第四章 From Venoms to Drugs(5)
「行け、カエルの足」
マンホールの蓋を外したソージは、とりあえずカエルの足の燻製をそこに放り投げてみた。いくら《ヨルムンガンド》といえど、こちらの近くにいなければ、襲ってくるどころか、姿を表すことさえもない。
春奈を助けるために早々と倒したいところだったが、最初の障害は、あのデカブツが見当らないことだった。すでにカッコよく屋上を降りてから、十数分あまりが経過しようとしていた。
ビルの陰に隠れている凛が野次を飛ばす。
「こらこら、そんなショボイので釣れるわけないじゃないのよ」
「しょうがないだろ。まさか向こうが姿を現さないなんて考えてなかったんだから」
無慈悲に過ぎ去っていく時間が嘆かわしい。まだ陽が昇っているから、この世界の崩壊までには十分な時間があるというのに……なぜか焦ってしまう。
「なんか……、現実ってシュールだな」
今度はこの役に立たない魔導書でも下水道に放り込もうか。
そんなことを考えていたとき、地鳴りが響いた。
「きたっ! おまえらしくじるなよっ!」
彼は表情を引き締めた。
神経を研ぎ澄まし、どこから敵がやってくるかの気配を探る。狡猾なデカブツのことだ、こちらの意表を突くところから、出現することだろう。セオリー通りなら後ろのマンホールか。いや、ちがう。これは……真下だっ!
ソージが大きく跳躍するのと、《ヨルムンガンド》が地面から顔を出すのは、ほぼ同時だった。砕け散ったアスファルト破片が頬を打つ。彼ひとりなら、このまま防戦一方に持ち込まれていたことだろうが、今回は三人ひと組のチームだ。ソージはおとりとして敵を惹きつけている間に、他の撃滅師たちがアシストしてくれる。
そしてその仲間たちは期待にこたえた。
《ヨルムンガンド》が地面に着地すると同時に、その鎌首めがけて、銃弾が浴びせられた。時雨だ。五階建てのビルから彼女は、ソージを睨みつけるようにしている大毒蛇の頭頂部めがけてガトリング砲を撃ち続けていた。
ビル群の中から手頃な高さの物を選び出し、ちょうどその高さと平行な位置取りを維持しながら弾丸の雨を叩きこむ。時雨の所持しているショットガンでは、リーチが不足しているのが惜しかった。九ミリパラベラム弾では、強皮の前には無力だ。
「ちっ!」
思わず悪態をつく時雨。
血に飢えた双眸がこちらを向くと、彼女はすぐに射撃を中止し、建物の内部へと逃げる。やつの巨躯の体では、このビルのフロア程度の高さでは低すぎで、内部で身動きがとりづらいため、あまり攻め込みたくないはずだ。
「どこ向いてんだ、デカブツ。次は俺だぜ」
地上からソージが疾風の刃をぶつける。直撃。弾け飛ぶように風圧がまき散らされたが、大毒蛇にはノーダメージだ。漆黒の鱗は鉄壁の盾と同じ役割を果たす。もっとも時間稼ぎなので、これも計算尽くだが……。
《ヨルムンガンド》の意識がふたたびソージへと向けられる。巨大な鎌首がその大きさからは想像もできないような機敏な動きで襲いかかってきた。まるで巨人が放つ鋭いジャブのような攻撃。それを大きく左に飛んでかわす。風に乗って中へと高々と舞い上がる。すぐに姿勢を立て直して撃ち込まれたニ撃目を、ソージはビルの壁面を足場にして跳躍することでさらに回避する。
勢い余った漆黒の巨頭が、ビルの中へと突っ込んだ。その光景にソージは内心で小躍りしていたためか、後ろから迫ってくる魔手のような尻尾を避け損なってしまう。
「…………がっ!」
空中で体を捻り態勢を立て直しながら、だがそれでも崩れ落ちるように地面に着地する。咄嗟に風の障壁を築いてダメージを軽減したが、意識が削げ落ちそうになった。
「ソージっ!」
動けなくなった彼に気づいた凛が、思わず叫び声を上げる。
いままで彼女はビルの陰でひたすら魔力を練り込んでいた。そんな彼女の手中には、植物の種子がひとつだけ握られている。親指のさきほどの大きさのその種子は、対《化身》用に品種改良を重ねられた、彼女の切り札だった。
「祈りに応えよ。わが無垢なる友よ。眠りしときの狭間に埋もれし、世界に宿れっ!」
凛の体から青白い光のようなものが湧きあがったと思うと、ポニーテールや制服がなにかのチカラに干渉されているかのように不自然に揺れ始めた。そして彼女はチカラの全てをその種子に込め、モノリスの《守護獣》へ向かって放り投げる。
「全てを喰らい尽しなさいっ!」
召喚されたのは、いままでに見たことない植物だった。
その大きさは《ヨルムンガンド》と負けず劣らずの巨躯であり、どちらかというと人型を連想させる形状をしていた。もちろんあくまで連想だ。足にあたる部分には筆の先のように根が張り巡らされ、手にあたる部分には大綱のような触手がこれでもかと獲物を探し求めている。そして顔にあたる部分には、巨大な二枚貝のような捕食器が三つほど取りつけられていた。
「どっちがバケモノかわかんねーな、こりゃ」
腹部を庇うように疼くまりながら、ソージがつぶやく。
いつの間にかそんな彼の側に凛が立っていた。
「失礼ねっ! あたしのかわいい〈シャーリーン〉スペシャルになんてこというのよ。あのデカブツを処理したら、あんたも喰い殺してやりましょうかっ!」
「……マジで死ぬかもしれないから、勘弁してくれ」
そこから先に広がったのは、B級の怪獣映画を彷彿させるような戦いだった。
お互いに声帯を所有するこの生物たちは、大地を揺るがすような咆哮を上げながら、対決する。先手を取った〈シャーリーン〉が《ヨルムンガンド》に絡みつき、その二枚貝のような口で、大毒蛇を無理やり呑み込もうと消化液をたらし始める。その唾液はどうやら強力な酸性らしく、周囲のコンクリートを容赦なく溶かし、辺り一面には、いままで嗅いだ事のない酸っぱい香りが漂った。もともと《ヨルムンガンド》は下水から出てきたので汚物の臭いを漂わせていたのだが、それで鼻が麻痺しているはずのソージたちにもわかるほどの刺激臭だった。
「おい、撃っていいのか?」
ビルからビルへと移動していた時雨が顔をしかめながら確認してくる。この世の終わりのような光景から目を離せずにいたソージから見ても、いまが絶好の射撃チャンスであることは間違いないだろう。
「もう少し待ってくれ。この戦いはまだ続きそうだ。あのゲテモノには、ギリギリまで粘ってもらう」
辺り一面のビルをマッチ棒のように蹂躙しながら、戦い続けるその両者は、どちらが《化身》なのか、もはや第三者にはわかるまい。必死に巻きつこうとする〈シャリーン〉に対し、《ヨルムンガンド》はその体躯を大きく捻り抵抗する。この巨大な植物と爬虫類との戦いは、どうやら後者に分があるようだ。凶暴性を剥き出しにした《ヨルムンガンド》の報復により、絡みついた大綱のようなツタは千切り取られ、筆先のように大量にあった根は踏みつけられ、その象徴たる巨大な捕食器は、すでにひとつがもぎ取られていた。
「うぅ……、あたしの〈シャーリーン〉スペシャルが……」
凛が心底苦しそうな顔をする。
それから間もなく決着がついた。《ヨルムンガンド》の二本の巨大な白い牙に噛みつかれ〈シャーリーン〉は善戦むなしく、敗退。断末魔の叫び声のようなものを上げながら、急速に枯れは果て、その身は萎れていく。相対していた《ヨルムンガンド》は、まるで息を切らしたかのように悶えていた。
「いまだっ!」
願ってもない好機にソージは声を荒げた。
屋上からその異様なる戦いの光景を見守っていた時雨は、思わず口許を緩める。
いくら《ヨルムンガンド》といえど、あの過激な戦闘のためか、漆黒の鱗はところどころはげ落ち、その素早い動きは鈍化し、まさに狙い目であったからだ。
〈騎竜〉流線型のボディーが展開し、両肩からは三発ずつのミサイルポッドが、両脚部からはニ発ずつのミサイルポッドが現れ、頭部センサーから発せられる照準レーザーが《ヨルムンガンド》へと向けられる。
「ターゲットを確認した。FCS起動。赤外線センサー異常なし。ミサイルとのデータリンクを確認。自動追尾装置セットオン。セーフティロック解除。位相干渉は許容範囲内。発射準備完了。カウントダウンは全て省略する。……発射――っ!」
全弾発射に伴う衝撃を、時雨は心地よく感じられた。
合計十発の対戦車ミサイルが狙いを違うことなく、秒速四○○メートルで真っすぐ突き進む。そして吸い込まれるように目標へと向かう。直撃。髪先を焦がすかのような爆風がやってきた。合計五十キロあまりの成形炸薬のノイマン効果の前では、あのデカブツの強皮といえど、意味をなさなないはずだ。
舞い上がっていた粉塵と爆炎がはれた先には、異様な光景が広がっていた。
《ヨルムンガンド》の死骸があるはずの空間には、半透明のプラ板のようなものが存在していた。なんだこれは。その形は歪であり、猛攻に曝されたためか原形を留めていない。死体はどこだ? あの攻撃を耐え切れるはずがないのだが……。
いままさにその屍から、素材を剥ぎ取ろうとしていた凛が疑問を呈する。
「どういうことよっ!」
彼女の視線の先にあったのは、半透明のプラスチック板でつくられた大蛇のような物体の残骸だった。
本体の姿が見当たらない。
屋上から真っ先に状況を理解した時雨が叫んだ。
「抜け殻だっ! やつは生きているぞっ!」
だが、それと時を同じくして凛の後背から《ヨルムンガンド》が姿を現す。どうやら地下に潜っていたらしい。その強皮は漆黒の艶やかな鱗の輝きこそ失われていたが、いまだ健在であった。
「え……っ!」
奇襲された凛が後ろを振り向くと、視界一杯に迫った大毒蛇の姿。絶体絶命。免れようのない死。だがその攻撃が届く直前に、彼女は何者かに抱きかかえられて難を逃れた。次の瞬間。走行中の自動車に撥ねられたかのような重たく響く衝撃が襲ってきたが、それでも彼女は痛みを感じなかった。
それでも助けてくれたその人物はそのまま勢いよく突き進み、凛を抱えながらとともにビルの中へと姿を消すこととになった。突き破られる窓ガラス。静寂に包まれていたはずのどこかのオフィス。そんな場所で自分を助けてくれた相手の顔を確認した凛は思わず声を洩らす。
「どうして……っ!」
抱きかかえながら、おもわず口許を手で覆った。凛の瞳には、頭から血を流しながら、満身創痍といった様子の時雨の姿があった。
「おまえがやられたら、森崎を助けるものがいなくなる。それにわたしは装甲服を着用しているし、ミサイルも使い切ったからな。これといった有効打はもう望めない」
ヘッドギアを弾き飛ばされ、装甲服は両側が凹んだ状態になり、肩のウエポンラックが収納されている部分は、それごと無くなっていた。流線型のボディーがもはやその形をなしていなかった。
そして――
「……すまないが、限界のようだ」
そう言い残して時雨は、彼女を抱きかかえたまま前のめりに倒れた。
軽いの衝撃。そのすぐあと、凛は急いで時雨の首元に手をやる。焦っていてあまり感覚が掴めない。生きているのか。死んでいるのか。それさえもわからない。もどかしい。気持ちばかりが先走る。外ではソージが戦闘しているのだろう、断続的な衝撃が生じて、窓を揺すぶっていた。
「……よかった。生きてる」
首元に手を当てて時雨の生存を確認した凛は、どうやら自分が足手まといになってしまったことを悟り、そしてそのことに少なからず衝撃を受けているようだ。それでも、撃滅師である彼女は自分にこう言い聞かせる。後悔なんてしない。するとしたら、それは全てが終わったときだ、と。
窓の外に目をやると、ソージが孤軍奮闘していた。
おそらく《ヨルムンガンド》の強皮は脱皮したてということもあって、その表面が多少なりとも軟らかくなっているのだろう。真空刃がその体表を傷つけていた。だが質量が違い過ぎる。攻撃が通るようになったとはいえ、このままでは埒が明かない。