不幸の貯金箱
不幸の貯金箱
魔法の貯金箱を手に入れた。不幸を貯めておけるのだ。不幸なことがあったら貯金箱に小銭を入れる。そうすると不幸がなくなるのだ。
もちろん、すでに起きてしまった事実が消えるわけはない。貯金をすると不幸を忘れられるのだ。忘れさえすれば人は不幸にはなりえない。俺は不幸と縁のない人間になれる。
ガムを踏んだ。十円貯金した。財布を落とした。五十円貯金した。会社で大失敗をして、しこたま怒られた。百円貯金した。
不幸の大小によって貯金する額も増減する。貯金額に応じたぶんだけしか不幸は消せないのだ。
理不尽なことで叱られた。会社の上司からだ。
「何度、注意させるつもりだ! お前には記憶力がないのか!」
完全なパワハラだ。上役に報告しておいた。それから帰って百円貯金した。
財布がなくなっていた。どこかですられたのだ。警察署に届け出た。警官は俺の顔をじろじろ見た。不愉快だ。五十円貯金した。
靴がなんだかベタつく。底を見るとなにやらガムのようなものがくっついていた。いつついたのだろう。十円貯金した。
「あなた最近、怒らなくなったわね。あんなに怒りっぽかったのに」
妻が言う。
「気が長くなったのね。うれしいわ」
妻がうれしいと俺もうれしい。いつだって妻のことを一番に考えている。そうだ、貯金がいい額になったら、その金で妻と旅行に行こう。結構な額が貯まっている。豪華な旅になるぞ。
不幸がやってきた。妻が死んだ。自動車事故で即死だった。俺は霊安室に眠る妻の顔を直視できず、駆け出した。家に駆け戻り貯金箱にとりすがった。震える手で財布から千円札を取り出して貯金箱に入れた。俺の震えは止まらない。五千円札を入れた。俺の震えは止まらない。一万円札を入れた。俺の震えは止まらない。
銀行に走り、全財産を貯金箱に突っ込んだ。震えが止まらない。
じゃりん! と大きな音がして貯金箱の底が抜けた。小銭が音をたてて雪崩落ち、札が舞う。あわてて貯金箱に接着剤をつけ底を張り付けようとしたが、どんな糊類を使ってもはしっこさえくっつかない。俺は床にくずおれた。
「なんでだ……」
のろのろと立ち上がると病院に戻った。妻はかわらず目を瞑り、青白い顔で眠っていた。俺は妻のそばに立ち、彼女の頬を撫でた。冷たく固い。生きていないとすぐにわかった。
俺は妻に口づけをした。ひやりとしていたが、確かに妻の唇だった。両の目から涙が流れた。次から次から流れて止まらない。
どうして俺は妻を忘れようとなどしたのだろう。妻の辛さを忘れようとなど。
覚悟を決めた。痛む胸を抱えて、生きていくのだ。妻の思い出と共に、生きていく。




