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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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天上の音楽

天上の音楽

   『めぐみ音楽教室』


 703号室のポストに書いてあるその名を、僕はうっとりと見つめる。エレベーターに乗り、階数ボタンを押そうとして慌てて手を引っ込める。『7』というボタンを押してしまいそうになった。僕の住まいは603号室なのに。703号室に行きたいという強い思いが、いつも僕の手を勝手に動かしてしまう。


 このボロビルに引っ越して半年。

 最初は家賃が安いだけで取り立てて良いところは無いと思っていたこのビルは、案に反してとても素晴らしかった。静かで治安もよくコンビニも近く、今では申し分なく胸をはって、ここはマンションだと言えるようになった。


 その静かな僕の城を脅かす存在が現れた。僕の部屋のちょうど上、703号室のピアノの音だ。毎日、夕方になると、へたくそな音がくりかえしくりかえし、何度も何度も演奏される。いや、それは演奏などという良いものではなかった。騒音。そう言った方がしっくりくる。

 それが日々くりかえされ、とうとう僕はキレた。掃除機のノズルをつかみ、天井に突き上げようとしたその時。


 天井から音楽が降ってきた。


 それは清らかで、やわらかで、そっと頬をなでられたような懐かしさを覚えさせた。僕は掃除機のノズルを静かに床に下ろすと、天井に向かって耳をすませた。その音楽は1フレーズだけで終わってしまい、それからはまたあの騒音が聞こえ出した。いや、あの音楽を聞いてからならわかる。これは騒音なんかではない、子供が一生懸命、練習しているピアノ曲だ。その拙い演奏にも、心は表れるのだということを僕は初めて知った。


 それ以来、僕は夕方を心待ちにするようになった。けれどいつも聞こえてくるのは子供がたどたどしく弾く練習曲ばかり。めぐみ先生のお手本らしい、あの素晴らしい音楽を聞けるのは週に一回あるかないかだった。

 それでも僕は彼女の音楽を体中いっぱいに浴びた。

 ショパンのソナタは軽やかな羽のように、バッハのメヌエットは朝日のように華やかに。いつも僕は彼女の心に触れていた。


 けれど、僕はめぐみ先生の顔も知らない。引っ越した時に近隣に挨拶に行かなかったことが悔やまれる。だってこんなボロ1DKにこんな素敵な出会いがあるなんて思わないじゃないか!

 いっそ今からでも引っ越し蕎麦を持って挨拶に行くべきか? いや、いくらなんでも今さら……。まぬけすぎる。

 でも、どうしても一目だけでも会いたい……。会いたい!!


 思いが高じた僕は、財布をひっつかむと花屋に駆け込んだ。めぐみ先生の音楽にあう花はオレンジのスイートピー、ピンクのトルコキキョウ。店にあるだけ全部を花束にして、ビルに駆け戻ってエレベーターの『7』のボタンを押した。エレベーターが7階につき、その扉が開ききる前に僕は狭い箱から転がるように走り出た。


「めぐみせんせー、さようならー」


 元気よくあいさつした子供が703号室から出てきた。僕はその子とすれ違い、閉まりかけた扉に手をかけた。

 そうして目をつぶり、両手で花束を差し出した。


「めぐみ先生! あの、僕、603号室の者です! いつもピアノ聞いてます! ファンです!」


「え? わあ、うれしいなあ」


 僕は驚いて目を開ける。


「ファンだなんて……。それに花束まで!」


「……めぐみ先生?」


 目を開けた僕の目の前には、長身のイケメンが立っていた。


「はい?」


 イケメンが満面の笑みで返事する。


「あの……。フルネームを教えてもらっても?」


「めぐみあきのり、ですけど」


「……あきのりさん」


「はい」


 僕はぼうっとあきのりさんの顔を見つめ続けた。あきのりさんは笑顔で僕に一枚の紙を差し出した。


「あ、そうだ。良かったらこのチケット、どうぞ」


「チケット……」


「ええ。夜はナイトクラブでピアノを弾いているんです。ぜひ聞きに来て下さい」


「ナイトクラブ……」


「夜はジャズなんかも弾きますよ」


 こうして僕の新しい扉は開かれた。

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