手首の傷
手首の傷
彼女はいつも腕時計をつけている。右手に五本、左手に二本。彼女が好んで着る服が、ゆったりした長袖の物ばかりだから、なかなかその時計を見る機会はない。僕が彼女の時計の事を知ったのも偶然だった。
会社の同期で仲が良い方だった僕と彼女は仕事上がりに飲みに行く事もたまにはあった。そんな時、彼女はけっして飲みすぎるという事が無い。きれいに飲み、少し酔い、そして楽しく笑う。理想的な酒の飲み方をする人だと思う。
ある日、新しくできたばかりの居酒屋に二人連れだって行ってみた。白木のカウンターからすがすがしい香りがして、店員も接客が板についておらず、どこか学園祭的な賑やかさだった。
彼女が頼んだ熱燗を運んできた店員が手を滑らせ、熱々の酒が彼女の袖にかかった。店員はあわてておしぼりで彼女の袖を拭こうとした。彼女はやんわり押しとどめると自ら袖を捲った。
そこに二本の腕時計がついているのを見て、僕はぼんやりと彼女はおしゃれな人なんだな、と何でもない事のように受け取った。店員が新しいおしぼりを取りに行っている間に彼女は時計についた酒を丁寧に拭き取り、袖を戻した。
「驚かないのね」
「え?」
「時計。これを見て驚かなかったの、君が初めてよ」
僕は彼女の口元に浮かぶ微笑を眺めた。それは感情を伴わない機械的な笑みだった。本当の気持ちを自分でも掴みかねているように見えた。
「驚いた方が良かった?」
「さあ、どうかしら」
彼女は言いながら右袖を捲った。そこに五個の時計がついていた。
「おしゃれなんだね、そんなに時計が好きなんだ」
彼女はふっと笑う。今度は腹の底から出てきた笑いだ。
「時計は嫌いよ」
「嫌いなのにたくさんつけるの?」
彼女は時計を一つ一つ撫でながら眉根を寄せる。
「これはね、私の傷なの」
僕は黙って、新しく運ばれてきた熱燗を彼女の猪口に注いでやる。彼女は一息で熱い酒を喉に流し込む。また注いでやった酒もすぐに空にして、銚子の半分ほどをあっという間に胃に納めた。少し赤くなった頬で彼女は時計を見つめながら話す。
「つらい事があった時、君はどうする?」
「つらい程度にもよるけど……、日常の辛さなら酒を飲んで不貞寝するかな」
「強いのね」
「強くなんかないよ。いつも不貞寝だらけさ」
彼女は左手首に一番近い時計を外して見せた。そこには横一文字に、ぷっくりと膨らんだ白っぽい傷跡が二本あった。
「私ね、だめなの。つらい時に自分で自分を支えられない。これはまだ十代の時につけた傷だけど、その時から腕時計を外せなくなった。それで、おかしいんだけど、腕時計をしていたら手首は切れないのよ。これは私の傷の証、そして私のお守り」
僕は黙って彼女に酒を注ぐ。彼女はすぐに飲みこんでしまう。
「傷をつける代わりに腕時計が増えていくの。そのうち私の両腕は時計でいっぱいになるのよ、傷をかばうために」
銚子が空になり、追加の熱燗と新しい猪口を一つ頼む。
「今日も新しい腕時計を買おうかどうしようか迷っていたところ」
彼女が婚約者と別れたらしいと社内で噂になっている事は知っていた。一方的に婚約解消されて彼女は黙って受け入れたと。相手の婚約者は同じ会社の先輩で、今日はすでに何食わぬ顔で後輩の女性社員とデートの約束をしていた事。彼女にも、もちろんその噂を親切ぶって耳に入れるような同僚は何人もいて。
僕は自分の腕時計を外すと、彼女の手に渡した。
「これを貸しておくよ。君の二の腕は細いから、僕の腕時計がぴったり合うと思うから」
彼女はしばらく手の上の僕の時計をじっと見つめていたが、留め金をはずし腕に嵌めた。時計は本当に大きすぎて、彼女の手首に一番近い時計の上に被さって二重になってしまった。
彼女はふふっと笑うと僕の腕時計をそっと撫でた。
「時計をかばう時計ね」
「鉄壁の守りだね」
僕の下手な軽口を、彼女は優しく笑ってくれた。
「ありがとう。今日だけ借りておく。今日一晩不貞寝して」
じっと僕の目を見つめる。
「明日はきっと返せると思うから」
僕はうなずいて、最後の酒の一滴を彼女の猪口に注いだ。彼女がとりあげた猪口から滴がこぼれた。彼女の腕にかかる時計が、あたたかい滴に濡れてきらりと光った。
 




