もくもくと湯気
もくもくと湯気
やっと涙が止まった礼子はトイレットペーパーで鼻をかむと駅のトイレからこっそり出た。公衆トイレに入ったのはこれが初めてだった。礼子はあまり外出をしなかったし、外に出ても用事だけをさっとすませて飛ぶように家に帰っていたからだ。
けれど今日は、どうしても入らないわけにはいかなかった。電車のホームでぼたぼたと涙を流し続ける事などできなかった。
生まれて始めて入った駅のトイレは想像と違い、明るく衛生的で個室も広く落ちつけた。礼子は思う存分泣いた。
正樹から別れようと言われたのは一週間前。礼子は自分の耳を疑った。まさか正樹が礼子の家から出ていこうとするなんて思ってもみなかった。自分なしで正樹が生きていけるだなんて思ってもみなかった。礼子が食べさせて小遣いをやらないと死んでしまうのだと思っていた。
「重いんだよ、お前」
そう言って出ていった正樹は、荷物を全部宅配便で送るように礼子に言いつけた。送り先は知らない女の家だった。
礼子は毎日、家にいる間中、泣きつづけた。仕事に行っている間はなんとか涙をこらえたが、今日はとうとう決壊してしまった。帰りの電車の中で、正樹と似た声の男性を見てしまったから。ほろほろと流れ出した涙をハンカチで覆って隠し次の駅で飛びおりたのだった。
流れ落ちそうになる涙をこらえ、ようやく家にたどりついた時には外は真っ暗になっていた。礼子はすぐに浴室に入り、熱いシャワーを頭から浴びながらまた泣いた。泣き疲れて風呂から出ると、腹が減っていた。正樹がいなくなってから生きる気力もないというのに、毎日腹は減った。
冷蔵庫を開けると、中には牛乳と豆腐しか入っていない。礼子は豆腐をつかみ出すと、鍋に昆布を入れて水を張った。昆布が吸水して柔らかくなるまでに米を洗って炊飯器に仕込んだ。ぼうっと三十分ほど鍋を見つめた。昆布は揺らぎもせずに鍋底に横たわっている。水を吸って少しずつ大きくなっているはずなのに、ずっと見ているとその変化に気付けない。礼子はまた浮かんできた涙を、服の袖で拭いた。
三十分ほどたってから、鍋を中火にかける。炊飯器も急速炊飯コースで炊飯を始める。本当は昆布は取りだすものだけれど、礼子は昆布を入れたままの鍋が好きだ。「ずぼらしないでちゃんとしろよ」と正樹はいつもどなった。礼子はなんでも正樹の言う通りに変えていった。髪も伸ばした、化粧も変えた、服も正樹好みのスカートばかり履くようにした。それでも、鍋の昆布だけは変えなかった。
煮立った昆布だしに、豆腐を丸ごとそっと入れ、弱火にしてじっくりと火を通す。その間にご飯が炊けた。蒸らしてから、さっくりとまぜておく。テーブルに卓上コンロを置いて鍋を運ぶ。ことことと揺れる豆腐を外側から崩すように取って、塩をかけて食べる。
礼子は鍋料理が好きだ。誰かと共にいると実感できる。正樹とも何度も鍋をはさんで食事した。正樹は食べ物だけは好き嫌いなく何でも食べたので、礼子は自分のしたいように作っていた。自分の好みで作った鍋を、わがままな正樹が無言で食べてくれるのは、正樹が自分を認めてくれたように思えて、何より嬉しい事だった。けれどたぶん正樹は食べ物など食べられたら何でも良かっただけに違いない。
豆腐を崩しながら三分の一ほど食べ進んだところで、ご飯の事を思い出した。ご飯茶わんにきれいな山を作り食卓に戻る。ご飯から湯気が立ち、湯豆腐の鍋の湯気と混ざって、静かに天井に向かって上っていく。白いご飯の上に白い豆腐を乗せて口に運ぶ。温かく色彩のない食卓の上、白い湯気と共にまっ白に何もなくなった礼子の心も天井に向かって上っていった。
豆腐をすべて食べ終えると鍋の底から昆布が顔を出した。黒い昆布はふっくらと煮えて厚くなっていた。礼子は昆布をつまんで口に運ぶ。すこしヌルっとした表面から海の匂いが漂う。目を閉じると、鍋の湯がことことと揺れる音とコンブの匂いで部屋が暖かくなっていくのがわかった。
卓上コンロの火を止める。満腹になっていた。天井を見上げても、もう湯気はどこにも見えなかった。すべてウソみたいに消えてしまった。礼子は天井に向けて手を振った。
服を着替えてスーパーに行き、味噌を買ってきた。濃い茶色の麦味噌だ。
明日の朝は湯豆腐の後の昆布だしに味噌を入れてずぼらな味噌汁にしよう。そうして熱いのをふうふういいながら飲もう。ご飯に味噌汁をかけて猫まんまにして食べよう。
礼子は少し微笑むとパジャマに着替え、まだポカポカと温かい部屋の電気を消して温かい布団にもぐりこんだ。
 




