海の名残
海の名残
「いらっしゃいませ」
北風に髪をなぶられながらオーク材の重い扉を押しあけると深く暖かな声に出むかえられた。開店間もない時間のバーに客は居らず、カウンターの中で年若い店主がグラスを磨いている。カウンターの一番奥、壁にもたれるようにスツールに腰かけた。
「お久しぶりです」
紙製のコースターを差し出しながら店主が挨拶する。
「……覚えてるんですか?」
「はい。一度、高坂さまとご一緒にご来店いただきました」
高坂、という名を噛みしめながら目を伏せる。
「彼は常連だと言ってましたものね」
「はい。よくお越し頂いていました」
スクリュードライバーを頼みカウンターの奥に整然と並んでいる瓶を眺める。ふと目が止まったのはラフロイグ。高坂が好きだったシングルモルトウイスキー。
店主はミキシンググラスに注がれたウォッカとオレンジジュースを長いバースプーンでくるくるとまぜる。店には低く波のようにジャズが流れていて寒さに固まっていた体がほぐれていく。
「おまたせしました」
コースターに縦長のグラスが差し出される。黙ってグラスに口をつけた。十年前、初めてこの店に来た時と同じ味だった。あのころはまだお酒を覚えたばかりで、たった一杯で真っ赤になってしまった。高坂は微笑んで水を頼んでくれて、決して無理な飲ませ方はしなかった。
何事においても彼は紳士的で理知的で、いつも微笑を湛えていた。好きな酒を口にする時はますます嬉しそうに笑った。
「ラフロイグをください」
氷を浮かべた琥珀色の液体を舐める。独特なヨードの臭いときついアルコールが鼻につきささる。一舐めしただけでコースターにグラスを戻した。
「ラフロイグは」
店主はそっと語る。
「アイラ島というスコットランドの小さな島で作られます。独特なヨードの臭いは海の香りだと言われています」
沈黙の底をジャズが漂う。カランと氷が澄んだ音をたてる。じっとグラスに視線を注ぐ。
「高坂の故郷の冬はとても寒いのよ。海も空も荒れ模様で波も高くて。それでも彼は海を愛していた」
氷は次第に融けて琥珀にゆらめく透明の模様が描かれる。
「アイラも」
店主に視線をやると、とてもやさしく微笑んでいた。
「とても厳しい冬の土地だそうですよ」
長い時間、ただグラスを見つめていた。氷がすべて融けてしまうと、そっと席を立った。
店のドアを大きく開けた店主に尋ねる。
「高坂はもてたでしょう?」
「さあ、存じません」
「でも、このお店に何人も女性を連れてきたんじゃない?」
「いいえ、ご一緒された女性はたった一人、奥さまだけですよ」
店主から目を離し、ひっそりと微笑む。その微笑は十年前と変わらず美しかった。何も言わず顔を上げ夜の通りを歩きだす。
「また、お待ちしています」
扉がそっと閉められた。
 




