第三章 結ばれゆく者たち(7)
「奈々ちゃん。あーんして」
洗面所で奈々が口を大きく開けた。
「んー。すこし染みるわよ」
春奈が彼女の口の中に薬品を塗布した。
どうやら口内炎の薬のようだ。
「はい。これでおしまい」
誰かになにかをしてもらったとき、奈々はかならずお辞儀をする。誰に教えられるまでもなく、これは彼女の自我が芽生えたころからすぐに身につけていた礼儀だった。今回も例に漏れず、彼女はぺこりとお辞儀した。
ソージと奈々の父親は、『草木にも礼をして歩くような人だった』と聞いたことがある。そんな父は《化身》に命を奪われる最後の最後まで、生きることを諦めはしなかった。そして誰かを助けることも忘れたりはしなかった。
あのときはいまでもはっきりと覚えている。
両親と行ったデパートでの買い物中に、彼女はハザードに遭遇した。場所が悪かったためか、逃げる間もなく《化身》が襲来し、建物内部は大混乱に陥った。
そんな状況でも父はほかの人の身を案じ、逃げ遅れた人々を守るために戦い散っていった。母は彼女の身柄を衣類売り場の山積みされた服の中に隠したあと、《化身》によってその命を絶たれた。目の前で殺された両親のことを、彼女は忘れることができないだろうし、忘れたくもない。
(お兄ちゃんは、あれから変わりました)
死臭に満ちたデパートの中から奈々を救い出してくれたのは、ソージだった。
その当時は、いまのような陽気でへらへらした口調ではなく、思慮深く寡黙な少年だった。そんな性格のためか、奈々を助け出したのあと、彼は奈々をその身に抱きよせながら、両親の死を憐れんだ。慟哭することはなく、ただ沈黙することで……。
(それから、わたしは喋れなくなりました)
精神的なショックで喋ることができないと医者に報せれたとき、ソージは「そうですか」と口にしただけだった。いまにして思えば、あのときから彼は陽気になった。軽口をたたくようになり、なにかといえば、奈々に質問を投げかけるようになった。なにかの拍子に彼女が言葉を喋ることを信じて……。
(わたしはときどき鏡に映った自分に向かって話しかけます)
まだ声は出ないけど、いつか出ると信じて。
そしたらお兄ちゃんも喜んでくれると信じて。
(そんなわたしだからこそ、はっきりわかることがあります)
森崎春奈は思い悩んでいる。
そのことを奈々が確信したのは、《ヨルムンガンド》に襲われたときだった。
彼女の瞳には春奈が生と死の狭間に陥ったとき、自分から望んで死を受け入れようとしていたように映っていた。そもそもなぜ春奈がここいるか、その理由を彼女は知らない。知りたくもない。それでも春奈の瞳には闇が宿っているから、大体のことは察しがつく。
もしソージが三年前のあの場で駆けつけてくれなかったら、わたし自身もきっとこんなふうに闇に支配されていたかもしれない。
(でも、それは全部じゃないんです。春奈さんはきっと救いを求めてる)
死を受け入れようとしたのは、復讐に疲れたのだろう。
奈々にはなんとなくそれがわかった。
(お兄ちゃんは優しい人です。だから、この人もきっと――)
聞くこと頃によると、春奈はソージのクライアントらしい。依頼内容については教わらなかったが、おそらく厄介事だろう……。奈々もそのお手伝いがしたいと考えていた。いつも無条件に愛情を捧げている、すこし暴走しがちな兄のために――
「これはね。指磨きっていうの」
その声を聞いて、奈々ははっとした。
「ホントはもう少し丁寧に掃除するべきなんだけどね。でも、これだけやっとけば虫歯にならないわよ。口内炎もすこしよくなるかもしれないわ。……奈々ちゃんもやってみる?」
人差し指を口に咥えながら、春奈がそう問いかけてきた。
奈々は敢えて首を横に振ってみた。
「うーん。少しだけやってみましょうよ」
誰かのためを想って行動できるのは、春奈も同じだった。奈々のことを想って行動するソージと、その本質はなにも変わりない。それなのに瞳に闇を宿している。それをなんとかして取り除きたいと奈々は願う。
「そうそう。……やればできるじゃないの」
奈々が指磨きに挑戦したら、春奈はその髪を撫でた。
「よしよし。これで、虫歯にはならないわよ」
奈々はにっこりとほほ笑んだ。
「ホント、ソージの妹だって言うのが信じられないわ」
心外そうに口にされて、奈々は傷つく。そんなに自分と兄は似ていないのだろうかと思い悩んだ。これで三人目だ。兄と似てないと言われたのは……。
「……ああ。ちがうちがう。そういうことじゃなくて」
春奈が大慌てで訂正する。
「ソージの妹にして立派過ぎるっていうこと」
兄を馬鹿にされるのは、妹としては心苦しい限りだった。
どこかしゅんとした奈々に対し、春奈が告げた。
「あー、馬鹿にしてるんじゃないのよ」
その言葉を受けて奈々が元気を取り戻す。どうやら春奈は奈々の表情の変化を読みとることができるようだ。
そのまま春奈はどこか憧憬の念を抱いた表情で、誰に言うでもなく口にする。
「あいつもあいつでイイ所あるし……。減らず口で大雑把だけど……」
奈々が驚いた顔をしながら、口許に手を当てた。
「え……っ! べ、べつにそんなつもりじゃ……」
今度は立場が反対になり、春奈が困惑し俯いてみせた。その頬はほんのりと朱色に染まっていた。そして彼女はむくりと顔を上げると、
「ちょっと奈々ちゃん。年上のお姉さんをからかうのはよしなさい」
そんな叱咤を受けても、奈々はふたたび同じ動作を繰り返す。
その頬に変化は全く見られない。
「もう。だから違うってばーっ!」
春奈は両手をぶんぶんふり回す。
その頬は桜色に染まりきっていた。
このとき。
森崎春奈の内心では、とある重大な事実の認識が欠落していたことが判明していた。
目の前にいる少女も。いまここにいる自分も。
ハザード遭遇回数は、今回で四回目になることをだ。
果たして目の前にいる少女は悪魔に見えるだろうか?
はにかんだ笑顔を見せ、ぺこりとお辞儀し、天真爛漫なその姿は。
それはまるで――天使のようだった。
どちらも《悪魔憑き》と呼ばれ忌み嫌われるべき存在であるのに、奈々にはそんなものの欠片すら感じさせなかった。
奈々と出会ってから、彼女は久しくこの言葉の存在――自分の悪名を忘れていた気がする。
もしかしたら悪魔とは、人々の偶像が生み出した産物に過ぎないのではないだろうか。
悪魔に憑依されたはずの少女は、そんなことを思った。