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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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北風

北風

 霊安室の前にぽつんと一つ長椅子が置いてある。和江は沈みこむようにその椅子に座りこんだ。

 ここまで案内してくれた看護師はとうに姿を消していた。和江はぼんやりと霊安室の扉を眺める。中に入る気にはなれなかった。

 

 迷惑ばかりかけられた。

 仕事もせず酒を飲む事しか能のない父を、母は見捨てる事ができず、五十二で死ぬまで養いつづけた。和江は早々に実家から逃げ出していたから母の体調の変化に最期まで気付けなかった。母の葬儀に父は参列しなかった。来ても和江が追いかえしていただろう。葬儀が終わり十数年ぶりに帰った実家で、父は飲んだくれていびきをかいていた。


 父が死んだと連絡を受けたのはそれから二年ほどあと。

 和江は暮らしている隣の市から鈍行で、連絡が来てから半日後にやっと姿を見せた。

 会計で入院費用を支払い、葬儀社に連絡をとった。葬儀も供養もしない直葬を契約して、霊柩車を待った。


「縄田和江さん?」


 呼ばれて振り返ると、白衣を着た若い医師が立っていた。


「はい……。そうですけど」


「これ、どうぞ」


 医師は手にしていた白いビニール袋をさしだした。受け取ると中には肉まんが入っていた。


「お父様から預かりました。娘さんが来たら渡してくれって」


 和江は手の上の冷めきった肉まんに顔を顰めた。医師は踵を返し、階段を上っていった。

 和江は霊安室の扉を乱暴に開けると、遺体の枕元へ猛然と進んだ。二年ぶりに見る父の顔は黄色く、ぶよぶよとむくんでいた。和江はその顔に向けて肉まんを投げつけた。肉まんはべたりと顔に張りつき、くずれて中身が枕の上にこぼれた。立ち上った肉の臭いに和江は吐き気をもよおし、霊安室から駆け出した。


 小学生の頃、一度だけ父と公園へ遊びに行ったことがあった。寒い日だった。和江はマフラーも手袋も持っていなくて、ジャンパーのポケットに両手をつっこんでいた。


「和江、肉まん買ってやろうか」


 父がそう言ってコンビニに足を向けた。和江は父から何かを買ってもらったことなどなかった。わくわくしてコンビニの外で待っていた。店から出てきた父は、手に小さな酒のパックを持っていて、和江のことなど目に入らない様子で歩き去った。

 和江はそれ以来、肉まんを口にしたことは無い。


 葬儀社がやってきて棺に遺体を入れる時、肉まんの欠片をどうするかと尋ねられた。和江は無言で首を振った。結局、それがどうなったのかわからないまま和江はタクシーに乗り、火葬場に向かった。棺が火葬炉に入る直前、遺体を確認するように乞われ棺の小さな窓から中をのぞいた。父の枕元には、できるかぎり原型にもどそうと苦心したであろう肉まんが添えられ、父の顔は綺麗に拭われていた。


「どうして……! お前だけ!!」


 和江は棺を殴りつけた。何度も何度も。火葬場の職員に腕を掴まれ制止されるまで何度も。


 火葬がすんで出てきた骨は黒ずんで、木の箸でつかもうとすると形も残さず崩れた。箒とチリ取りで掻き集められた灰を骨壷に入れる時、和江の頬にひきつった笑みが浮かんだ。和江は執拗に最後のひとかけらまでチリ取りに乗せた。


 実家は惨憺たる有様だった。物が散乱し足の踏み場もない。そこここに吐瀉物がへばりついて異臭を放っている。唯一の救いは食物がほとんどないため蝿があまりいない事だった。

 和江は木箱から骨壷を取り出すと床に投げつけ粉々に砕いた。灰を部屋中に撒き畳を黒く染めた。思うさま撒き散らすと、喉の奥から笑いが込み上げてきた。和江は体を二つに折り、狂ったように笑った。いつまでも笑い続けた。


 扉と門に鍵をかけると、駅に向かい歩き出す。髪も服も汚れてぼろぼろだった。ほぼ丸一日なにも口にしておらず、体がボロ雑巾になったように感じた。駅のトイレで手と顔を洗い、見上げた鏡に映る自分は死んだ時の母にそっくりだった。


「ふ……、ふふふ」


 浮かんだ笑いも、母に似ていた。


 プラットホームに立つ。強い北風に吹かれ、コートのポケットに両手をつっこむ。ふと、ポケットの中、かさかさという感触がしてそれを引っ張り出してみた。病院で受け取った肉まんのビニール袋だった。


「結局、私は逃げられないのね。死ぬまで」


 和江はビニール袋を握りしめ、コートのポケットに手を入れた。

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