マヨイガ
マヨイガ
「あっぢぃー」
威彦は唸りながらネクタイを緩めた。
今日の最高気温は三十四度だと朝の天気予報が伝えていた。
アスファルトの上を行く人達は、あるいは半袖のカッターシャツ、あるいはノースリーブに日傘。
長袖シャツにネクタイ、ジャケットを手にした威彦よりずっと涼しい顔をしている。
しかし今日はどうしてもネクタイとジャケットが必要だったのだ。自社の不手際で取引先に大きな損害を出してしまった。威彦は直接関係ない。けれど謝るのが威彦の仕事だった。
西日を避けて高層ビルの影の下を歩く。ビルとビルの隙間はわりと広く取られており、影、日向、影、日向、とシマウマのシマのように威彦を焼いては鎮め、鎮めては焼いた。
いやに長い日差しに、威彦は空をふりあおいだ。
ビルとビルの隙間は二十メートルほどもあり、そこには一軒の古民家がたっていた。
バブル期の再開発に乗り遅れたのだか、歴史を死守したのだか。そこだけ平屋作りで黒々した瓦屋根。迷いに迷った山奥で山荘を見つけた気持ちになった。
玄関の前に手書きの黒板が置いてある。
「カフェ マヨイガ」
威彦は吸い寄せられるように店内に足を踏み入れた。
店内は無人だった。
威彦が大声で呼ばわっても返事もない。念のためトイレも覗いたが、やはり無人だった。
威彦は取り合えず四人掛けの席に座ってみた。席にメニューは置いていない。適度に冷やされた室温が威彦の肌を冷やしていく。
ふー。とため息ひとつ。
窓の外には、隣のビルとの隙間にヒメジョオンが繁り幅をきかせていた。花の時期を過ぎたヒメジョオンはただの迷惑な雑草だったが、威彦はなぜだかヒメジョオンをいとおしく感じた。
いくら待っても店員は現れなかった。
ふと見るとカウンター席にアイスコーヒーが汗をかいて居た。
先程通った時には何もなかったと思ったのに。
アイスコーヒーは今出されたばかりのように涼やかに見えた。ストローがたって今にも飲み干せそうだった。
威彦はごくりと唾を飲んだ。アイスコーヒーは威彦を待ちわびているようにつやつやときらめいている。
威彦はネクタイをだらしなく緩めた。それでも喉の乾きは収まらない。
威彦は魅いられたようにふらふらとカウンター席に近づき、アイスコーヒーを手に取った。
ひやりと手のひらが冷やされた。水滴が指を伝ってポトリと落ちた。氷がからんと音をたて。
威彦はたまらずストローに吸い付いた。ずずずと音高くアイスコーヒーを飲み干した。
深いため息。頬には微笑。
生き返ったようだ。
威彦はグラスを置いた。
ふいに、背筋に冷や汗が流れた。
誰の注文かもわからぬものを勝手に飲んでしまった。威彦はきょろきょろと店内を見渡した。変わらず、店員はいない。それどころか客もいない。それなのに、やかんはしゅんしゅんと湯気をはき、サイフォンには新しいコーヒーが淹れられていた。
威彦はゆっくり立ち上がると、ネクタイをきちんと締めた。アイスコーヒーのグラスに千円札を二枚敷いた。ゆっくりと店内を見渡す。
太く黒光りした梁、分厚く透明度の低いガラス。ドアの覗き窓はステンドグラスになっていて、床に複雑な模様を描いていた。
ゆっくりと歩いて外へ出た。
西日が目を焼いた。威彦は腕で影を作り空を眺める。
真っ青な空に入道雲がのぼっていた。
『夕方の入道雲は夕立の印』
威彦は祖母の言葉を思い出した。足早に駅に向かう。
威彦が立ち去ったビルの谷間にはヒメジョオンが伸び栄えるばかり。そこにカフェなどなかったようで。
入道雲はビル街に涼しい夕立を運んだ。
たった一つ、空き地に残された黒板の文字が雨に流されていった。
『カフェ マヨイガ 思い出のみ有料』




