たそがれに青
たそがれに青
「姉さん、明日は晴れるかしらねえ」
母が空を見上げながらポツリとつぶやく。
「さあ、どうかしら。天気予報では雨になっていたけれど」
私は答える。
最近の母は、私のことを「姉さん」と呼ぶ。しばらく前には「お母さん」だった。その前は状態が悪く、寝たきりで口も聞けなかった。
良くなったきっかけは、おそらく娘だ。原因不明の高熱で寝付いた娘を、介護が必要な母と同じ部屋に寝かせ一緒に看病していた。
私が疲れて娘の枕元でうとうとしていると、ふいに何か気配を感じた。
目を開けてみると、母が起き上がり、娘のことをじっと見つめていた。
「かあさん……」
自分の声が震えていることに気付いた。母はそんなことには頓着しないように、ただ娘を見つめていた。
なぜかその夜に娘の熱はストンと下がり、起き上がって自分でお粥を食べられるようになった。母と隣り合わせ、二人でお粥を食べる姿を見て、私の目にうっすら涙が浮かんだ。
「ねえ、明日は美代ちゃんの運動会だもの。晴れてくれなきゃ困るわねぇ」
寝台に体を預け、母が言う。
「そうね、晴れるといいわね」
美代、というのは私の名前だ。母は娘のことを美代だと思っていて、なにかと心をくだく。私は面映ゆく、その様子を見守る。
翌朝、母の寝室をのぞくと寝台は空っぽだった。トイレだろうか。行ってみたが、違う。まさか徘徊が始まったのかと玄関へ走ったが、カギはきちんと閉まっている。
ふと台所から包丁の音が聞こえてきた。慌てて台所に駆け込むと、割烹着を来た母が振り返った。
「おはよう、美代ちゃん。晴れて良かったわねえ。もうすぐお弁当できるからねえ。美代ちゃんの大好きなサンドイッチだよ」
母の手は、何もないまな板の上の幻のサンドイッチを切り分けている。私はその背中に、涙が溢れて止まらない。
子供のころには当たり前すぎて気づかなかった。私はこんなにも母に愛されていた。大事にされていた。
私は母の背にすがりつく。
「あらあら美代ちゃん、どうしたの? ちいさな赤ちゃんみたい」
「うん、うん……、かあさん」
「なあに、美代ちゃん」
「かあさん、大好き」
母の暖かい手が私の頭をそっと撫でる。
「美代ちゃん、大人になってもちいさな赤ちゃんみたいねえ」
私ははっとして顔を上げる。母の瞳はしっかりと私の瞳を見つめていた。
「美代ちゃん、いいお母さんになったわねえ」
母はそう言って、また私の頭を撫でてくれた。
それから三日後、母は眠ったままあの世へ旅立った。
思えば、寝付いてからの母は人生を最初から繰り返していたように思える。まるで走馬灯のように。
母の人生は、はたして思う通りに幸せであったのだろうか。私にはわからない。
「行ってきます!!」
「行ってらっしゃい、車に気を付けるのよ」
娘が手をふって出掛けていく。遠足の今日、空はよく晴れている。私は娘のお弁当と一緒に自分にもお弁当を包んだ。いつも母が作ってくれたタマゴサンド。お弁当をもって、今日は私も遠足に行く。母の待つ墓地へ。
そうして母と二人並んでサンドイッチを頬張る。
「晴れて良かったわねえ、かあさん」
見上げた空はどこまでもどこまでも澄んだ青だった。




