3 『神』が告げる始まり
斎樹晃は、死んだ。
間違いなく心臓は止まり、人としての原形をとどめないほど無残な状態となって、この世から姿を消した。にもかかわらず、彼は全身を襲う寒気で目を覚ます。
体を横たえたまま薄目を開け、晃は無意識のうちに両腕を胸元で抱えた。寒さに震える登山者が身を縮めるように、全身に力を入れる。
自らの体温を確認すると、次第に思考もはっきりしてきた。夢うつつの状態から、周りの様子を見回すだけの冷静さが生まれてくる。視界はすべて漆黒の闇に染まっていた。
体を起こすと、指先が柔らかな何かに触れた。
「姫理。おい、しっかりしろ」
晃はすぐ隣に横たわっていた姫理の肩をつかむ。軽く揺すりながら彼女の名前を呼び続けた。長い睫毛は伏せられたままで、白い肌が闇の中に浮かび上がっている。
少し強く揺する。反応はなかった。
全身の血液が凄まじい勢いで冷えていくことを感じ、晃は姫理の口元に耳を寄せた。そして安堵の吐息を震わせる。姫理はちゃんと呼吸していた。唇の血色は良いし、手に感じる温もりも本物だった。
姫理の傍らに腰を落とした晃は、微笑みとも驚きとも取れる表情をした。自らの額を押さえ、髪を掻く。そして手を目の前にかざし、まるで珍しいものでも見るように観察した。眉間に深い皺を作る。
「どう見ても生きてる。俺も、姫理も。だったら、あれは何だったんだ」
記憶を掘り起こす。
迫り来る土砂の光景、迸る雷。それらの直撃を受けて、刹那の間だけ感じた衝撃。あの生々しく恐ろしい感覚が夢、あるいは幻だったとはどうしても思えない。
ならば、今ここにいる自分たちは一体何なのか。
「何か特殊な治療の部屋……俺の五感に異常が起きている……あるいは本物の死後の世界……ああ、くそ。わからない。どうなってるんだ」
強く頭をかきむしる。その後晃は、隣で眠る姫理の手を握った。彼女の温かさが晃に冷静さを取り戻させる。ゆっくりと首を巡らし、大きく一度息を吸った。
「誰か。誰かいないのか」
大声で呼びかける。開けた屋外で叫んだときのように、声は手応えなく中空に消えていった。
それから数秒後、景色に変化が起こる。
晃の視界に、突如として無数の白い光点が現れた。夜空に浮かぶ星と見紛うような光は、やがて人の形を取り始める。それもひとつやふたつではない。瞬く間に二十人近くの集団が出現した。
距離にして三十メートルほど先だろうか。中空から現れた人々は、うろたえたように周囲を見回していた。すぐに喧噪が聞こえてくる。現れた集団の面々は皆若く、多くは制服姿だった。
「何もない空間から、人が、出てきた」
呆然と晃はつぶやく。本能的な恐怖と不安を感じ、晃はさらに姫理の側に身を寄せる。決して暑くない空間なのに、汗が顎を伝って滴った。
そのとき、背後から衣擦れの音が聞こえて振り返る。純白の貫頭衣に身を包んだ老人がゆっくりと歩いていた。何もない空中からまるで階段を降りるようにこちらへとやってくる様を見て、晃はあやうく大声を上げそうになった。
節くれ立った手、深くくぼんだ眼窩、額から頭頂部にかけて禿げ上がった頭、長く豊かな白い顎髭。そして手にした木製の杖と、頭の上に浮かぶ金色の円環。
その姿はまさに物語の『神』そのものだった。
唇を噛む晃の視線を、老人は目を細めてどこか愉しそうに受け止めた。
『ようやく、逢えましたな』
晃は息を呑んだ。片手で自らの耳を押さえる。
目の前の老人は口を動かしていなかった。しかし彼の『声』は明瞭に聞き取れた。まるで頭蓋の裏に直接スピーカーを取り付けられたように、意識に、直接響いてくる。
老人は笑った。
『そんなに緊張なさらなくてもよろしい。どうぞ常のように楽にしてください。あなたがたは特別なのですから』
「そう言うあなたは、いったい」
『我のことは『神』とお呼びいただいて結構です。アキラ殿』
名前を知られている。
驚愕で再び絶句する晃を尻目に、『神』は進んで行く。その先には例の集団があった。
『もう少々ここでお待ちくだされ。先に用件を済ませて参ります。それとも後学のために見学なさいますか。あなたがいる場所は空間に膜をかけておりますので、彼らからはあなたを見ることも声を聞くこともできません。ご安心を』
晃が返事に窮していると『神』は再び空に浮かび上がり、集団の元に飛んで行った。
「うわっ、何だありゃ!」
誰かの声が聞こえる。距離があるにも関わらず、まるで隣席の会話のようにはっきりと耳に届いた。
騒ぎ立てる少年少女たちに『神』は鷹揚に話しかける。君たちはすでに死んだ、だがうろたえることはない、心に偉大な『種』を宿し、君たちの体はたった今生まれ変わったのだ、これから我が君たちの行くべき道を示そう――
晃は首を振った。暢気に聞き入っている場合ではない。これは、まずい。根拠を言葉にはできないけれど、とても嫌な予感がする。
「逃げないと」
姫理はまだ目を覚まさない。晃は脱力した彼女の体を横向きに抱え、立ち上がる。
そのとき。
「ちょっと待った! それってやっぱり、『異世界転生』って奴だよな!? 俺たち、一体どんな能力を持って向こうに行くんだ? それを知らなきゃ、異世界でどんな風に立ち回ればいいかがわかんねえだろ」
そんな声が聞こえてきて、晃は全身を硬直させた。聞き覚えのある声だったのだ。
目を凝らす。少年少女たちをかきわけ、ひとりの青年が『神』の前に歩み出た。薄く茶に染めた髪、すらりと細い体躯、整ってはいるがやんちゃそうな顔立ち。『神』を前にして上半身を大きく使ったジェスチャーをする姿は、見た目よりも子どもっぽい。
「鷹山君。まさか、彼もここに」
晃のつぶやきは青年には届かない。
鷹山龍斗。彼は晃のよく知る人物だった。晃の勤務先である旅行代理店で書類整理や荷物運びのアルバイトをしている大学生である。基本的に明るく人当たりは良いが、面倒なことや怒られることを露骨に嫌がるので職場の評価はあまりよくない。指導役の晃と歳が近いからか、それとも晃が他の職員と比べて寛容なためか、龍斗はよく晃に懐いていた。
『神』は龍斗を一瞥し、言った。
『君たちがいまだかつて体験したことのない力だ。その力をどのように使うかは君たち次第である』
何も伝えていないに等しい台詞に、龍斗は目を輝かせた。職場の休憩室で、自分がハマっているゲームのことを楽しそうに語っていた顔そのままに、龍斗は言う。
「俺、やるっすよ。そういうことならとことん強くなって、世界最強になってやるぜ。あ、もし武器があったら俺、双剣使いになるんで、ダブっちゃ駄目だぜ、みんな!」
制服姿の一団を振り返りながら握り拳を作る龍斗。晃は思わず叫んでいた。
「鷹山君、冷静になれ。明らかにおかしいだろう!?」
だが『神』の言った通り、こちらの声は龍斗たちには届かず、こちらの姿もまた彼らの視界には入らないようだった。やがて龍斗たちは白い燐光に包まれ、いっせいに霧散した。
後に残されたのは晃と姫理と『神』と、漆黒の空間。
不意に『神』が笑い声を上げ始めた。可笑しくて可笑しくて堪らないのに、その感情を無理に抑えようとしているように聞こえた。不快な笑い方だった。
『愉快なものですな、アキラ殿。ほどよく愚かしそうな者があなたの知己とは。ここのところ選定には無頓着でいましたが、なかなかどうして』
『神』が再び晃の元にやってくる。『神』の言葉の意味が理解できず、晃は肯定も否定もできない。ただ姫理を抱く腕に力を込め、いつでも逃げ出せるように神経を研ぎ澄ませた。心臓は今にも爆発してしまいそうなほど強く脈打っている。それどころか、まるで火に変化してしまったかのように熱くなって――
『気づかれましたか。あなたの体の変化に』
晃の顔に脂汗が浮く。背筋が冷たくなるほど大きな不安に苛まれているのに、体の中は滾っている。熱の中心である心臓に、晃は異物感を覚えた。
乾いた喉から声を絞り出す。
「俺の体に、何をした」
『ご心配には及びません。先ほどもお伝えした通り、あなたは特別なのですから』
「それでは答えになってない!」
頭のどこかが「馬鹿な質問をするな」と警告する。
晃の激昂と不安を感じているのかどうか、『神』は顎髭を一撫ですると目を細めた。視線は、いまだ目を醒まさない姫理に向けられている。『うむ。素晴らしい』と『神』は言った。
『ご立派になられましたな。アキラ殿も、ヒメリ殿も』
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
『我があなたがたを特別と言ったのは、ずっとお二人のことを見てきたからなのですよ。この時が来ることを待っていたのです』
呼吸が止まるかと思うほどの驚きが晃を縛った。『神』は杖を振り上げる。
『お二人は生まれ変わりました。世に二つとない素晴らしき種をその身に抱いて。その証拠を今からご覧に入れましょう』
次の瞬間。
姫理の体が、晃の腕の中で大きく跳ねた。臍を上にして弓なりに反り返る。肺から無理矢理空気が吐き出され、彼女の喉は風穴のようにかすれた音を出す。全身に脂汗を浮かべ、白のワンピースを湿らせていく。
姫理の名を呼びながら、晃は彼女を強く抱きしめた。高い熱と細かい痙攣が肌に伝わってくる。頭に血が上り、『神』に向かって叫ぶ。
「姫理に何をした!?」
『奇跡のように条件が揃いましたので』
またも理解できない説明をされ、晃は食ってかかろうとする。すると突然、腹に衝撃を感じて姫理の元から弾き飛ばされた。
両手足を突いて空咳を繰り返しながら顔を上げる。姫理は空中に浮かんでいた。痙攣が続く体から、一本、また一本と樹の枝が生えていく。際限なく生長する枝がワンピースの布地を引き裂いていく音が、あたかも姫理自身の悲鳴のように聞こえた。次第に枝は寄り集まり、太い幹となって姫理を飲み込んでいく。
晃は駆け出した。姫理を救い出そうと手を伸ばす。だが樹の生長速度は早く、晃の眼前で姫理は完全に取り込まれてしまった。
現れた大木の樹皮に手を触れる。少し湿った、柔らかな感触が返ってきた。鼻をつくのは濃密な緑の香り。晃は震えが止まらなくなった。
晃の背後に立ち、『神』は告げる。
『素晴らしき人格と素晴らしき種から、見事な『世界樹』が誕生しました。世界はこれより、新しき時代を迎えることとなるでしょう』
驚愕と、悔恨と、憤怒――それらの感情で目にうっすらと涙を浮かべた晃は振り返る。『神』は笑っていた。
『そのお顔、ヒメリ殿をこのままにしておくつもりはないのでしょう? ならば、我の言葉を聞くのです。ここからがあなたの始まりなのですから』




