金の糸 17
雷三の懸念通り、翌日、異形の子供はエサも水も代えなかった。絢香と雷三は念のために食料を取っておくことにして少しだけ水を飲んだ。育ち盛りの雷三は辛そうだった。そうして三日を過ごし、少しずつ食べていたエサがなくなると、絢香はすっくと立ち上がった。
異形の子供が寝そべって本を読んでいる、その方向に向かって、檻の端ギリギリまで迫る。
そうして高らかに歌い始めた。
異形の子供はビックリして起き上がり、檻のそばに寄ってきた。間近で絢香の歌に耳を傾ける。その表情は次第に喜びの色に染まった。
絢香は歌い終わると荒い息を吐いた。異形の子供はもっと歌えとばかりに檻に手をかけ口をパクパクさせた。
「あ……」
絢香が声をあげる。
「絢香、どうしたの」
「この子、喋れないのよ」
異形の子供の部屋に来てから一年以上になるが、絢香は子供の声を聞いたことがなかった。時おり部屋を訪れる父親が子供に何事かを話しても、子供はただ頷くだけだった。
絢香は今まであまりに異形に対して無関心だったことに気づいた。なにやら申し訳ないような気がして、絢香は子供が満足するまで歌ってやった。
絢香が歌いやめると、子供は水とエサを代えてくれた。
翌日から異形の子供は朝に昼に夜に絢香たちの檻に近づいてきた。そのたび絢香は歌ってやった。一、二曲歌うと子供は満足して読書に戻る。そんな生活が二ヶ月ほど続いた。
異形の子供が水とエサを代えるとき、金の糸を大きく開いてほったらかす事が増えた。絢香は怖がって泣き、雷三は絢香を抱きしめあやした。その様子を見ていた異形の子供は檻を持ち上げると部屋を出た。
「いや……どこへいくの……」
震える絢香を雷三はしっかり抱き留めた。
異形の子供は廊下をすたすたと歩き、玄関をくぐり庭に出た。絢香は一年以上見ていなかった空を見て、ため息をついた。
灰色ののっぺりした空だったが、それでも大きく背伸びをしたくなるような解放感があった。異形の子供はたくさんならんだ石像の間をぐるぐると歩き回った。雷三は物珍しさに辺りをキョロキョロ見回した。
しばらく歩き続けた異形の子供はまた玄関をくぐり部屋へと戻ると、元のテーブルに檻を戻した。そのまま絢香たちに構うこともなく読書を始めた。
「なんだったんだ?」
雷三の呟きに絢香は首をかしげる。
「散歩……かしら」
雷三が首をかしげる。
「さんぽってなに?」
「外を歩くことよ。気分を変えたいときとか、暇なとき」
二人は首をかしげるばかりで解答は出なかった。
それから異形の子供は三日に一度は檻を抱えて庭を歩いた。ある時には檻を置き、空を眺めることもあった。
異形の子供が檻を脇に置き、庭でぼんやりしているときに、父親が玄関から出てきて門に向かったことがあった。子供は石像の影に隠れようとしたが、それより早く父親に見つかった。
父親は声を荒らげ子供を叱った。子供は檻を抱え、走って部屋に戻ると乱暴に檻を放り出し、寝床に突っ伏した。
「なんだ、あいつ。急に不機嫌になったな」
雷三の言葉に絢香は考え考え答えた。
「あの子は外へ出られないのじゃないかしら。いつもこの部屋にいたもの」
雷三は首をかしげた。
「友達、いないの?」
「どうかしら。見たことないわね」
異形の子供は寝床にうつ伏せるのに飽きたのか、檻に近づいてきた。金の糸を掻き分け、大きく開く。
絢香と雷三は顔を見合わせた。
子供は金の糸を開いたままにして寝床へ戻った。雷三はそっと檻の外へ足を踏み出した。
「……雷三、やめて」
絢香は小声で訴えたが、雷三はそのままテーブルの端まで歩いた。
「雷三……」
絢香の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、雷三はそのままテーブルから飛び降りると子供のそばへ駆けていった。
絢香は口を両手で押さえ、へなへなと力なく床に倒れ伏した。
雷三が、歌った。
それは絢香が聞き取ることができなかった言葉、雷三の故郷の歌だった。高く低く、どこまでも広い草原を思わせる歌だった。
雷三は歌う。
草原に駆ける馬を、飛び上がる鳥を、青い空を、自由な雲を。
異形の子供は半身を起こし雷三の歌を聞いていたが、ふ、と雷三に手を伸ばした。
「雷三!」
絢香が叫ぶより早く、雷三は子供の手の中に入り込んだ。そして子供の手のひらを撫でた。異形の子供は驚いたように手を引っ込め、雷三を見つめた。雷三が力強く頷くと子供は手を伸ばし、雷三に触れた。
異形の子供は雷三を抱きしめ声にならない声で泣いた。




