2 幸せ、そして
「晃さん」
助手席から呼びかけられ、斎樹晃は顔を横に向けた。白のワンピースが目に映える。普段は運転中によそ見などしない晃だが、隣の彼女――皇姫理の凛とした声を無視することはできなかった。
「どうした姫理」
「運転、代わらせてください」
意外な申出に瞬きをする。それから晃は笑って手を振った。
「大丈夫。ぜんぜん疲れてないから。このまま目的地まで俺が連れてくよ」
「ダメです。代わります。もう少しで道の駅に着きますから、そこで交代です」
丁寧な言葉遣いながら、どこか怒ったような口ぶりに晃は少し慌てた。万事控えめで淑やかな彼女にしては珍しい。見れば柳眉が少々逆立っている。古き良き大和撫子の美しさを体現した姫理が、窓の外の深緑をバックに怒る姿は、晃に有無を言わさない迫力があった。
七月下旬。晃と姫理は平日に取れた休みを利用して、二泊三日の温泉旅行に出かけていた。晃は会社勤めの二十六歳、姫理は二十二歳でまだ大学生。二人は今年中に籍を入れる予定で、四月から同居を始めたばかりだ。今回の旅行は、二人が一緒に住み始めてから初めての遠出となる。
姫理に言われた通り、道の駅に車を停めた晃は運転席を降りた。百七十センチ半ばの細身の体をストレッチしていると、何やら気合の入った表情で姫理が運転席側にやってくる。ずんずんと音が聞こえてきそうなほど力強く歩くものだから、彼女の腰まである髪の先は歩調に合わせて大きく左右に揺れていた。苦笑しつつ晃は言った。
「まだ免許取ってそんな時間経ってないだろう? 無理しなくてもいいんだぞ」
「いいんです。今日は晃さんに楽しんでもらわないといけないんだもの」
「え?」
「ここに来るまで色々気を遣ったり運転に集中したりで、外の景色をほとんど楽しんでなかったでしょう? こんなに緑が綺麗で、せせらぎも涼やかなのに。だから私、我慢できなくて」
瞬きする晃。そこで初めて辺りを見回す。渓谷沿いを走る道は深緑で彩られ、耳を澄ませば確かに川の流れる音が聞こえてくる。山をずいぶんと登ってきたためか、夏の盛りだというのに暑さをあまり感じない。
「今回の旅行は私からのプレゼントなんですから。仕事のことは忘れてくださいな。晃さん、無意識で『お客様ご案内モード』に入ってましたよ」
晃は頬を掻き、端正な顔立ちに再び苦笑を浮かべた。
晃は地元の旅行代理店に勤めている。普段は『人々に楽しんでもらいたい』という一心で仕事に打ち込んでいるため、どうしても自分の楽しみは後回しになってしまう。今日も意識してのことではなかったが、姫理にはしっかり見抜かれていたようだ。
申し訳ないと思うと同時に、嬉しく思った。
「さすが、姫理には敵わないな」
「伊達に小っちゃい頃から一緒にいるわけじゃありません。それに」
ふと、姫理が笑みを消した。彼女の大きな瞳が真っ直ぐに晃を見つめた。
「あなたの喜びは私の喜び。あなたが哀しむと、私も哀しいんです」
晃の表情が微かに強張る。同時に、姫理がこの旅行を強く勧めてきた理由を理解した。「ありがとう」と晃は小さく伝えた。
「さ、そろそろ出発しようか。頼むよ、運転手さん」
「はい。任せてください。ナビがあれば大丈夫です」
「……本当に大丈夫か?」
急に不安になって問いかけると、姫理はぷうと頬を膨らませてしまった。
それから道の駅を出発し、美しい渓谷沿いの道をのんびりと走る。世は夏休みだが、不思議と道は空いていた。窓から吹き込んでくる風を感じながら、旅館のこと、温泉のこと、家でのこと、仕事のこと、大学のこと、とりとめもなく語り合った。
心地良くて、楽しくて、興奮して、だけどとても安らかで。
これが幸せなんだと確かに感じることができる。
姫理がいてくれなかったら自分はいまだにふさぎ込んでいたかもしれない、と晃は思った。
二ヶ月ほど前、晃の母が亡くなった。すでに父は他界しており、晃は二十六歳の若さで両親を亡くしたのだ。晃を生んでから体が弱くなったという母も、その母を看病する中で大病を患った父も、自分のことよりかまず晃のことを第一に考えるような人だった。その分厳しいところもあったが、全てひっくるめて晃は両親を深く尊敬している。
彼らの息子として恥じないように生きよう――それが両親の墓前で晃が立てた誓いだった。近しい人の死を乗り越えて前を向くことができたのは、ひとえに姫理のおかげである。
道の駅を出て十分ほど車を走らせる。姫理がスピードを少し落とした。
「天気が悪くなってきましたね」
晃はフロントガラス越しに空を見る。確かに、山の向こうから灰色にくすんだ雲が迫っていた。先程まで陽光を受けて眩しく輝いていた木々も暗く湿ってきている。
そして天候は、一筋の雷光を機に激変した。
腹に響く落雷の音が消えぬ間に、大粒の雨が一斉に降ってくる。その勢いは、一瞬にしてフロントガラスを白く染め上げるほどだった。姫理が慌ててワイパーをかけ、ヘッドライトを点灯させる。それでも視界は極端に悪くなった。
「びっくりしました……」
「姫理、もう少し速度を落とそう」
晃の言葉に、姫理が緊張の面持ちでうなずく。晃は後続車を確認しようとしたが、リアガラスに映るのは滲んだ景色だけで、車が来ているのかどうかよくわからなかった。ハザードランプを点けて、ナビを見る。あと数百メートル行けば路肩に駐車スペースがあった。
車の屋根を打ち付ける雨音が尋常ではない。
「どうしたんだろう、急に。ちょっと、怖いです」
「ああ。さっきまであんなに晴れていたのにな。山の天気は変わりやすいって言うけど、これはいくらなんでも――」
晃は目を細める。前方に橙色の光を見たのだ。車線のど真ん中にハザードランプを点けたまま停車している車がある。近づくと、それは観光バスだとわかった。エンストか、それとも何か別のトラブルがあったのか。灯りが灯された車内には大勢の少年少女たちが乗っていて、皆、窓に張り付いて外の様子を見ているようだった。
夏休みを利用した合宿だろうか――そう晃が思った次の瞬間である。
二十メートルほど先にあった観光バスが強烈な閃光と爆音に包まれた。雷が直撃したのだ。稲光が視界をさらに白く染め上げ、衝撃で車が大きく揺れた。隣で姫理が悲鳴を上げた。
光が収まる。晃が見つめる先で、バスの一部から火の手が上がった。車内の灯りが消え、断続的に破裂音が聞こえてくる。バスの車体は大きく揺れていた。おそらく、中は相当なパニックになっているのだろう。
晃は瞬きすることも忘れて目の前の惨状に見入った。そして思考停止しかけた自らの頭を叩き、ポケットから携帯電話を取り出して「119」と打ち込む。電話を耳に当てた瞬間、さらなる衝撃が晃たちを襲った。
バスが内部から爆発したのだ。
雨粒とは違う硬質なガラス片が無数に飛んでくる。フロントガラスに細かな傷が刻まれ、炎上するバスの炎に照らされた。バスの内部に、もう人の姿を見ることはできなくなっていた。
晃は唇を噛んだ。携帯電話を姫理に渡し、助手席のドアを開ける。
「晃さん!?」
「救急車と消防を。俺は様子を見てくる」
「危険ですっ」
「すぐ戻る!」
会話を打ち切るように叫び、晃は雷雨の中に飛び出した。
炎上する観光バスまではおよそ十五メートル。雨に濡れ続けているのに顔が熱い。炎の熱が晃のところまで達しているのだ。晃はバスを迂回しながら車体の側面に回り込んだ。反対車線上には、バスから飛び散ったであろう破片が炎をまとって横たわっている。
もしかしたら間一髪で逃げおおせた人がいるのではないか。晃は生存者を探すため周囲を見回し、声を張り上げた。すでに髪も服も水を吸って肌に張り付いている。上空から降り注ぐ雨はやや収まってきたが、その代わりに至る所で落雷の音が響いた。舗装された道とは言え、すぐそばに木々の梢と山の斜面がある。姫理の言う通り、このまま歩き回るのは非常に危険だ。
しかし、目の前の惨事を無視することもできなかった。助けられる人がいるなら、助けたい。
道路の水溜まりを叩く音がする。車内で連絡を取っていたはずの姫理が晃の側まで駆け寄ってきた。晃と目を合せるなり彼女は首を横に振る。救急も消防もすぐには駆けつけて来られないらしい。
晃は震える喉を唾を飲み込んで鎮めた。「落ち着け」と自らに言い聞かせつつ、姫理に提案する。
「もう少しだけ周囲を探す。もし生存者がいれば車に運ぼう。一人二人なら何とかなるはずだ」
「では私はバスの向こうを」
姫理は即座に晃の気持ちを理解してくれた。ただ、こう付け加えるのは忘れない。
「晃さん、お願いですから無理をしないでください。本当に、ここは危険です」
「わかってる。駄目とわかればすぐに切り上げて、車の中に避難だ」
互いにうなずき合い、バスの前後に分かれる。晃は反対車線に散らばった残骸をもう一度注意深く見て回った。その間にも、すぐ近くで間断なく雷が落ちている。恐怖を押し殺し顔を上げると、山の上の方で立て続けに三本の雷光が走るのを見た。汚れたタオルのような曇天から大きな雨粒が絞り出され、雷光は己の存在をひけらかすように空気を裂き続ける。バスは燃え上がり、残骸は痛々しく散乱している。
もう夏も盛りに入ってきたというのに、背筋が震えて凍てつく。
まるで映画のような光景だった。
「ひどい。なんなんだこれは」
観光に携わる者として、荒天の怖さは常日頃から意識している。けれど今目の前で繰り広げられているのは、そんな心構えを根本から打ち崩す別次元の荒々しさだった。
晃さん、と遠くで呼ぶ声がする。振り返ると、彼女はひとりの少女を肩で支えていた。少女は制服姿で、ところどころ火傷と裂傷を負い、さらに足を引きずっている。けれど意識ははっきりしているようだ。涙目になりながら姫理に向かって何かを訴えかけている。姫理は努めて柔らかな表情で少女を諭していた。
生存者がいた奇跡に感謝しながら、晃は姫理たちのもとへ足を向ける。同時に山の斜面に五回、続けざまに雷が落ちた。近い。急に周囲が明るくなったかと思うと、対向車線沿いの木々がいっせいに燃え上がった。さらに家が軋むような音も伝わってくる。
そして――山の一部が襲ってきた。
燃えさかる木々、崩れた土砂が、まとめて一気に流れ落ちてきたのだ。
姫理と少女は、その先に立っている。
「姫理!」
晃は叫ぶ。姫理は一度だけ斜面を振り返り、唇を噛んだかと思うと、少女の体を思いっきり突き飛ばした。命を奪われる危険から彼女を守るために。
恐怖と動揺で完全に固まっている少女の傍らを、晃は全速力で走り抜けた。全神経を両足に集中し脇目も振らず姫理の元へ駆けつける。彼女は何かを叫んでいたが、土砂の轟音ですでに何も聞き取れなくなっていた。
両の足を踏ん張り、姫理の前に仁王立ちする。犬歯を剥き出しにし、全身に闘志を滾らせて、晃は自分にとって最も大事な人の命を奪おうとするモノを見据えた。
燃える木々。
不揃いの岩石。
砂の飛沫となって弾ける土砂。
そして、まるで林立する柱のように迸る雷。
それらあまりに圧倒的で劇的な凶器のパノラマが、彼の、この世で見た最期の光景となった。




