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知らない人 知る  作者: はんなりーな
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その人は

誤字脱字は指摘していただけると助かります。

大学の午後の講義が休講になったので、昼飯を学食で済ませた後に帰路につく。空は重い雲によって占められていて、太陽が割り込む余地はなさそうだ。天気予報で言っていたとおり、午前の遅い時間帯に雨が降りだすのを、一人で揚豆腐定食を食べる食堂の窓から見ていた。傘は持っている。ビニール傘だ。先日のことがまだ記憶に新しいうちなので、大切に使っているそれは、まだどこにも異常はなくきちんと役割をつとめてくれている。結構なことだった。なので今日は特に問題もない。あるとすれば、食堂をでるときに入り口付近でシャギーの髪の毛を見た気がしたので、その入り口と反対方向にある非常口を利用して外に出たということくらいだろうか。なぜだか最近よく見かけるシャギー髪はきょろきょろと何かを探しているような動きをしているのだ。それも実は俺の妄想であって欲しいと願っている。

今日の雨はしとしとと穏やかに降っているものの、その雨量は多く、すれ違う人たちは様々な傘をさしている。ふと気がついてみるとこんなにもいろんな傘があるのだと分かるものだから、普段自分がどれだけのものを見逃しているのかということが実感されるようだ。コンビニで、晩飯の買い物をしてから再び家路に着く。お稲荷様3個入りが200円だった。いつもはほどほどに自炊もするのだが、現在冷蔵庫には何もなく、雨の中少し遠い距離にあるスーパーまで買い物に行くダルさから今日はコンビニの物で済ませようという結論だった。晩飯をつくるのが面倒くさいという理由ももちろん含まれている。軽いビニール袋を、徒歩の動きに合わせて揺れてしまわないようにと、紐の付け根の方を鷲掴みにするように持った。片手は傘でふさがっているため、指を絡めるようにしてうまい具合に紐をたぐり寄せる。その動作に意識を割いていて、往来の向かい側から来た人と、傘がぶつかり合ってしまう。とっさに謝ろうとしたが、向こうはぶつかったことなど気にしていないとでも言う風に早足で歩きさってしまった。歩き去る、と言うよりも駆け足に近いような速度。神経質そうな歩き方が、その人の性格を表しているようだ。あの人はきっといつもあんな歩き方をするのだろう。いや、そうでもないのだろうか?いつもはゆったりと歩いているのに、今日は何かしらの急ぎの用件があっただけかもしれない。どっちだろうかと考えようとして、数秒後にはどちらでもいいと、考えようとしていたことも忘れる。そんな浅い意識を保ったままで、俺は帰路についていた。

そしてやはり、そういう時に思わぬものとはやってくるのだ。

アパートに着いた。コンクリートの段差を、大げさな動きで跨いで上がり、そして俺は分かった。その瞬間。これはまるで既視感であると、俺はその時理解したのだ。傘の水気をきるために、ばさばさと傘を振り、振り返ると、やはりそこに彼女はいた。そこにいた女性は麦わら帽子をかぶっていた。

「あ。…どうも。」

麦わら帽子の女性は、今日は驚く様子もなく、ただにこりと笑ってくれた。先日の格好とはだいぶ違うと、ぼやと思った。裾のすぼまったボトムスに、インナーと対照的な色合いを見せるパーカーを着て、前回よりもだいぶんアウトドアーな印象を放つ装いのように感じられた。だがそれも彼女にはよく似合っている。当然のように、かぶっている麦わら帽子の他にも、2つの麦わら帽子が首からかかって背中の方に寄せられていた。

「また会いましたね。」

彼女の言葉はやはり、彼女によく似合っていると、そう感じた。

「また、雨宿りですか?」

「ええ、そんなふうなことをしています。」

前回とは違って、天気は荒れておらず、しとしとと降る雨は、風に煽られることなく地面に垂直に打ち付けている。打ち付ける、という表現は少しおかしいか。そう感じる程度には雨は静かに降っていた。それでも、やはり、雨量は多いため、雨宿りをしているということにはうなずける。だが、どうしてよりによってまたここにいるのかという疑問は残った。彼女は傘など、雨を防げるものは持っていないのに、やはり、どこもかしこも全く雨にぬれていないという事実も、疑問を深めてさせていた。

今日は、前回のような妙な衝動は起こらなかった。免疫とか、体勢とか言うものか、それとも単なる前回の反省なのかもしれない。とりあえず、俺は落ち着くことができていた。俺は、彼女との距離をそのままに保ったまま、アパートを背にするようにして体の向きを変えた。遅れて、彼女の方も同じ方向を向いた気配がした。

傘についている水滴を払うために、ばさばさと回転させて、とんとんとコンクリートに打ち付ける。それらを緩慢に続けて、大体の水滴を払い終えた頃、右側から息を吸うかすかな音がする。

「この前はどうもありがとうございました。」

「いえ、そんな。勝手なことを言って逆に困らせてしまったみたいで。」

「それでも、親切にしてくれたことに変わりはないですよ。」

困らせてしまったことに関して否定はしないんだな、と思った。今は無風といってもいい。しかし、屋外では無風であるときのほうが雨の音が印象深い。しとしとと、ぽつぽつと、雨が落ちてくるのがわかる。道路に落ちる雨、屋根に落ちる雨、屋根から落ちる雨、さまざまだ。人と話しているのに、こんなにも雨の音がはっきりとわかることが意外だ。

「あの後、雨が止むのをずっと待っていたんですか?」

視線だけを彼女のほうに戻すと、彼女は麦わら帽子のつばを指で軽くなぞっていた。その動作があまりに自然で、地割と胸が焦げる思いがする。そして、急に恥ずかしくなった。彼女と話しているという事実が急に、とても恥ずかしく、緊張に満ちたものになってきた。

「あ…。」

「?どうかしましたか?」

感情の激変に動揺した声が漏れて、その声に麦わら帽子の女性が反応する。俺は、とりあえずなんでもないと返しておいた。でも、やはりおかしい。妙に顔が熱い。もしかして真っ赤になっているんじゃないかと思って、そのことを思うとますます顔に熱がたまっていくようだった。何とか気持ちを落ち着かせなければと思って、深く息をついた。

彼女のほうも一つ、息をついた。彼女の息をつく音の振幅は俺の耳に届くくらいには大きい。

「あの後は、知り合いが迎えに来てくれたんです。もともとそういう約束だったので、先日の申し出は断らせていただきました。」

そのことを、言っておけば良かったですね。言葉はそう続いた。俺はなるほどと納得した。

「今日も迎えに来てくれるんですか?」

「さぁ、どうでしょう。今日はきっと忙しいでしょうから、分かりませんね。」

「そうですか。」

右手の傘をやや強く握りなおす。

「最近は雨が多いですね。」

「そうですね。」

「ええと…。」

彼女が言葉を詰まらせる。いつの間にか逸らしていた視線をもう一度彼女のほうに向けた。

「私、田成たなり美木もこといいます。」

「…僕は末吉すえきちけいです。」

急な自己紹介に少し間を開けて、自分も名乗り返す。

「私は、今日この街を出発するんですが…。」

そこでつばを飲む気配がする。

「出発?どこかに行くんですか?」

「隣の街に行きます。南です。」

田成さんは今日、この街を出発するらしい。

「旅行ですか?」

「はい。」

「こんな何も無い所に…」

「そうでも無かったですよ。いろいろ見て回りました。末吉‥さんはここに住まわれて短くなさそうですから、そう感じるのかもしれませんが、私にとっては嬉しい街です。」

嬉しい街、という表現が新鮮で、感心させられる。

「一人で旅をしてるんですか?」

「いいえ、さっき話した知り合いと、二人旅です。」

「知り合いというか、旅仲間ですね。」

「旅仲間と言うよりは、ガイドといった方が良いかもしれません。いろいろと博識な人なんです。」

そこで視線をそらす。田成さんは終始視線を動かさないままでいた。

「旅をしていて、だんだん人恋しくなってきたんです。だから、この前に末吉さんが話しかけてくれたときはちょっと驚いてしまって。でも、後からだんだん嬉しくなっても来て、今日はもう一回話ができたら、窮屈さのない、楽しい思いができるのだろうなと思って、少しの間待たせてもらっていました。」

「はぁ。」

間の抜けた声が漏れる。全体的に以外な言葉がつらつらと話されていくので、処理が遅れていた。でも、要するにそれが俺ともう一度話したかったのだという内容だとわかると、嬉しくて心臓が暑くなる。肋骨がシュワシュワと溶けているかのような感覚だ。

「恐縮です。」

「そんな。」

田成さんが間をつなぐように微笑んだ。俺自身も笑い返す余裕ができて、ぎこちなく笑みを返す。

空の具合は変わらないものの、瞬間、雨の音が弱まり、それを敏感に感じ取ったのか、田成さんが両手を差し出すようにして雨の具合を確かめる。そして一つ、頷いた。

「ごめんなさい、引き止めるようなことをしてしまって。そろそろ雨も止みそうです。もう少ししたら、駅の方に向かおうと思います。」

そういった後に、両手で自分の腕をさするような動作をした。

「雨が降ると少しだけ気温が下がりますね。今日なんか、涼しすぎるくらいです。」

そういえば、テレビの天気予報が秋らしい気温になるでしょうとか何とか言っていた。個人的には、秋は10月からだと考えている俺にしてみれば今日は少し寒いくらいの日になるのかもしれなかった。田成さんも、寒いのかな。ふっとセリフが浮かんでくるかのように、そう感じた。彼女の動作が、そのように感じさせるようにしているみたいで、それはとても保護欲を湧き起こすものだった。手元の傘を握り直すと、ビニール特有の音がかすかに聞こえて、それから、先程の田成さんがしていたように、俺も一つ、頷いた。頷いて、一歩距離を詰める。

『あの、もしよければ、この傘を使ってください。』

そう言って、傘を渡そうと思った。そうすることは、奇妙なほどに自然なことだと、その時思ったからだ。それは、俺が取るべき行動で、俺が取りたい行動で、俺が取ることのできる唯一の行動だと思ったのだ。それほど、ここで田成さんに傘を渡すという行為は、なにか不思議な予感を感じるほどに、いや、実際にはそんなものを感じてはいなかったし、そんなことを感じる余裕が、俺の心に入り込む隙間もなかったはずだが、それくらいに当然の行為だった。

だから、どきりと、驚いた。

彼女の腕に傘を押し付けるようにして手渡したその瞬間、何かが起きたことを直感で識った。理解した。その何かが何かを理解しようと思う前に、俺の口からセリフが溢れ出す。

「あの、もしよければ、この傘を使ってください。」

その2秒ほどで喉が乾ききったようだった。口内の水分が蒸発した、と言うよりは、口の中を巨大な蛇の舌で舐めまわされて、そこから水分がまるまる抜き去られていくかのような珍しい感覚だ。

「天気予報では、雨時々曇りって言っていたし、今雨が止んだとしても、もしかするとまたすぐに降りだしてくるかも知れないし。だから、この傘を使ってください。」

天気予報で言っていたのは本当は、曇り時々雨だったのだが、それが分かるほどに俺の頭は回転しておらず、それほどまでに俺はテンパっていて、テンパっていることに気がついておきながらも落ち着くことができないくらいの冷静さを、その時の俺は持っていた。

「これも旅の縁っていうか…」

そこまでまくし立てるように言い切った所で、足元にビニール傘が落ちた。まず、落ち高さの方に目を向けて、それから田成さんの歩を見返す。

彼女は、明らかに先ほどとは様子が変わっていた。これでもかというほどの感情のうねりが、、表情に現れている。目が見開かれ、口はぼうとしてしまった時のように半開きになっているのだが、それはかすかに震えていた。

口だけじゃない、体全体を震わせ、まるで何かに怯えているかのように…、彼女はどうしてだか、恐怖していた。その状態から一歩後ずさる。

「なんて、事を……」

そう言って、また一歩後に足を運ぶ。そして、彼女は逃げ出した。俺に背を向け、まだ降り止んでいない雨を気にすることもなく、急に全速力で走りだす。彼女は俺から逃げ出した。一瞬、なにがなんだかよく分からなくて混乱したが、すぐに、追いかけなくてはいけないという使命感にかられた。よく分からないが、俺が何かをしてしまったことで、田成さんはとてもショックを受けているようだった。何が原因かはよく分からない。それでも、追いかけて、それから謝るべきだと感じた。だから、俺は追いかける。俺は足元に落ちている傘を拾い上げて、田成さんの後を追って走り出した。もちろん、傘を指している余裕はない。田成さんは全力で走っていて、手を抜いていてはとても追いつけるような気がしなかった。だから俺も傘をたたんだ状態で右手に持ち、静かに降る雨の中を走る。道路に出た直後は、勢いの弱い雨に、それほど降ってはいないのだろうかと感じたものの、数秒したらたちまちずぶ濡れになった。十秒もすれば着ている服の色がすっかり変わってしまう。しかしそんなことは気にせずに走る。気にしている余裕はなかった。それほどまでに、田成さんの足は速い。

「ちょっ…、待って、待ってください。」

割と大きめな声で呼びかける。その声で、田成さんは俺が追いかけてきていることに気づいたようだった。大分引き離された距離のその一で立ち止まり、振り返る。彼女の目は驚きに見開かれていた。そして、絶望の色が濃い。

「末吉さん、来ないでください!来ちゃ、駄目です!!」

彼女が叫ぶ。セリフの内容とはかけ離れた澄んだ声で。しかし、それでも、やはりその声には危険と不安の予感が満ちていた。それを耳にした瞬間に、俺の視界が反転する。遅れて背中に激痛が走り、そこからさらに遅れて、激痛が右半身を襲う。そのあまりの痛さに、俺は堪えられそうもなくうめき声をあげる。声がかすれていて、その度合いが激痛を加速させた。

「うぅう……、ってぇ…」

それでも痛みに呻くことしか出来ず、だんだん視界は霞んでいく。ブーンブーンといううるさい振動が鼓膜を揺らす。音の方に目を向けると、そこには1台のバイクが悠々と立っていた。バイクの運転手は、人をはねたことに対して慌てておらず、堂々とした様子でいた。バイクが右側に立っていたからか、右手に持っていた傘が見えた。それはもうぐしゃぐしゃで、少し前、台風のような強風で大破した傘とまるで同じだ。最近はちゃんと丁寧に使っていたのに、と場違いなことを考えて、意識のフェードアウトが加速する。

「‥………しょう!師匠!…人を‥けてくださ…」

最後に、とても澄んだ声が耳栓を打った。

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