第三章 結ばれゆく者たち(6)
「へえー。奈々ちゃんってこんな顔して笑うんだ」
なんとか神社まで逃げ延びた春奈たちは、昨晩お世話になった住居でもう一夜明かさなければならなくなっていた。いまは夕暮れ時の時間帯で、言葉を喋れない奈々と春奈がカード遊びに興じながら、コミュニケーションをとっている最中だった。
「どう? ソージの妹なんかやめて、あたしの妹にならない」
奈々はやんわりと首を振る
「なあんだ。……残念」
そう口にする春奈の手札には、ハートの四とジョーカーがあった。奈々の手札は、残り一枚。ちょうど一騎打ちをしているらしい。先にあがった凛がその二人をあたたかく見守っていた。
虚幻世界にいるだけでも神経をすり減らしているだろうに……。凛は虚幻世界に不慣れな身の上を憂いた。この絶望的な状況の中で、トランプで遊びたいと申し出たのは、奈々だった。なにやら思い悩んだ顔をしていた春奈に部屋にあったトランプを手渡したのが、そもそものきっかけだ。
それから二時間ばかり、彼女らはトランプにのめり込んでいる。
そして逃げ帰って来たばかりの暗く落ち込んだ気持ちが嘘だったように、いまは明るさを取り戻していた。もしかしたら、奈々ちゃんはこのことまで計算して、わざと――。凛が妙に勘ぐったが、そんなことは有り得ないと自ら打ち消す。
「やったー。あたしの勝ちー!」
どうやら春奈が勝利したようだ。
本当に悔しそうに頭を抱えている奈々の姿を見れば、それが演技でないことがはっきりとわかる。この子は掛け値なしに優しい子なんだな、と傍観していた凛にはわかった。そして次に、この子を自分のものにしたいという強い衝動が湧きあがった。
なんというのか――ソージの妹にしておくには――もったいないのだ。こんな心根の優しい妹が、どうしてあんな守銭奴の《ハイエナ》野郎の妹なのか、彼女は理解に苦しんだ。もしかしたら、どこかから誘拐してきたんじゃないだろうか。あいつなら、お金が絡んでいたなら、やりかねないかも――
「どうしたの? 今日ってあの日だったの……?」
春奈にそんな声をかけられた彼女は、思わずぷっと吹き出しそうになる。あたしはいったいどんな顔をしていたんだろう。
「な、なんでもないわよ。……ほら、奈々ちゃん。負けたからって、そんなに気落ちしないでビシッとする。あなたは今夜一晩かけて、あたしが懐柔して見せるわ」
「凛、奈々ちゃんが怖がっているよ。……そんなことより、明日はどうするつもりなの?」
「ちゃんと考えてあるから、あんたたちは大船に乗ったつもりでいればいいの。それとこの家の周囲には、あたしの〈シャーリーン〉が植えてあるから、不必要に接近する生き物があれば喰らい尽すわ。だから今日も安心して眠ってね。それよりも問題なのは、あのふてぶてしくて空気読めない蛇ね。今度あったら、確実に息の根を止めてやるんだからっ!」
そう意気込んでみせる凛だが、本当のところは未定だ。中心部には《ヨルムンガンド》が巣くっていて近づくことさえもままならない。脱出までのタイムリミットは明日まで。それを過ぎればこの世界は《守護獣》が倒されていないために、爆発ともに消滅する。あたしたちは……死んでしまうだろう。
だがこの場にいる撃滅師は、あたしひとりだ。弱音は吐くわけにはいかないっ!
彼女の家――神宮司家は、室町時代から祓魔師を営んできた、魔術戦闘のエキスパートだ。西洋魔術のように、広範囲・高威力に特化していないが、先祖代々受け継がれてきた魔力という名の誇りがある。いまはお家騒動の真っ最中で、家督を継ぐにはどうしても実績が必要だ。そのチカラを示すために《核石》を集めなければならなかった。
でもそんなことより、いまは仲間を守りたいっ!
こんなことを言うと、矛盾しているように思うかもしれないが、それがいまの彼女の本音だ。人間の本性はいざというときに顕れるというが、これが彼女の本性だとは当の本人すら思っていないことだろう。凛自身は、この気持ちを祓魔師としての誇りの問題だと捉えている。弱者を見捨てることは、長年受け継がれてきた彼女の一族の誇りを踏みにじる行為だと考えているのだ。だからこそ彼女はその身を挺してまで、中学生たちを現実世界に誘導した。
「あたしは先にお風呂に入るわ。春奈と奈々ちゃんも順番で入ってちょうだい」
そう言って、凛は一人だけ座布団から腰を浮かす。
脱衣所に辿りつくと彼女は苦々しげな表情を浮かべながら、制服を脱ぎ始めた。蛍雪草が醸し出す幻想的な光が彼女の素肌を照らしだす。すき間なくびっちりと張られたはずの固定用の防水テープからは、血が滲み出ていた。お腹の傷がわずかに開いていたのだ。
どうりで痛かったわけだな。彼女は思わず頬を緩めた。あれだけ走ったのに、これだけしか開いていない。もしも施術がほどこされていなかったら、逃げる途中でばっくりいって、チカラ尽きていたかもしれない。
「ねえ、春奈。あんたの本質はなんなのかしら」
誰もいない脱衣所で防水テープの上から傷口を撫でながら、神宮司凛はそうつぶやいた。