歌をあげよう
歌をあげよう
「太一、村主さまのお屋敷には近づいちゃ、なんねえぞ」
この村に越して来て、一番最初に言われた言葉だ。
「ムラヌシさまって?」
「あそこの山ぎわのおおっきなお屋敷だ。村主さまのお屋敷には生き神様がおらっしゃる。近づけば祟りがあるぞ」
太一は、よくわからなかったけれど、「わかった」と返事をした。おっとうとおっかあが病気で死んで、おっかあの里に住む伯父の家にやっかいになる身なので、大人しく言うことに従がうしかなかった。
伯父の家には子供がいなかったので、太一はずいぶん、可愛がってもらえた。家の仕事の薪ひろいさえキチンとすれば、思う存分、遊べたし、ごはんもハラいっぱい食えた。
ただ、村の子供は皆、どこかよそよそしく、太一は次第に、一人で遊ぶことが多くなった。
ある日、太一は村はずれの山すそに、野いちごを摘みに行った。
今年は野いちごの当たり年で、おもしろいほどよく採れる。持ってきたカゴはみるみる野いちごだらけになる。太一は次第に山の奥へ、奥へと斜面をのぼって行った。
ふと、顔をあげると、崖の下に瓦屋根の屋敷が見える。このあたりで立派な瓦屋根をもっているのは、村主の屋敷だけだ。太一はものめずらしさに、崖に近づいていった。崖から、格子の嵌まった窓が半分だけのぞいている。
崖っぷちに膝をつき、カゴを置いて中をのぞきこんだ。窓の中の人と目が合ったとたん、太一は「村主さまの屋敷に近づくな」と口を酸っぱくして言われたことを思い出した。
(怒られる!)
太一は、とっさに逃げ出した。が、屋敷の中は相変わらず、しん、と静まっている。
(気付かれなかったのかな?)
そっと、屋敷のほうへ戻ってみる。
窓から、小さな女の子が、ものめずらしそうに、こちらを覗いていた。太一と同じくらいの年頃だろうか。まっしろな肌で桃色のほおの、かわいらしい女の子だ。
太一は思わず声をかけた。
「よう。おまえ、村主さまんとこの子か?」
女の子はビクっとして、目をまん丸にして太一を見ている。人見知りする子なのかもしれない。太一は、ニッコリ笑って、つづけた。
「おれは、太一っていうんだ。今年、村に来たばっかりなんだ。……おまえ、もしかして、しゃべれないんか?」
女の子は、ただ太一の言葉を目を丸くして聞いているだけで、一言も声を発しなかった。
「そっか、ごめんな、勝手にぺらぺらしゃべって。そうだ、野いちご食うか?今年のは甘いぞ」
太一はカゴから、とびきり大きな野いちごを取り出すと、格子越しに、女の子に差し出した。女の子は一歩あとずさったが、太一が笑顔で、もう一度、差し出すと、おずおずと野いちごを受け取り、口に入れた。パッと笑顔が広がる。
「そうか、おまえも野いちご好きなんだな。おばさんも大好きなんだ。だから採りに来たんだけど……もう少し、食うか?」
太一がもう1房差し出すと、今度は女の子はすぐに受け取り、口いっぱいに頬張って食べた。そして、また、ニッコリ笑った。太一は嬉しくなって早口で女の子に喋りかけた。
「また、明日、野いちご採って来てやるよ!一度にたくさん食べたらハラこわすからな。じゃな!」
それだけ言うと、太一はカゴを持って、駆けて帰った。
伯父の家に戻ってからも、太一はなんだか、そわそわしていた。
「なあ、おじさん、村主さまんとこには、子供は何人いるの?」
「いや、村主さまは子供をお持ちじゃない」
「え? だって……」
あやうく、今日のことを話しそうになって、太一は言葉を飲み込んだ。近づいてはいけないと言われたのに、うっかり近づいて、家の子と会いまでした。ばれたら、ぜったいに怒られる。
「だって、なんだ?」
「いや、なんでもない……」
太一は、もごもご言ってごまかした。伯父さんはヘンな顔をしていたが、
「いいか、太一、村主さまのお屋敷に、ちかづいちゃあ、なんねえぞ」
と、いつもの言葉を繰り返しただけだった。
太一は次の日も、伯父の言いつけに背いて、崖に行った。窓からそっと覗いてみると、今日も女の子はそこにいた。こちらに背を向けて、お行儀良く座っている。
太一が声をかけようと口を開いた時、女の子のそばに大人が近づいてくるのが見えた。びっくりした太一は急いで壁の影にかくれ、格子のすき間から中を覗いた。
口元を大きな布で隠した女の人が、お膳をささげもって、女の子の前に座る。お膳を置くと、女の人は深々とお辞儀をして行ってしまった。女の子はお膳に載った茶碗の中の液体を飲んでいる。
太一はもう一度、窓の中を覗き、女の子が一人きりなのを確かめると、声をかけた。
「よう」
女の子が、パッと振り向く。嬉しそうに笑うと、立ち上がって、窓際にやってきた。
「今、大人の人がいたから、びっくりした。何飲んでるんだ?薬か?」
女の子は目をまん丸にしているだけだ。だが、心なしか、その目がとろんと眠たそうだ。
「まあ、いいか。ほら、今日も野いちご、持って来たぞ。食うか?」
太一が差し出すと、女の子は嬉しそうに受け取ると、ぺろりと食べた。それから毎日、太一は木の実や花を摘んでは女の子に会いに行った。
伯父も村の人も何も言わなかったが、村主の屋敷に子供がいることは秘密のことらしい、と幼い太一にも理解できたので、女の子のことは誰にも話さなかった。
ある日、また太一は崖に来て、女の子と遊んでいた。太一が口笛を吹いて鳥のマネをしてみせると、女の子はビックリして目を丸くする。
「そうだ、話せなくっても、口笛なら吹けるんじゃないか? やってみろよ。口をこう、丸くして……」
格子越しに、太一は一生懸命、教えた。女の子は見よう見まねで口をとがらしたが、とうとう音は出なかった。
くたびれて女の子が座り込んだので、退屈になった太一は、故郷の子守唄を歌いだした。女の子はピョコンと立ち上がると、不思議そうに歌う太一を見ている。
「おれのかあちゃんが、よく歌ってたんだ。この歌なら誰にも負けない。もう一度、聞くか?」
女の子は首をたてにふった。これも、太一が教えたことだった。
「そうだ」というときは縦にふる。「ちがう」という時は横にふる。女の子は、そんなことも知らなかった。
太一は女の子が納得するまで、なんどもなんども同じ歌を、歌ってやった。
太一が帰ってしまってから、女の子は一人、口笛を吹く練習をした。口を丸めて、ふーふーと息を吹く。しかし、音はちっとも出なかった。
がちゃん、と重い音がして、扉の錠がはずされる。女の子は、ハッとして居住まいを正す。きちんと座っていないと、容赦なくお尻を打たれるからだ。口元を布で隠した女が、お膳をささげもって入ってくる。また、あのニガイものを飲まなければならない。
女の子は、お膳で出されたものは、なんでも、飲み込んでしまわなければいけなかった。そうしなければ、いやというほど打たれた。
それでも、あのニガイものだけは、なんとかして飲まずに済ませたかった。ニガイものを飲むと、頭の中がぽわんとして、自分が自分でなくなるように感じるから。
(お膳に載ってくるのが、全部、太一が持って来るものだったらいいのに……)
女の子は言葉にならない考えを頭の中でくるくるしたが、女がお膳を置くと、大人しくニガイものを飲んだ。
茶碗の中身を飲み干、陶然とした女の子の目の前で、口元を隠した女は手を振って見せた。
女の子は、ぴくりともしない。
女はお膳と茶碗を持つと、部屋から出て行き、がらがらがらと重い扉を閉めると、南京錠をかけた。
「どうだ、イキガミ様は? そろそろお出でになれそうか?」
廊下の奥から重い男の声がした。女はぺこりと頭を下げると、報告する。
「すでに、カミオロシの薬は行き渡っております。いつでもカムヨにお出でになれます」
「では次の新月の晩、降神式をおこなう」
「はい……」
男は座敷牢の中を見ることもなく歩き去った。
女の子は、それから二時間おきにニガイものを飲まされた。眠っていても容赦なくたたき起こされ、ニガイものを飲んだ。次第に、女の子の頭の中は霞がかかったようにモウロウとしてきて、起きているのだか、寝ているのだか、わからなくなった。
(太一に会いたいな……)
あるとき、ふと女の子はそう思い、口を丸めてふーふーと息を吹いてみた。口笛はならなかったが、そばで見ていた口元を隠した女がハッとして、急いで部屋から出て行った。
「口笛を吹こうとしていた? ……一体誰が、イキガミ様に、そんなことを教えたというのだ? 村の者なら誰一人、この屋敷には近づかないはず…」
「わかりません。しかし、たしかに、明らかに、口笛の所作を……」
「そういえば、五作の家に、よそ者の子供が来たといっていたな。歳はいくつだったか?」
「五歳です」
「トシガミ様と同じか。五歳なら、物の道理もわかかるまい。ここまでやってきたかも知れぬ。五作の家に行くぞ」
太一は晩飯も食べ終え、早々と布団にもぐりこんでいた。
と、夜ふけたというのに伯父の戸を叩く者がある。戸がはずれんばかりの勢いで太一は何事かと飛び起きた。
伯父は戸を開けると「これは村主様!」と言って部屋の中に一歩二歩退いた。
「よそから来た子供はどこだ?」
村主は、そう言いながらずかずかと入ってきて、布団の上に起き上がった太一を見つけた。だまって太一に詰め寄ると、太一のエリ首をつかみネコの子を持ち上げるように抱え上げた。
「む、村主様 !太一は何も知りません!!」
村主はチラリと伯父を横目で見たが、そのままスタスタと家から出て行った。太一は着物で首が絞まって、苦しくて苦しくて、バタバタともがいた。
「おい、お前は口笛が吹けるか?」
とつぜん、村主が太一を地面に降ろし、聞いた。太一は急いで息を吸いながら、こくこくとうなずいた。
「やはりな」
それだけ言うと、村主は、また太一を抱え上げ、引きずるようにして屋敷まで連れて行った。
村主が太一を土間に放り出さす。太一は、急いで息を吸った。ここへ来るまで、まともに呼吸ができなかったのだ。
荒い息をする太一のそばに、誰かが駆け寄って、太一の背中をさすった。小さな手。太一は必死で顔を上げる。
あの女の子が、そこにいた。心配そうな顔で太一を見下ろしている。呼吸が整った太一があたりを見回す。どうやらここは崖下の、女の子がいつもいる部屋らしい。
村主は廊下に立っていた女から一振りの太刀を受け取ると、女の子に無理やり握らせた。女の子はびっくりして逃げようとしたが、村主はがっしりと女の子の両手を握って逃がさなかった。
村主が言う。
「フリフリテフリワケルベシワガケガレフリオトスベシ。さあ、イキガミ様、ご唱和を」
女の子は、首を横に降る。何度、村主が言って聞かせても、首を横に振り続ける。村主は、女の子から手を離すと、太一の顔を殴った。何度も、何度も、何度も。太一は泣き叫んだが、村主は、ただ殴り続けるだけだった。太一の顔は血まみれになり、やがて、叫び声もしなくなった。
「ひゃあああああ……」
女の子が、声にならないような声で叫んだ。両の目から涙をぼろぼろ流している。村主は、そばに置いた太刀を拾うと、女の子の手に握らせた。村主の手は太一の血にまみれていて、女の子の手の甲の上でぬるぬるとぬめった。
「フリフリテフリワケルベシワガケガレフリオトスベシ」
村主の言葉を、女の子はかすれた声で繰り返した。
「ふりふりてふりわけるべしわがけがれふりおとすべし…」
女の子が言い終わった途端、村主は女の子に握らせた太刀を太一の胸に突き立てた。太一の体はビクン、と大きく痙攣し、その震えが全身を覆い、やがて動かなくなった。
女の子は、そのすべてを、太刀を握りしめた両手で感じていた。
「きいやああああああああ」
つんざくような叫び声を上げた。
闇夜。
月が昇らない夜、山の奥の祠は、まったき闇につつまれる。
真っ白い衣をまとったイキガミだけが、ぼおっと、かろうじて見えている。村人すべてが見守る中、イキガミは降神の祝詞を唱え、山の木々がザワザワと風もないのにざわめきだした。
天に。
真っ暗な天に。山の頂から、闇よりも暗い何かが降りてくる。それは人々の心に不吉な波を立たせる。村人たちは今にも頭上に落ちて来ようとするその闇を恐れ、深く地に伏した。
イキガミはただ、祝詞をとなえつづけ、その暗い暗い闇に飲まれようとした瞬間。
歌を、歌いだした。
突如止んだ祝詞にとまどったのか、それとも歌に酔いしれたのか、山から降りてきた闇はのたうった。
イキガミは構わず歌を歌い続けた。
彼女が知っている、ただ一つの歌を。太一が歌っていた歌を。くりかえし、くりかえし。
闇はますますのた打ち回り、とうとう山肌に向かい、体当たりをした。
どおおーん、と低い音がしたと思うと、崖がぐらぐらと揺れ、崩れ落ちた。
太一が通ったあの崖が、後形もなく崩れ落ちた。それでもイキガミは歌い続けた。
「この……やめろ!! このガキ!!」
村主が飛びついて首を絞めてもイキガミは歌い続け、闇は暴れまわった。山肌にその闇のような体をぶつけ、のたうち、惑った。
ついに山はガラガラと崩れ落ち、村主も、村人も、イキガミも、すべてを飲み込み、流れ去った。
けだるい昼下がり、民俗学の講義を聴いているものはいない。皆あくびをかみころし、あるものは露骨に居眠りして聞き流している。
「以上が、この地方に伝わる伝説ですが、この歌が、なぜか隣県のある村に残っていました。ですがすでに、この歌を知っている人は高齢で亡くなってしまい、今は誰も歌い継ぐ人はいません。私が採集した最後の音源を聞かせます」
カセットテープが再生され、老婆が歌う歌が陽だまりに流れる。
物悲しいような、それでいてやさしい旋律に、かろうじて目を開けていた学生も、眠りに落ちていく。
それは、太一が歌った、あの歌だった。




