいた。圭太は陸に向かって泳いでいく。女性が真面目な顔で圭太を出迎えた。
「お帰り」
「帰らなかったの?」
「うん」
「寒くないの?」
「寒いよ」
女性の頬は北風に晒され真っ赤になっている。
「風邪ひくよ」
「いいの」
女性はじっと圭太を見つめた。
「私ね、自由になるために、ここに来たの」
圭太は女性のそばに座る。泳いで火照った圭太の肌から湯気がたつ。
「陸で、私は不自由だから。檻に囚われて逃げ場がないから、海に入ろうと思った」
女性は膝を抱いて小さく縮こまっている。
「何もかもから自由になりたかった」
圭太は女性の手を握った。氷のように冷えた女性の手はきりきりと縛り上げられたように固かった。
「海は自由だよ。でもあなたが行きたい場所じゃない。だってあなたは俺を死なせたくないって思った。道連れにしたいと思わなかった。あなたが行きたいのは枠の外でしょ? 俺の枠は空気なんだ。だから海に潜る。あなたはどんな枠の中にいるの?」
女性は繋がれた手の冷たさをじっくりと確かめるように力を込めて圭太の手を握る。
「私、行くわ」
そっと手を離すと女性は立ち上がった。
「枠を壊しに、行くわ」
振り返らず歩いていく女性の背中を見送って、圭太は大きく息を吸った。肺にいっぱい酸素が入ってくる。冷たい空気が胸の中に溜まる。深く深く息を吐く。胸の中は空っぽになり、暖かくなる。何度もそれを繰り返すと、海を眺めた。冷たくて暖かな海。
圭太はぶるんと頭を振って水気を飛ばすと、海に背を向け家に歩いていった。




