影
ひっくひっくと喉を引き攣らせながらしゃがみ込んで泣いていた子供の背に人の形をした影が映った。
「ねぇ、きみ、なんで泣いてるの」
小さく肩を震わせる子供は問いかける声に気付いていないのか、縮こまったまま泣き続ける。
子供の背に映った影の頭が不思議そうに傾いた。
「ねえ」
泣いている子供を覆うほどに大きくなった影は片方の足を持ち上げた。
「ねえって言ってんじゃん」
丸まった背中を思い切り蹴り飛ばした影は仁王立ちをして砂場に転がった子供を見る。突然のことに涙が止まってしまった子供は呆気にとられた顔で影を作っている人物を見上げる。
「……なんだ、泣いてないじゃん。うそなき上手だね」
呆然と見上げたそこには、子供と同じくらいの男の子が立っていた。
男の子は無表情で子供の顔を見ている。しばらくの沈黙のあと、子供が言った。
「だれ?」
男の子は即座に突っ込んだ。
「いや、そっち?」
いきなり何をするんだって怒るか、砂だらけになった自分を見て泣くか。普通はどっちかだと思うんだけど。
********
「あーあ、あの頃の春はすっげー可愛かったのに」
大げさにため息をついた少年は隣でコーヒー牛乳を飲みながら教科書を読んでいる少年の左耳を引っ張った。
「いっ!? 耳、耳引っ張んな、千切れる!千切れるって!ちょ…、冬海っ!」
ぜいぜいと肩で息をしながら耳を左手で隠した少年――春は、半分泣きそうになりながら耳を引っ張った少年、冬海を睨みつける。飲みかけのコーヒー牛乳が床に落ち茶色の水溜りを作っていたが、そんなことを気にしてなんかいられないとばかりに耳を隠している手と反対の手に握り締めていた教科書を広げ始める。
明日はもう期末テストなのだ。
ぶつぶつと数式を呟き始めた春を見て面白くないと言わんばかりに目を細めた冬海は春の髪を引っ張って遊ぶ。春は眉間に皺を寄せながらもそれを無視していた。
けれど、だんだんと力の強くなってゆくそれに我慢しきれなくなったのか教科書の方を向いていた顔を上げた。
ぶち。
「……ぶち?」
「あ、髪取れた」
冬海の握られた手のひらの中に、束になった髪が納まっている。
ひくりと頬を引き攣らせた春は恐る恐る自分の頭に手を乗せて、確かめるように動かしてゆく。どこも禿げていないのを何度も何度も確認して、がくりと頭を力なく項垂れさせた。
「お前…この歳で禿げたらどうしてくれるんだよ」
疲れたように言う春の姿を見て目を丸く――とはいえ、長い付き合いである春しかわからない程度の変化だが、一応そんな反応をした冬海は一人頷いて握った手のひらの親指を立てた。
「俺が貰ってやるから安心しろ」
「いや、男だから。俺たち男同士だから。つーかそういうのはいっつも告白してくる女の子たちに言ってあげれば良いんじゃねーの?」
そう。冬海は無表情のくせに女子に人気があるのだ。いやむしろそこが良いらしいのだ。
そういう女子の会話を聞くたびに春は、無表情ってそんなに格好いいのか?とか、トランプのばばぬきをやるときは得だよな、とか思ってしまう。
だがそれと同時に春は思い出す。
実際は、冬海って別に無表情じゃないよなぁと。
それがわかったのは自分達が知り合って一緒に遊ぶようになった数日後のことだったのだけれど。
********
春はこの町に引っ越してきたばかりで友達がいなかった。そのうえ極度な人見知りだった所為もあり、同い年くらいの子供の輪の中に入っていくことが出来ずにいた。
公園に行っても一人でブランコをして、日が暮れたら帰る。それの繰り返し。
寂しかったけれど家に帰ったら自営業をしているお父さんたちの邪魔になってしまう。お父さんもお母さんも仕事で忙しいのに、自分の所為で余計なことに時間を費やさせることは嫌だった。
それに春はわかっていた。
仕事が早く終われば早い分だけ自分と遊んでくれる時間が長くなることを。
「春」
でも、そう思っていたのは数日前までのこと。
今はもう友達が出来たから寂しくなんてなかった。
「!冬海くん、今日は何して遊ぶの?」
にぱっと花が咲くように笑った春は冬海の元へと駆け寄る。無表情で春の手を握った冬海はそのまま、公園の奥の方にある大きな木の前まで歩いた。
まだ小さい二人が見上げたその木は驚くほど大きくて、だからその木のてっぺんまで行けたらどんなに美しい景色が広がっているんだろうと興味を持ってしまった。
子供は興味があると何でもそれを実行しようとする。
だから今回も、そうだった。
小さい手のひらを木の凹凸に上手く引っ掛けては少しずつ少しずつ上に登ってゆく。運動神経の良い冬海は既に数本にわかれた枝の内の一本に腰掛けて春を待っていた。
上手く凹凸に引っ掛からなかった春の足が滑って膝に擦り傷を作る。突然走った痛みに驚いて春の手から力が抜けた。
「春っ!?」
上の方から冬海の叫び声が聞こえる。一瞬の浮遊感。
落ちていることより、膝の傷より、傷だらけで血だらけの手のひらより、大変なことだった。
春にとってそれは、何よりも大変だと思ってしまうことだった。
冬海くんを、泣かせちゃった――…。
背中を襲った激しい痛みで遠のいた意識の中、春は呟いた。
「…!…し……ん、しゅんっ、起きてよ、春ッ!」
悲痛な叫びに春は目を覚ました。
目の前にはお父さんとお母さんと、知らないおじさんとおばさん、それとぼろぼろ涙を零す冬海がいた。
「おと、さ…おかあ、さ………ぼく…?」
ぼんやりとする頭で春は必死に記憶を辿っていた春は、足を滑らせて怪我をしたこととそれに驚いて木から手を離してしまったこと、そしてその所為で冬海を泣かせてしまったことを思い出した。
「とうみ、くん…?」
不思議そうに春が冬海の名前を呼ぶ。
震える手で春の手を握る冬海の真っ赤になってしまった目があまりにも痛々しかった。
「ごめんっ、ごめんね。俺が、あんなこと言わなかったら…っ、木登りしようなんて、言わなかったら…ッ」
春は怪我なんてしなかったのに。
泣いている所為でつっかえつっかえになってしまったその言葉。いつも無表情で転んでも泣かなくて、凄く格好良いと思っていた冬海の泣きながらの懺悔。
春はそれに怒ることも悲しむこともなく、ただ目を丸くして答える。
「別に冬海くんは悪くないよ?だって怪我しちゃったのは、ぼくが足滑らしちゃったからだし、ぼくだって木に登りたかったんだもん。えーっと…そう!じぎょうじえる、だよ」
最後にわけのわからない単語を叫んで笑った春を見て、今まで泣いていた冬海もつられて笑った。
「それを言うなら自業自得でしょ」
もちろん突っ込むことも忘れずに。
********
ああ、自分の頭の悪さはあのときからだったのか。
思い出して少し空しくなる。まさか自業自得を読み間違えた挙句、それを堂々と親や冬海、それに冬海のおじさんたちの前で叫んでいただなんて恥ずかしくて堪らない。
「あー…冬海が忘れてて良かったー」
憶えていたらどんな風にからかわれていたことか。考えるだけで背筋に悪寒が走る。
「ん?何を?」
突然覗き込んできた顔に驚いて後ろにあった壁に頭をぶつけたけれど、地味に痛むけれど、多少涙目になりながら春は答えた。
「なんでもない」
「なんでもないわけないだろ」
両頬を左右に引っ張られる。
「べ、別に…ちょっと昔のこと思い出してただけ」
納得したのか諦めたのか冬海は手を離した。赤くなった頬がやはり痛かった。
「もう日が暮れるね」
赤く染まり始めた空を見て冬海は目を細める。――この空を見るといつも思い出してしまう。
自分の所為で隣にいる大切な友人を傷つけてしまった幼い頃のこと。
あの日、木登りをしようと誘った所為で木から滑り落ちた春が地面に転がっていた石で頭を切って気を失ってしまったこと。
そのときに頭から止め処なく溢れてくる真っ赤な血にどうしたら良いのかわからず泣くしか出来なかったこと。
病院で意識を取り戻した春が笑いながらこれは自業自得なんだと言おうとして言い間違えたこと。
「もうこんな時間かぁ…て、え!? 俺テスト勉強出来てないっ」
慌てふためく春を見て嬉しそうに微笑んだ冬海は大げさにため息をついて言った。
「仕方ないなあ。おばかな春の為に俺が一肌脱いでやるとしよう」
大きく目を見開いた春は冬海の手を握って腕がもげそうなほど激しく上下に振った。
「ほんとか!? お前、勉強しないくせに頭良いもんなっ!よっしゃ、今日は徹夜だ」
歯を剥き出しにして本当に嬉しそうに笑った春は悪気なくさり気なく結構酷いことを言った。
勉強をしないで頭が良くなるわけがないだろう。こう見えても冬海は毎日こつこつと勉強をしているのだ。
「そういや久しぶりだよな、お前ん家行くの。おばさんの料理美味しいし、楽しみだなー」
「お前自分が勉強しに来るのわかってるか?ぜってーわかってねーだろ」
夕日に染まった空が長く長く繋がった二人の影を見ていた。
かもしれない。
初めて投稿した短編小説です。
最近書いてるものが全部暗くなってしまうので、少し(?)明るい話を書いてみました。
ちゃんと明るい話になってるかどうか、よろしければ教えてください。