白髪
白髪
ある朝起きて鏡を見ると、そこには見知らぬ老婆が立っていました。
驚いて一歩下がりました。ガラス窓の向こうに知らない老婆が立っていると思ったからです。ガラスの向こうで老婆も一歩下がりました。私の姿を見て驚いています。
それはそうでしょう。私が見ているのはガラスではなく鏡なのですから。けれど、その時の私には、何が起きたのかわからなかったのです。
老婆を見つめたまま私は混乱して自分の髪に手を添えました。するとガラスの向こうで老婆も、髪に手を添えました。
私が驚いて手を離すと老婆が手を離します。
私は肩にかかる髪を一房手に取り、顔の前に持ってきました。その髪は、真っ白でした。いいえ、真っ白と言えるほど美しくはない。それは汚ならしく黄ばんでいました。私はのどを振り絞るような悲鳴をあげました。
「どうしたんだ!?」
部屋のドアを開け、見知らぬ老人が私の部屋に入ってきました。
「だれ!? あなた!?」
私が誰何すると老人は悲しそうな、どこか疲れたような表情を浮かべ、ひっそりと笑いました。
「私は、宮本博。覚えていないかな」
覚えているどころか、私は、その老人を見たこともありません。なぜ見知らぬ老人が私の部屋にいるのでしょう? もしや、老人の強盗?老人は私の考えなどお構いなしに話しかけてきます。
「君は、自分の名前がわかるかい?」
何を聞かれたのか一瞬わかりませんでした。私の名前? そんなことわかるに決まって……る……。
「名前が……ない……」
私は、呆然と立ち尽くしました。老人は私に近づいてきて私の手をとりました。そして優しく撫でました。
「大丈夫だよ。君のことは私が覚えているから。大丈夫だよ」
その声を聞いていると、本当に大丈夫な気がしてきました。私の心は落ち着きを取り戻し、その老人にむかい、ゆっくりと話すことができました。
「大丈夫、大丈夫ね、博さん。あなたは大丈夫だわ。安心して。私がついているわ」
そう、大丈夫よ。
そんな悲しそうな顔をしないで。
私は私のことを忘れてしまうけれど、あなたのことも、忘れてしまうけれど。
あなたがいれば大丈夫だわ。
そう……。
忘れても……。
あら、私、何を忘れてしまったのかしら?
「ねえ、あなた。私、なにか忘れている気がするんだけど…」
そう言うと博さんは寂しげに笑った。
「大丈夫だよ。私は、覚えているから」
私は、なにか嬉しくなってにっこりと、目の前の老人に笑いかけた。




