ノスタルジ
病院だ。ここは病院だと、すぐに分かった。目をしばたかせた後に視覚で確認するよりも先に、匂いと音で分かった。それほどまでに、病院の中のそれらは特徴的だ。最近まで爺ちゃんがずっと入院していて、俺はよく見舞いに来ていたものだから、やはり、俺も病院の雰囲気のようなものを感じ取れるようにはなっていた。爺ちゃんは2ヶ月前に逝ってしまった。享年89歳。俺は小さい頃は爺ちゃん子で、それも年を経るにつれてだんだんと変わっていったのだが、爺ちゃんが肝臓ガンで入院した頃から、程々に良い年齢になって反抗期もほぼ抜けきった俺は、昔の恩返しとばかりに病院へ頻繁に足を向けていた。孝行ができたかと言われると自身がなく、出来なかったわけではないというのも卑屈になりすぎているような印象をうけるくらいには、爺ちゃんにもらったものを俺に返せる形で返していけたのではないかと考えている。
話はそれたが、とにかく俺は病院にいた。病院のベッドで寝かされていて、それから事の顛末を思い出す。俺は田成さんを追いかけ、道路に飛び出し、そしてバイクに跳ねられたのだ。その時の痛みが思い出されて脳に鈍い刺激が送られるが、その後、何故か体は全くといっていいほどに痛まなかった。手でさすってみるが、打ち身などにもなっていないみたいで、驚くほどに健康で不思議なほどに元気だ。自分の状態に疑問を持つが、それほどひどい事故ではなかったのかもしれないと思い直す。すぐに田成さんの怯えた表情が目に浮かんで胸が膿み出したかのようにジュクジュク痛んだ。
程なくして女の看護師さんがやってきて、容態を尋ねられた。素直にピンピンしていますと答えたら、看護師さんは大げさが過ぎるほどに笑っていた。何がツボに入ったのかよく分からない。その後、担当してくれたという医師の人がやってきて、一応見た目は何も大事はないけど、あとでCTスキャンを撮ります。それで問題がなかったら、お家に帰っても良いですよ。と言ってくれた。俺より一回り年上っぽい医師が、もうすぐ二十歳の俺に対して『おうち』と言っているのが不自然だったが、職業上で染み付いたものなんだろうな、と思った。時計を見ると時間は午前の11時15分を示していて、周囲の雰囲気から察して、今は事故の翌日くらいなのだろうなと考える。病院食が食べられるかもしれない、でもおいしくはないのかもしれない。親に連絡はいったのだろうか。でも、これだけ何事もないのだから、特に心配させることもないだろうし、今日は平日なので共働きの両親に都合をつかさせるのはなんだか申し訳ないような気がした。できれば連絡はされていないほうがいいなと思いながら、担当の看護士さんがやってきたときに聞いてみると、やはり連絡はされていたようで、それでも大したことはないという旨が伝えられていたおかげで親父がアフター5にやってくることになっていた。ほっとした。
それから病院食が運ばれてきて、食べてみるとやっぱり予想通りおいしくはないけどそれほどまずくもないという普通な感想を持って、お膳を下げられた後は検査がある時間までひたすらボーッとすることに努めた。今は、検査費用とかどれくらいかかるのかなとか考えている。学生保険に入っていたはずなので、ある程度は抑えられるだろうが、不要な出費であることには違いがないので、もったいないと言うか、馬鹿な事をしたなと改めて思った。
「馬鹿な事を…」
こうやって後悔するのは馬鹿な証拠だ。
3時頃になって看護師さんに呼ばれて移動して、テレビとかでしか見たことがないような筒っぽい機械見せられて、寝させられて、筒の中に入って、いくらかたって「ハイ終わり」って言われて、案外短かったなと感じるくらいの時間をかけて、俺は静かな病室へと戻ってきた。どんなハイテクノロジーな経験ができるのかと思って、若干ワクワクしていたのだが、気がついたら元の場所、みたいな感じでとにかくあっという間だ。ベッドから病室の窓を通して窓を見る。数人が共用する病室の、入って右側奥から2番目のベッドを俺は使わせてもらっているのだが、その位置からでは角度的に景色を見下ろせるわけもなく、狭い窓が切り取る広い空のほんの一区画に、雲が出たり入ったりするさまを見ていた。窓から見える街の景色が綺麗、なんていうセリフは嘘っぱちだ。
なんというか、拍子抜けと言うよりは、期待のし過ぎを反省させられてしまったという感覚。
病室はとても静かで、退屈だったけど、別段それを辛いとは思わなかったし、休日に一日家でごろごろして過ごしたようなのとさほど変わらないと思ったら、多少の危機感を覚えたものの、それだけだった。自分の休日の生活が、入院患者のように廃退しているという事実があるだけだ。
もう少しで4時と半分を回ろうかという頃、この病室に誰かが近づいてくる足音が聞こえて、看護師さんかと思ったら、靴音の高さが妙に高いのでどうやら違うようで、それで同じ病室の誰かの見舞いかなと思い、もしかしたら俺の見舞いかもしれないと思って、そう考えると少し窮屈な思いをしてしまうだろうなと考えた所で俺の寝ているベッドの前に知らない女の人が立っていた。モデルのようなとてもおしゃれな格好をしていて、それを全て意識の外に刈り取っていくかのような攻撃的な顔をしている綺麗な人だった。攻撃的、というのは控えめな表現だったかもしれない。ソレはもはや凶悪な顔つきだった。全身に威圧的な雰囲気をにじませているし、まるで蛇に睨まれたカエルのような心境だなと、ぼうと思った。
「末吉慧さんですね。」
「…はい。」
「私は要幸といいます。昨日の事故で末吉さんを、その、ひいてしまった者です。本日は謝罪とお見舞いに参りました。この度は本当に申し訳ありませんでした。」
昨日、俺をはねた人だった。要幸さんは目を伏せて深すぎない礼をした。そして急に慌ててしまう。
「そんな、加害者だなんて…。僕が飛び出してしまったのがいけないんです。今回の事故は、僕の責任です。」
「ですが、道交法では私に過失があります。」
「それは…」
慌てる俺に対して要幸さんはまるで毅然としていた。俺よりも堂々としていてかっこいい。それはやはり、俺がはねられた後に最後に見たバイクの運転手の姿と重なり、あぁ、この人が俺をはねたんだと、妙な納得をしてしまう。
「でも、さっき検査が終わったんですけど、どこも悪いところはなかったみたいで、あっでもまだ結果待ちなんですけど、確かに少し怪我はしてますけどどれも軽症ですし、要幸さんが気にされることは本当に何もないんです。こちらこそ、昨日は申しわけありませんでした。きっとバイクのほうにも、傷とかできちゃっただろうし…」
「そのことについては構いません。」
「ですけど」
「いいんです。」
要幸さんが笑う。笑っても彼女の凶悪さは抜けきらなかった。
要幸さんがやけに事故を彼女のせいにするように仕向けるので、俺は動揺と少しの妙な気分を持って彼女を見ていたのだが、そのとき、彼女が持っているいくつかの荷物の中にぼろぼろの傘があるのをしっかりと視界に収め、それが気を失う直前に見た自分の傘だとすぐにわかったので思わず「あ…」と口にした。要幸さんの眉が縮まる。
「どうかしましたか?」
「いえ、その傘って僕のかなって…っていうか、僕のですよね?」
そのせりふに要幸さんの眉が動き、目が細まり、錯覚だと思うが輪郭が鋭くなり、顔の凶悪さが増した。ぞくと、言いようもない不安と、興奮に襲われ体をすくめる。要幸さんはこんなにも丁寧に対応してくれているのに、どうしてこんなにも心がいすくめられそうになるのだろう。俺は彼女が怖いと感じて、同時に敬意も抱いていた。初めてあった人物なのに、この人はすごいと漠然と感じる。畏敬の念というのがぴったりと当てはまる感情だ。だけど、彼女は何か違う気がした。
「チッ…」
「え」
そのとき、彼女がこれでもかというほどに顔を歪めて舌打ちをする。それに、俺は驚いてしまう。彼女の急な変わりようにも驚くが、そのときの妙なブレというか、一瞬で彼女の違和感が消え去ったことに対して驚いた。あまりにも雑であまりに鋭い。シャープだ。その言葉がしっくり来る。
「末吉さん。」
「はい。」
と、次の瞬間にはそれが消えて、また微妙なずれを感じる雰囲気に戻っていた。それでもただ一つ、細めた目の中の瞳の力が自然だったのが変わっていた。
「あなた、憑かれていますね。」
ツカレテイマス……つかれています……疲れています?
要幸さんは、俺が疲れてしまったといいたいのだろうか?文脈と今までの流れをぶった切りすぎていて、内容がいまいち伝わらない。
俺が言葉を飲み込めていないうちに、要幸さんがパイプ椅子をたてあげて座る。足を組んで、膝に肘をあてがった右手であごを支えるように姿勢を保つ。目に見えて大胆不敵な態度が目に余る。溢れて滲んで零れて放たれる。そんな感じに殺気のような敵意風味の視線をよこす。
「末吉さん。あなた、事故の前に麦藁帽子を3つ持った、あぁいや、正確には一つは頭に被ってるしもう二つは首から提げてるんですけど。そういう格好をしている女性に会いましたね。」
「はい。」
「実は私はその人と知り合いでして。というか一緒に旅みたいなことをしているんですけど。」
ああ、田成さんが言っていた旅仲間というのはこの人だったのか。彼女の言葉を思い出す。田成さんは要幸さんのことをガイドみたいだといっていた。
「彼女、美木はあなたにこの傘を手渡されたと言っていました。」
「はい、そうです。なんだか、逆に迷惑だったみたいなんですけど…。」
「そうですか。」
そこで要幸さんが考え込むように視線を伏せる。彼女の視線に合わせて視線を下ろすと、膝下のスカートが視界に入った。それから太すぎず、細すぎもしない健康的な脚が目に入って、すぐに目をそらす。…すらりとした脚だった。要幸さんが目を伏せた状態から顔を上げ、それから病室のドアのほうへ振り向いた。その後に時計を見る。つられて見ると5時45分を過ぎたところだった。もう少ししたら親父が来るだろうか。要幸さんが立ち上がる。
「さて、今日は時間が遅れてしまって、あまりきちんとした謝罪などもできないので、次回、もう一度伺わせていただこうと思います。末吉さんに大事が無かったようで本当に良かったです。それでは。」
「はぁ、ありがとうございました。」
「今度は美木も連れてきますよ。」
ドク、とするほどギクリとして、礼から体を起こした頃には要幸さんは視界から消えていて、高い靴音が廊下の向こうに行くに従ってだんだん小さくなっていった。そして当然のように、ぐしゃぐしゃになった傘が置き去りにされたままにされていた。やはり、事故の加害者にしては態度が不遜だし、礼儀を弁えていないということもないところがまた妙にアンバランスで曖昧な人である。通路のほうを見ていると、後ろ、窓の外のほうからばさばさという羽の音が聞こえた気がした。
その後は、6時と十数分がたったころに親父がやってきてしつこく大丈夫か?と聞かれた後に、馬鹿なことをと説教も食らった。親父と一緒に検査の結果を聞いて問題なしということだったので、そのまま帰路に着いた。夕飯は親父のおごりで少し高い値段の定食屋に行って、メニューの中でも少し高めのオリジナル定食を頼んで、学校の事をぽつぽつと聞かれながら食べた。俺が家にいるころにはそんなに話をしなかったのに、家を離れてアパート暮らしの一人暮らしになってから、電話などで話すことが多くなったと思っていたのだが、こうして面と向かったときにも、親父の話す量が増えていると感じていた。家にはお袋もいるはずだが、それでも話し相手には飢えているのだろうかと勘繰ってしまう。余計なことだと考える。とにかく、それくらいは付き合おうと思った。反抗期抜けの息子と親父の、まだ大分ぎこちなさの残る会話だが、そのうちそれも解消されていくのだろうなと、ぼやと感じた。
親父は俺をアパートまで送ると、部屋にも上がらずに帰っていった。掃除は程々にやっているのだが、面倒くさいままにその辺に散らかしている雑誌とかもあって、親父はきっとそれらに対してあれこれ言う方ではないとは思うのだが、それでもそのほうが気楽かもしれないとも思い感謝して俺は自分の部屋に入る。開け放しにされているカーテンと、窓から差し込む街灯の光と、光にさらされてだんだんと見えてくる薄暗い部屋の内容を見て何を思うでもないが、さっきまで親父と話しをしていたせいか、急にノスタルジな気分に襲われた。自宅の自室とは全くといって違う内容が、今は変な気分を起こさせる。そういえば、俺の場合、アパートに初めて寝た日よりも、お盆の帰省後にもう一度アパートに来て寝た日のほうがホームシックがひどかった。もしかしたら、日を重ねるごとにそれは強くなってしまうのかもしれない。
カーテンを閉めて電気を付ける。それとほぼ同時にインターホンが鳴った。
ピン…ポーン
間をやけに開けた、嫌らしくねちっこい鳴らし方のそれが聞こえた時、しまったと思う。現時刻は夜の8時と少しを過ぎたほど。宅配、は頼んでいない。なら、きっと勧誘だろうなと考える。新聞は取るつもりはないし、宗教に入ることも望んでいないので、いつもの俺はそれらに対して居留守で対応しているのだが、たった今電気がついた部屋を見て、留守だと思わせるのは無理があるだろう。急に億劫な気分になり、さっきまでのノスタルジも急速にフェードアウトしていく。仕方なく渋々といった具合に、ドアの方に向かう。めったに使わない覗き穴を使ってみると、ガラスが曇っていてよく見えなかった。はぁ、とため息を一つ。ドアを開ける。
するとそこには一人の女性が立っていた。というか要幸さんだった。ドアを開けると彼女の凶悪な綺麗な顔があって、勧誘がいると予想していた俺は驚いた。彼女は無表情といってよかったが、その表情が一番彼女の凶悪さが薄れるなと感じた。
「あ……ども。」
「こんばんは。末吉慧。」
フルネームで呼ばれた。しかも呼び捨てだ。
『次回、もう一度伺わせていただこうと思います。』
早すぎる訪問だった。と言うか、なんでこの人は俺のアパートの住所とか知っているんだと、一瞬謎に思ったが、きっと田成さんから聞いたのだろうと思いつく。そういえば要幸さんは、今度は田成さんも連れてくると言っていたが、彼女の姿はどこにも見当たらない。
「末吉慧。」
「はい。」
「よく聞いて欲しい。」
「なんですか。」
そこで要幸さんが一度、間を置くように息を吸って、吐く。深呼吸とは言えないような浅い呼吸で、短い間だった。
「お前は、これから不幸になるぞ。」




