青い香りを
青い香りを
今年も春がめぐってきた。
公亮は棹を突いて小舟を止めた。水路の両岸には雪柳やレンギョウが盛りを迎え空気まで華やいでいるようだ。こんな日は、あの人のことを思い出す。
水郷と言われるこの町は縦横に水路が走り、そこを行く小舟は住む人の生活の足になっている。
船頭の家に生まれた公亮は歩くようになった頃にはすでに棹のさし方を覚えたほどで、小学校にも自分で小舟に乗って通った。
公亮が十になったばかりの春だった。朝から雨が降りそうでいつもよりも早く家を出た。家の裏口から直接、川に降りる石段を降り、もやいでいた小舟を放つ。まだ朝霧が晴れない早朝、音をたてないようにゆっくり進んだ。人のいない水路は穏やかで、時折船底がたてるギイという低い音が眠気を誘った。
ふと、一軒の家に繋がる石段に女の人が座っているのが見えた。ぺたりと座り込み、白く細い手で川の水を掻いていた。それは悲しそうに、苦しそうにも見えた。
美しい、人だった。長い髪が風に揺れ彼女の細い肩をさらさらと撫でた。その腰は抱き締めれば折れてしまいそうなほどほっそりとたおやかだった。
そんなことを思っていた公亮は彼女と目が合うと真っ赤になって顔を伏せた。彼女はそんな公亮に微笑み、手を振ってくれた。公亮は顔をあげられぬまま、急いでその場を去った。
次の日も公亮は早朝に小舟を出した。彼女は昨日と同じようにそこに座っていた。そうして公亮に手を振り見送ってくれた。
そんなことが数日続いた。ある朝、公亮は彼女の前で小舟を止めた。
「お、おはよう!」
叫ぶように挨拶した公亮に、彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みをくれた。公亮は恥ずかしさに顔を伏せた。
「あなたは毎朝、どこへ行くの?」
さらさらと頬を撫でるような声だった。彼女の声に公亮はどもりながらぽつぽつと話始めた。
それから毎朝、公亮は彼女と会話を交わし、次第に彼女の笑顔が増えた。
「ねえ、こちらに来る?」
彼女は唐突に公亮にたずねた。
「その船を下りて、私と来る?」
公亮は首を横に振った。公亮には船を下りた生活など考えられなかった。
彼女は寂しそうに笑うと公亮に手を伸ばし、そっと口づけた。初めて触れたくちびるは爽やかな緑の香りがした。
次の日、公亮がその場所にやってくると彼女の姿はなく、一本の柳がしだれた葉を風に揺らしていた。公亮は目を閉じて深く息を吸い込んだ。柳の香りは昨日の口付けを思い起こさせた。
それからしばらくして、その柳は伐られてしまった。
大人になった今でも、公亮は考える。あの日、彼女の言葉にうなずいていたら、どこへ行けたのだろうかと。彼女と共に誰も知らないところへ行けたのだろうかと。
けれど公亮は棹を操る。一さし、一さし、そのたびに、柳の香りを思いながら。




