気になる視線
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翌日。朝。体とともに頭が起きることは無く、目が覚めた後に幾分かの時間を要した。眠い、わけではなかったと思う。耳の後ろの方の後頭部が血を溜め込んでいるかのように頭が鈍い。昨日のことを思い出したのだ、と思った。そのことに思い至ると、急に頭が覚醒する。いったい、自分はどうしてこんなことに思考を費やしているのだろうか?と、疑問が頭をよぎる。もう、あの麦藁帽子の女性と会うことなんて、もうそうそう無いだろう。自分は何を気にしているのだろう。 この広い街の中、俺の対人キャパシティを加味すると、昨日のような偶然はそうそうないはずだ。偶然、そう、偶然なのだ。そう思うと、どこか悔しさのようなものが浮かんできて、その感覚自体に舌打ちをした。舌打ちをしてはっとする。どうやら俺は想像以上に苛ついているようだった。。遮光カーテンを開ける。光と共に曇天が広がった。空が重い。頭の鈍さが気にかかる。朝風呂でも浴びればこの鈍さも収まるだろうか。そう思って、直ぐに行動に移し、温度を下げたシャワーを浴びた。体がさっぱりしたものの、期待ほどの効果はなかった。昨日とほとんど変わらない荷物で外に出る。出掛けに新品の傘を手にとって、階段をゆっくり降りる。階段を全て降り切るという時に、心臓がどきりと動いて、それを自覚すると同時に一気に足を進めた。階段を降りたそこには誰もいなかった。またイライラが募る。このいらつきの正体が実際にはわかっているくせに、それを認めることは許せなかった。足は自然と早足へ。しかし時折、息が詰まったかのようにそれが止まる。そうしていつもと同じどおりの時間帯に大学へと着いた。
大学に着くと、この曜日の1限の講義を一緒に受けている友達と合流した。その友達は学部も違い、サークルも違う。大学に入学してすぐの講義、内容はオリエンテーションのようなものだったと思うが、その講義で隣に座ったというだけの関係だ。それでも、大学も後期に入ろうかという今の時期までそいつとの友人関係は続いている。きっとこの後も続くだろうとなんとなく思う。気の置けない、というほどではないが、それでも気を使うことは多くはない。そんな少し置き過ぎているような距離感が続いているのが心地よい。この曜日の1限目はその距離感を楽しむために来ているといっても良かった。
講義教室の中ほど、廊下側の3人席を二人で占領して座る。この講義はそれほど受ける人数が多くないので、これくらいは余裕で許される。講義が始まるまで10分という所だった。暇をもてあましてしまう。こんなとき、一つ席を空けて隣の友達と会話するという手段もあるが、それはどうにもはばかられる。そのようにして積極的に話をするというのは、いや、目的を持って話をしようというのは、俺が望んでいる距離感を壊してしまうもののようなきらいがあった。そこで教室をボーっと眺めることにしてみる。ちょうど女子の集団が教室に入ってくるのが視界に入った。興味がなかったので視界に入れることもなく、また視界から無理にはずすこともしないで、ただ、その集団が通り過ぎるのを待つ。
(…あ。)
女子の集団が視界の中央付近に入って来たとき、その集団の中の一人と目が合った。それは昨日目にした顔だった。――シャギーの入った髪の毛、快活な印象を受ける女の子。――それは昨日の帰り際に、学校で見た女子だった。快活な印象を放っていた彼女は、今はおとなしめの配色でコーディネートされた服装をしていて、それが彼女を大人らしく見せている。その彼女が、昨日と同様に、こちらのほうを目を皿のようにして見ているのだった。俺の後ろの誰かを見ているのかと一瞬の期待を持ったが、壁際の席ではそれはありえない。彼女は間違いなく、一切の疑いのない様子でこちらを見ていた。きっと向こうはこちらと目があっているのに気づいている。気づいていてなお、目線をそらさない。戸惑った。そして困った。困惑した後、俺は視線をはずして前を向いた。確かバッグには読み途中の新書があったはずだ。それを読んでいよう。
自分がどうして困惑しているのか、肝心な自分がわかっていなかった。しかし、彼女を見ると、あるいは彼女に見られていると、なにか落ち着かない。彼女は何か、俺の知らない場所で俺の秘密を知っているかのように、俺を見透かしているかのように俺のことを見るのだ。十分に妙な恐怖だった。見ず知らずの女子にそこまでの恐怖を感じるというのは、今までない経験だ。彼女はどうしてそんなふうに俺の事を見るのだろう。俺の記憶に、該当する理由、きっかけは見当たらない。そも、彼女とは昨日が初対面なのだ。何度考えてもそれらしい理由がわからない。しばらくして授業が始まる
講義の内容は退屈だった。最初のほうこそ、斜め後ろのそこそこ近くの席まで接近してきた件の女子に気を持っていかれそうになったが、時間が経つにつれて講義内容が程よいテンポの音の羅列へと変わっていく。心地よいテンポは睡眠にはうってつけで、十数分の睡眠と、その後のまどろみを提供してくれる。俺はそれを甘んじて消費することで、この講義を乗り切ることにした。
講義も終わろうかという頃、タイミングを見計らったかのように目が覚める。講義は今回の内容のまとめに移っているところだった。まとめの部分をルーズリーフにさらっと移していると、講義の終わりのベルが鳴る。講義が終わってから、件の女子が何かコンタクトをとってくるとかいう事は無く、彼女は、彼女の友達と連れ立って講義室から出て行った。こちらは席を立たないまま、再び取り出した新書に没頭するフリをしてやり過ごしていた。そのフリをしてやり過ごす間に、一度だけ彼女のほうに意識を持っていくと、彼女がそれに気がついたかのようにこちらを見た気がした。が、多分気のせいだと思う。
その日は二コマ目の講義はを取っていないので俺は友達と別れた後、時間をつぶすために大学の付属の図書館に向かう。そろそろ赤や黄色が混じってもよさそうなものの、周囲の木々の葉は全てがみずみずしい緑色だった。図書館に向かうには駐輪場からのルートと、公道からまっすぐに入っていくルートの二つがある。俺はたいていの場合駐輪場のほうから図書館へと向かう。こちらのほうは原付二輪車やら自転車やらでごちゃごちゃしているものの若干距離を短縮できるからだ。俺にとって駐輪場程度の煩雑さは苦にならない。両側に隙間なく並べられている自転車の通路を抜けて、左へと曲がるとそこに図書館がある。曲がり角へとさしかかろうとして、そこで俺は足を止める。
(…またか…。)
そこにはまた、シャギー髪の女子がいた。今度は一人でいるようだった。図書館の入り口の前で携帯を眺めている。大人の雰囲気をにじませながら立っている姿は実に魅力的な女性のように思える。しかし、どうしてか、自分は無意識にその彼女の事を避けたがっているようだった。
暇をつぶすために図書館に入りたいが、そうしたら絶対にあの女子に見つかるだろう。それはなんとなく嫌だった。いや、嫌というわけではないのかもしれない。ただどうしてか、妙な焦燥感があるのだ。これ以上彼女に近づくことに、俺は頭の中のどこかでおびえているのだ。そして全力のアラームを鳴らしている。アラーム音は、その振動が脳みそから飛び出して、心臓を打ち鳴らすほどのものだった。
足を止めた位置から反対方向へと向き直る。今日の暇つぶしは学食で本でも読むことにした。
学食は程ほどに混んでいた。最高に混む時間帯は昼ごろなのだが、うちの大学の学食は大変に繁盛しているらしい。許容できるほどではあるものの騒がしい食堂内で本を読むというのに少々の抵抗を感じ、それでも図書館に戻るということは無かった。渋々といった感じの足取りで食堂入り口のドアを抜けると、今度は早足で空いている席へと移動する。どう考えたって食堂内の学生たちは俺のことなんて眼中に無いだろうと思うのに、それでも、騒がしい場所に一人でいるというのは逆目立ちしている気が抜けなくて落ち着かない。挙動不審な目が忙しなく左右を見渡す。窓際の席の中ほどに、4つほど連続して空いている席を見つけた。テーブルとテーブルの隙間を縫って目的の席に到着。右から二番目の席を取って左の席に自分の荷物を置く。こうすることでさりげなく隣の席の使用を妨げる。知らない奴が隣に座っているというのは居心地がよくないという理由からの対策だ。満席のときはそれもはばかられるが、そういう時はたいてい知人と一緒に宅を囲むのでわざわざそんなことをすることも無い。一息ついてバッグから新書を取り出した。本を開く。開くが、頭に文字は入ってこない。いつの間にか文字の羅列を追うばかりの作業を続けてしまい、気がつけば内容もわからないままにページの半分ほどを読み損ねていた。
(……はぁ…)
どうしてか集中できない。どうしてか調子が乗らない。原因はわかっているのだ。それはきっと、あのシャギー髪の女子に関わっているに決まっている。でも、原因は彼女じゃない。それは自分自身であると、そこにいたるほどにはっきりする責任が、妙に自分を安心させる。誰も悪くはない。自分が悪いのだ。いや、自分も悪くはない。ただ、責任は自分にある。昨日の一件、少々強引に彼女の好意を無碍にした。そして、そのあとすぐに、彼女の心境を知ることになり、俺はどうやら彼女に引け目を感じているのだった。なんとも小さい、しょぼい理由だ。そんなことで、俺は彼女を避けているのか。本当に小さい。俺は小さい人間だ。そう感じるごとに、胸のいらいらは消えていく。誰のせいでもない、自分が悪い。そう自覚することで、自分のあり方が明確になってくるようだ。今度、彼女に会ったら、お礼でも言うべきか。左手がページを進めていることに気がつき、また内容が頭に入っていなかったことを知る。それでも気にせずに、今度は先の1限の授業を思い出す。彼女は明らかにこちらに気がついている模様で、もしかしたら、向こうもこちらが気がついていること事態に気がついているのではないかと、そう思った。そして、その確率はさほど高くないにしろ、無視できるほど低くもないのだろうと考える。そうだとしたら、もしかすると彼女は、俺がシカトを決め込んだとでも勘違いするのではないだろうかと思った。実際、勘違いというほどそれは事実と相反してはいないが、それでも、その言葉に含まれる心持というのは、実際のものとはかなり違っている。俺は彼女に対してなんら悪意はなかったはずだが、それでも『シカト』とはそういうように見られることを、俺は知らないわけではない。だから、彼女はきっと、俺が彼女に対して何らかのマイナスの気持ちを向けているのではないかと感じても、それは無理からぬことなのではないかと、ぼやと思った。そう考えると、彼女に対する引け目というものはさらに大きなものになり、その引け目から、俺は彼女に対して話しかけるということ、御礼を言うということに緊張を覚えてしまうのだろう。そこまで自分を分析して、それが良くない事だと分かって尚、自分という人は行動を起こす人間ではないという結論に最終的に至ってしまう。自分という人間は本当に小さいな、と感じる結果になるのだった。
そして懸念は現実になった。俺は彼女に対してお礼を言うことができないでいた。苦手意識というか、引け目を感じているという自覚を持った後には、自分の中での彼女の印象が濃くなってしまうようで、その後、彼女の姿を頻繁に目にするようになった。同じ日に、同じ授業を取っていることも少なくないようで、どうやら彼女は自分と同じ学部に所属しているのだった。彼女の方は相変わらずの反応で、こちらを目にしては、ずっと、じっと凝視してくる。その目があまりにも大きくて丸いので、まるで梟のようだなと思った。その目に何か言い知れぬプレッシャーのよなものを感じて、俺はますます彼女に接触することに関して緊張を覚えてしまう。何度か目が合ったこともあったので、きっと彼女はこちらが気がついているということを知っているのだろうと考えるが、それでも行動しない俺に対して彼女は何かマイナスの意思を感じているのかというと、それはまったく分からなかった。分からないほど、彼女の行動は常に一貫しているのだ。変化がないというほうが正しいかもしれない。とにかく、仰々しい状況分析を簡潔にまとめるとすると、俺と彼女の間には、出会った翌日の1限の授業とまったく同じものが隔たっているままということだった。
2週間がたち、どう考えても御礼を言うタイミングは逃してしまっているのだが、こちらに対する行動を一貫する彼女に対して、俺が感じる引け目というものが収まることは全くなかった。それでもある程度の慣れを感じてきていた俺は、なんとなく彼女に鬱陶しさも感じていた。俺がコレほどにも気まずさを感じているというのに、彼女はそんなことは知らないとでも言うような振る舞いだ。それなのに、彼女の方から何か接触があるかといえばそんなことは全くなく、ただただ見てくるだけなのである。こちらからの接触を催促しているかのようで、彼女の行動に若干のいらいらを感じてしまうこともあった。そんなことを考えてしまうのは、きっといつもと同じ被害妄想なのだとわかってはいるのだが、それでも無理やり俺の意識の中に入り込んでくる彼女は、どうにもやりにくさを感じてしまうのだった。




