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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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死に神

死に神

 夢を見ていた気がする。長い長い迷路をいつまでもさ迷い続けるような、嵐の海に放り出されたような、そんな絶望的な夢を。


 隆司は身を起こす。室内は暗く、時計を見るとまだ四時だった。起き上がろうとして後頭部にズキリと痛みが走る。いささか飲み過ぎたか、と思ったが、飲んだ記憶がない。

 ふと、自分が寝ていたのが床だったことに気づいた。ベッドから落ちたのだろうか。その時に頭を打ったのか。

 左手で後頭部に触れたとき、昨夜の記憶がよみがえった。あわてて立ち上がり室内を見回す。椅子は倒れ、テーブルの食器はみな床に散らばっている。花瓶は割れて水と花でカーペットはぐちゃぐちゃだった。

 花瓶にはほんの少しだが、隆司の血がついていた。後頭部を触った左手を臭うとかすかに鉄臭かった。


 洗面所へ行き顔を洗う。鏡に写る自分の顔はひどく疲れ、急に二十も三十も年をとったように見えた。血の気がなく頬がこけていた。


 ポタン、と水音が風呂場から聞こえる。ポタン……ポタン……ポタン、ゆっくりと滴が落ち続けている。隆司はそっと戸を開けた。


「……美和子」


 美和子が浴槽に入っていた。水は入っていない。浴槽の縁にだらりと垂らされた左手から真っ赤な血がポタン、ポタン、と垂れ続けている。もう身体中の血液を流し尽くした残滓がポタン、ポタン、と。浴室の床にも壁にも浴槽にも大量の血が飛び散り、真っ赤だった。

 美和子の右手には大振りの包丁が握られていた。隆司の指紋がべったりついた包丁が。昨夜、美和子にむけて振り上げた包丁が。

 隆司はあわてて美和子の手から包丁を取り上げようとしたが、右手は握りしめられたまま石のように固く動かない。

 血で滑り床に倒れこんだ。隆司は顔を歪めた。


「……は」


 薄く開いた口から小さな声が出る。


「はははははは! はははは!」


 血まみれで高笑いを続ける隆司はまるで死に神だった。





「奥さんをころして」


 あの女にそう言われた時、隆司はなにげなく頷いた。ほんとうにただなにげなく。そうして自然に包丁を買い家に帰ったのだ。

 食卓をととのえていた美和子に切りかかった時、隆司には何が起きているのか、自分が何をしているのかわからなかった。ただ、ころそうとしていた。


 ドアが開いた音に美和子が振り返ると、隆司が包丁を握りしめて立っていた。美和子は瞬時にころすことを考えた。ただ、自分をころすことを。包丁を奪わなければ。美和子は花瓶を抱え上げ、隆司の後頭部にめがけて振り下ろした。


 館林が隆司の前に立った時、隆司はただ笑っていた。声が枯れ顔はひきつり、それでも笑い続けていた。


「まるで亡者だな」


 隆司の耳には誰の声も届かなかった。


 館林たちがどれだけ捜査しても美和子には自殺する理由はなかった。隆司にも美和子を殺す理由はなかった。夫婦仲はよく、浮気などもなく、金銭的にも精神的にも穏やかな暮らしを送っていた。


 何度目の訪問になるか、館林は入院している隆司を見舞った。あいかわらず笑うだけで音にも光にも反応を示さない。


「いったい、あんたたちに何があったんだ」


 館林のむなしい独り言を、隆司はまた笑った。


 病室を出た館林はうつむきがちに思案にくれていた。その時、ばっと振り返った。通りすがった女が小さく「ころして」といったような気がして。しかし廊下に人影はない。隆司の病室に駆け込むと、隆司が窓から落ちていくところだった。


 館林が窓の下に駆けつけた時にはすでに隆司は担架に乗せられ病院内に運ばれていくところだった。ちらりと見えただけで、もうすでに息が無い事が見て取れた。けれど隆司は満足げな、安らかな顔で笑っていた。

 館林が見上げると、隆司の病室の窓から女が館林を見下ろしていた。怖ろしいほどに美しい女だ。


「ころして」


 館林はゆっくり立ち上がると女に向かって頷いて見せた。

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