さよなら。大輔。
さよなら。大輔。
私には兄がいる。
兄はうまれたときから死んでいる。
私がものごころついたころにはすでに、家にぶよぶよした腐った赤ん坊のようなものがいた。そのことを母に話すと泣き崩れた。それはきっと私の兄の「大輔」だという。
流れた赤ん坊。生まれなかった肉塊。
私はそのぶよぶよを「大輔」とよびはじめた。それ以来、大輔は私と共に育ちはじめた。
初めは弟ができたみたいでうれしかった。母に大輔の話をするといつも泣いてしまうので、こっそり二人だけで遊んだ。私が大好きなおままごとに、大輔はいつもにこにこと付き合ってくれて、私が作った泥団子を食べるふりをしてくれた。
「さと子、誰と遊んでるの?」
「ひみつ!!」
そんなやり取りで親が納得していた、なんとものんびりした時代。
私と大輔はそんなときに生きた。
私が初潮を迎えた日。下腹部が激しく重く痛む。トイレに向かっていく廊下に、大輔が半分すけた姿で立っていた。
大輔の体が変だ!?
なにがおきたかわからぬ私はかけより、その腕をとろうとして空をつかんだ。
そうだ。
大輔は死んでいたんだっけ。
大輔がいる毎日があまりにもリアルだったから、私は忘れていたのだ。
「さと子?どうかしたの?」
「なんでもない!!」
廊下の向こうからかけられた母の声に叫び返して部屋に駆け込み、ベッドに突っ伏して泣いた。
それ以来、私と大輔は離れて過ごすことが多くなった。
私は学生生活に忙しく、大輔はなにやら知らないが、一人で外出することが増えた。
そのころから、大輔は私の背をどんどん追い越し、それと同時にどんどん透けていった。
私が社会人になったころ、とうとう大輔は見えなくなった。
気配はある、大輔の気配。
私は何の姿も見えない闇に向かって話しかける。
「大輔」
耳には何も届かない。
気配がふえた。
大輔ともうひとり。リビングのソファにふたり並んで座っていることがふえた。ずいぶん仲睦まじいようだ。
しばらくすると気配がもうひとつふえた。ソファに座ったふたりに抱かれた、もうひとつのちいさなちいさなけはい。
母が泣き崩れた。私が子供を埋めない体だと知って。
先に泣かれてしまった私は、遣る瀬ない気持ちの行き場をなくし、リビングに呆然と立ち尽くした。
ふと、気配が動いた。大輔がおいでおいでしている。ソファに近づくと大輔は私に何かをさしだした。両手を出してうけとめる。
おもかった。
あたたかだった。
どこからかミルクのかおりがした。
やわらかく、たよりなく、けれど力強く。
両手に伝わる震えは、生命を謳うよろこび。
私はその震えに共鳴して、泣いた。
大輔とはそれ以来、会っていない。
ある日、みっつのけはいが玄関から出ていき、それっきり。
それっきり、会っていない。
私は反芻する。あの腕の重みを。
私が無くした未来の重みを。
知り得なかった幸福を。
そうしてひとり密かに空を見上げる。
この空の下どこかで、みっつのけはいがしあわせに、
幸せに生きていますように、と。




