台所
台所
母はいつも台所で料理をするとき機嫌よく鼻歌を歌っていた。
……というと、多少、語弊がある。
母は、機嫌が良い時しか、料理を作らなかったからだ。
そんな時なら鼻歌も出ようというものだ。
小さいころ、俺は大体いつも腹をへらしていた。
それでも運が良い日は母が小銭を投げ渡してくれ、俺はその小銭をつかんで近所のスーパーへ走り、一番安く、一番腹にたまるものを選んでむさぼり食った。
そんな日は本当にまれで、母は大抵、引っ張り込んだろくでなしの男たちになぐられて、不機嫌だった。
当時を思い出すと、よくまあ、ぐれなかったものだ、と自分でさえ不思議に思うが、
それは母の教育のたまものでは、もちろんない。
俺には、ただ一人、尊敬できる男がいた。
その男が俺に言ったのだ。
「いいか、ぼうず。どんな大人になってもいい。ただ、人様から後ろ指指されるような人間にだけはなるな」
俺は、ただ毎日をじっと耐え、中学卒業と同時に家を出た。
それから母とは一切、連絡を取っていない。
日雇いの現場で知り合った、大工のおやじさんに弟子入りして、今では自分の家を構える身分になれた。おやじさんには足を向けて眠れない。
未だ木の香りがする台所で、妻が鼻歌を歌いながら料理をしている。
結婚を考える時、いつも真っ先に頭に浮かんだのは「母みたいな女だけは駄目だ」という言葉だった。
しかし、結婚してみると、妻は母と同じように台所で鼻歌を歌っている。
もちろん、母とはちがって、妻は大抵、いつも笑顔だ。
俺はほんとうに、良い女とめぐり合えた。
ふと、妻が口ずさんでいるのが母と同じ曲だと気付いた。
そうだ、母も、いつもこの曲を歌っていたっけ。
どんな歌詞だったか……。
思い出そうとして、この曲を最初に聞いたのは、あの男が歌っていた時だと気付いた。
俺が尊敬する男。
ただ一人、母を殴らなかった男。
その男と一緒にいるときだけ、母は幸せそうだったのだ。
「なあ」
俺は妻に話しかけた。
「ん? なあに?」
妻は台所から、笑顔で顔を出す。
とても幸せそうな笑顔で。
「……母に、電話してみようかと思うんだ」
妻はおどろいた後、とびきりの笑顔で言ってくれた。
「きっと、お母さん、喜ぶと思うわ」
そうだろうか。
そうだといい。
俺が、尊敬するあの男のようになれたら。
母がもう一度、幸せそうに歌えたら。
「きっと、だいじょうぶよ」
妻はそういうと、また歌いながら台所へもどっていった。