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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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台所

台所

母はいつも台所で料理をするとき機嫌よく鼻歌を歌っていた。

……というと、多少、語弊がある。

母は、機嫌が良い時しか、料理を作らなかったからだ。

そんな時なら鼻歌も出ようというものだ。


小さいころ、俺は大体いつも腹をへらしていた。

それでも運が良い日は母が小銭を投げ渡してくれ、俺はその小銭をつかんで近所のスーパーへ走り、一番安く、一番腹にたまるものを選んでむさぼり食った。

そんな日は本当にまれで、母は大抵、引っ張り込んだろくでなしの男たちになぐられて、不機嫌だった。


当時を思い出すと、よくまあ、ぐれなかったものだ、と自分でさえ不思議に思うが、

それは母の教育のたまものでは、もちろんない。


俺には、ただ一人、尊敬できる男がいた。


その男が俺に言ったのだ。

「いいか、ぼうず。どんな大人になってもいい。ただ、人様から後ろ指指されるような人間にだけはなるな」

俺は、ただ毎日をじっと耐え、中学卒業と同時に家を出た。

それから母とは一切、連絡を取っていない。


日雇いの現場で知り合った、大工のおやじさんに弟子入りして、今では自分の家を構える身分になれた。おやじさんには足を向けて眠れない。

未だ木の香りがする台所で、妻が鼻歌を歌いながら料理をしている。


結婚を考える時、いつも真っ先に頭に浮かんだのは「母みたいな女だけは駄目だ」という言葉だった。

しかし、結婚してみると、妻は母と同じように台所で鼻歌を歌っている。

もちろん、母とはちがって、妻は大抵、いつも笑顔だ。

俺はほんとうに、良い女とめぐり合えた。


ふと、妻が口ずさんでいるのが母と同じ曲だと気付いた。

そうだ、母も、いつもこの曲を歌っていたっけ。

どんな歌詞だったか……。

思い出そうとして、この曲を最初に聞いたのは、あの男が歌っていた時だと気付いた。


俺が尊敬する男。


ただ一人、母を殴らなかった男。


その男と一緒にいるときだけ、母は幸せそうだったのだ。



「なあ」


俺は妻に話しかけた。


「ん? なあに?」


妻は台所から、笑顔で顔を出す。

とても幸せそうな笑顔で。


「……母に、電話してみようかと思うんだ」


妻はおどろいた後、とびきりの笑顔で言ってくれた。


「きっと、お母さん、喜ぶと思うわ」


そうだろうか。

そうだといい。

俺が、尊敬するあの男のようになれたら。

母がもう一度、幸せそうに歌えたら。


「きっと、だいじょうぶよ」


妻はそういうと、また歌いながら台所へもどっていった。

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