海に降る雪
海に降る雪
母が消えたのは、雪が舞う冷えた日だったことを覚えている。
私は母に手を引かれ、海岸沿いの道を歩いていた。
「りょうちゃん、聞こえる? 雪の音。海に雪が降るとね、シュッて音がするの。海に消えるしかない雪が悲しくて泣くのよ」
母はそう言うと私の手を引いたまま、波打ち際へ進んだ。母も海に消えたいのだろうか? そう思ったことを覚えている。
私の記憶はそこで途切れ、覚えているのは雪が海に触れたシュッという音だけ。
「お前の母親は男を作って出ていったんだよ」
海の話をすると父は決まってそう言った。
けれどその口調は悔しそうでもなく、恨みがましくもない。ただ淡々と情報だけを伝える言葉。父は泣くことはあるのだろうか。父の背中は何も伝えてこない。ただその時だけは、父は私を殴らなかった。
今年も雪が降る。
海に落ちて泣く。
私は海岸を歩く。
私は母に会いたいのだろうか。わからない。私の心は何も伝えてこない。
雪が泣く。
海の上を遥かに見渡す。 雪はどこまでも降りしきり、灰色の海に融けていく。白い雪がいくら降っても海が白くなることはない。
本当に?
もしかしたら、海底に雪は白く積もっているのかもしれない。
私は波打ち際へ進む。そのまま海へ入っていく。波が膝を洗う。肌が引っ掛かれたように痛む。それでも止まらず歩いていく。
足が砂につかなくなった頃、波の下に潜ってみる。
雪だ。
岩礁の上にこぽこぽと白いものが見える。海底から海面まで白いものが乱舞する。それはもしかしたらただの気泡だったのかもしれない。
けれど、ああ、本当に海の中、雪が降っていたんだと。私はその雪を手のひらで包んだ。雪はシュッと音をたてて消えた。
母さん、母さん、
雪は悲しくて泣いていたんじゃなかったんだ。
海に帰るのが嬉しくて、よろこびで泣いていたんだ。
ああ、帰ろう。私も、海へ。
私は海底にむかい、手を伸ばした。
雪が波に落ちるシュッという音だけが耳に残った。