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5 旅立ちの舞台


 『神』は姿を消した。


 雄大な自然と彼方まで広がる蒼穹を、晃はじっと眺めていた。世界樹の根元に座り込み、長い息を吐く。

 『神』は姿を消す直前、ご丁寧に人里のある方向を示してくれた。ここから南にまっすぐ数十キロ。この世界に浮かぶ太陽は、ほぼ晃が元いた世界と同じ軌道を描くという。

 晃の服装は温泉旅行に出かけていたときのままだ。何の変哲もないシャツとジーンズとスニーカー。とてもではないが、未開の大地を踏破する装備とは言えない。しかし『神』は終始楽しそうに笑っていた。

『さあ、見せてください。この広い地平で、愛する者のために世界樹を創り出していくあなたの姿を、この我に』――あの台詞を聞いて確信したことがある。

 『神』が言う『特別』は、何も晃を優遇するという意味だけじゃない。おそらく他の転生者たちが経験することもないような厳しい環境に、敢えて晃を放り込もうとしている。獅子が我が子を(せん)(じん)の谷に突き落とすような愛のあるものじゃない。蟻地獄に落とした虫が足掻く様を目を輝かせて見る子どもと一緒だ。

「俺は、俺たちは、あんたの玩具じゃないんだ」

 梢のざわめきに乗せて、晃は吐き捨てた。


 そのとき、枝葉を何度も擦るような音を聞いた。振り返ると、晃が生みだした世界樹から一枚の葉が急速に生長するところだった。やがて掌大の大きさになると、葉はひとりでに枝から離れて晃の足元に飛んできた。

 拾い上げ、太陽に透かす。深緑という言葉がそのまま当てはまるほど、深く落ち着いた色合いの葉だった。白い葉脈が美しい紋様を作る。

 と、葉脈が突然細かく分かれ、動き始めた。葉の血管たる働きを無視し、ひとりでに寄り集まっていく。葉脈の集まりは、やがていくつかの形を作っていく。それを見届けた晃は、驚きに眉を上げた。

 葉の表面に形作られたのは、何と文字列だった。

『思い詰めないで 晃さん』

「これは。まさか姫理、お前なのか!?」

 世界樹を振り返る。すると再び葉の表面に文字が浮かぶ。

『私のことなら 気にしないで あなたの体のことの方が心配です 私なら 大丈夫だか』

 そこで途切れる。直後、葉脈の線は解けて本来の姿に戻ってしまった。

 晃が生みだした世界樹の苗は、姫理の世界樹の根の部分と繋がっていた。この葉は、おそらく姫理が晃に託したものなのだろう。晃は周囲を見回し、近くに生えた膝丈ほどの雑草を引き抜いて束ね、即席の紐にした。葉の根元部分に慎重に巻き付け、ペンダントの形にする。

「そんなことを言うお前だから放っておけないんじゃないか」

 姫理に向かって語りかける。

 世界樹の葉に変化が起こった。雑草の紐で結んだ部分がまるでロウのように丸く溶け、一体化したのだ。姫理が、ペンダントとして晃の肌身にあることを自ら望んだように思えた。

 もう一度太陽に姫理の葉を透かす。葉脈が文字に変化することはなかったが、晃は確かに、葉から命の鼓動を感じた。

 晃はペンダントを首にかけ、先端の葉を慎重に胸元へと入れた。目の前に広がる大自然を見据える。標高が高いためか、肺に入る空気は(せい)(れつ)で身が引き締まる。晃は再度、世界樹を振り返った。

「ここで待っててくれ、姫理。『神』の言いなりになろうとも、俺は必ずお前を元に戻す。そうしたら二人で帰ろう」

 風がないのに、梢が揺れた。晃はえくぼを作り、踵を返した。下草も柔らかな地面を踏みしめ、なだらかに下る丘を降りていった。


 下り坂だというのに、地面は驚くほど歩きやすい。草が靴裏を優しく受け止め、膝への負担を和らげてくれる。リズミカルに歩くこと十五分。地面が平になり、森の境が目の前に現れた。

 手近の樹に背を預け、額の汗を拭う。森の奥を見ると、樹高四、五メートルほどの広葉樹がチェスの駒のように規則正しく並んでいる。地面に大きな岩も窪みも見当たらず、獣や蛇が潜んでいそうな茂みも少ない。踏破するにはこれ以上ないほど適した場所だったが、やはり人の気配が皆無なのはそれだけで不安の種になった。


 森の中に踏み行ってすぐ、晃は大気の変化に気づいた。

「水の匂いが濃い。いや、水だけじゃなくて空気そのものがものすごく濃いみたいだ」

 誰も応える者がいないとわかっていても、つぶやいてしまう。

 木々を避けながら晃は上空を見た。梢の間から太陽の輝きを見ることができる。元いた世界と天道が変わらないのなら、方向を見失うことはないと思われた。


 突然、ふくらはぎに痛みを感じて立ち止まる。見ると、二十センチほどの植物の先端に左足の側面が引っかかり、ジーンズがわずかに裂けていた。そこから滲んだ血はしばらくすると完全に止まり、袖で拭うと傷口は綺麗に治っていた。

「なるほど。俺の体が『生まれ変わった』ってのは、どうやら本当の本当らしいな。ちくしょう」

 自嘲し、口角を引き上げる。そのとき薪が弾けるような音がして、顔を上げる。


 周囲の光景が変わっていた。


 規則正しく立ち並んでいたはずの木々の配置が、先程までと違う。まるで晃の行く手を阻むように重なり合っている。下草はいつのまにか膝の位置まで伸び、平坦だった大地に起伏が生まれていた。

 晃は目を擦り、眉間をすぼめて目の前の現実を凝視した。彼が見る前で、一本の樹が早回し映像のように枝を伸ばし、幹を曲げ、さらには二メートルほど水平に(・・・)移動した。三百六十度全方位の植物が蠢いている。音を立てている。

 晃は口元を押さえた。空気が重く、肺にまとわりつく感じがした。単に湿度が高いだけではこんな感覚にはならない。この森には、単なる空気以外の何かが漂っている。

 自らの頬を叩き、霞がかかりかけた頭を醒まさせる。いまだ動き続ける森の中を、晃は一歩一歩進んで行った。


 それから数時間は、生きた心地がしなかった。

 雑草の下は時折深く窪み、足を取られて派手に挫いた。

 休息のため背中を預けた樹が突然生長し、幹に飲み込まれかけた。

 枝の上で戯れていたはずの小動物が、瞬きした次の瞬間に消え去って、自分の視覚を本気で疑った。

 肉体以上に精神を削り取られるような出来事が繰り返し起こり、晃はたった半日で疲労困憊の状態となる。


 小さな清流にたどり着いたとき、夜になった。月明かりの中、貪るように水を飲み、それからごつごつした岩場にも構わず体を丸めて横になる。寒さも暑さも感じないまま、ただ体の重さに身を任せて、晃は深い眠りについた。



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