第三章 結ばれゆく者たち(3)
中心部に進んでいるにもかかわらず、敵の気配はまるでしなかった。
《化身》は狩り場の重要性を理解しているようで、ふつうは人口密集地に集まっているものだ。それなのに静かすぎる。妙だ。まるで嵐の前の静けさとでも言うべきその気配を、撃滅師の三人組は敏感に感じ取っていた。
「ヘンだよな」
「そのようだな」
「敵がいなさすぎるわ」
いがみ合うことしか知らない三人の意見が合致したのは、たしかにヘンだ。
「時雨が早起きして大掃除してくれていたとか……、そういうオチはないのか?」
「いや。寝坊してしまってな。……目を覚ましたら、夜中だった」
「なによ、それ? もしかして冗談のつもり?」
耳慣れない言葉を尋ねるかのような凛。
「むっ。そうは聞こえなかったか」
「意外だぜ。おまえってジョークを口にできたんだな」
以前の時雨は冗談など口にできる人間ではなかった。
凛もそのことに同意する。
「あんた、人間性が急激に成長したわね」
「そうだろうか?」
「そうよ。まえは顔がない人形のようだったわ」
「……顔がないとは、どういう意味だ?」
ややムスっとしている時雨。
「人形としては致命的だったっていうことだろ。なあ、凛」
「そういうことね。でもいまは〈シャリーン〉の百分の一くらいの愛想があるわ」
「……よくわからん」
単なる無駄話に聞こえるかもしれないが、そうではない。
いくら彼らであっても、緊張しているのだ。これまで戦ったことがない『強敵』が存在する世界で、奇妙な静けさに包まれている。決して静謐とは呼べないそれは、この世界のエキスパートである彼らに、不吉な予感と呼べるものをもたらす。それを紛らわすための雑談だった。
そして、予感は現実のものとなる。
不意に地面が大きくかれた。
道路の舗装されたアスファルトが、下からもの凄い力で押し上げられたかのように砕け散り、どこかで嗅いだ事のあるようなイヤなにおいが鼻を突いた。
「な、なんなのよ……っ!」
春奈が悲鳴を上げるのも無理はない。
彼女の目の前にあったマンホールの蓋が勢いよく外れたかとおもうと、なにかがぬっと這いでてきたからだ。その黒いなにかは、彼女の姿を地中深くから認識していたかのように、その先端部を彼女へと向けた。
そしていままで閉じられていたその眼がぱっと開かれる。血に飢えたかのような赤い瞳。春奈にはそれがなんなであるのか、すぐにはわからなかった。だが次の瞬間。それが全てを呑み込めそうな、大きな口を開けたときになって始めてわかった。
春奈はつぶやくように言う。
「ああ。あたし……、死ぬんだ」
スローモーションで再生されているかのようなゆっくりとした動き。しかし、その白い牙をたずさえた巨大な口は確実にこちらへ接近してきた。
「もう少しだけ、《化身》を殺しておけばよかったな……」
生と死の狭間で彼女の頭をよぎったのは、そんな考えだった。
ふっと全身から力が抜けた。膝から崩れ落ちるようにして彼女は脱力する。
痛いのかな。それとも痛みすら感じる間もなく……。
恐怖に怯えながら目を瞑った彼女は、死を覚悟した。
だが――
「あきらめるなっ!」
全身から力を抜いた彼女は、ソージに抱きかかえられていた。
風のチカラで文字通り疾風の如く駆け抜け、彼女を窮地から救い出した。その身に風を宿した少年のことを、彼女はどこか呆けたまなざしで見つめた。
這い出した《ヨルムンガンド》の頭部に、オレンジ色の火花が散った。時雨が〈騎竜〉のガトリング砲で援護してくれたのだ。右腕部の三角形の連射砲が唸り声を上げる。小火器用の九ミリ弾が素早く数十発ほど撃ち出された。
《ヨルムンガンド》がその巨大な頭部をマンホールの下へと引っ込めた。堪えきれなくなったのだろうか。
「走れっ! やつはまた来るぞっ!」
時雨の鋭い声が響く。ソージは春奈を急いで降ろすと「急げ!」とだけ告げ、彼自身は巨体が影を潜めたマンホールと向き合った。
春奈たちの避難は、凛が請け負うようだ。彼女は先陣を切って、モノリスを目指し走り続ける。その後ろに続くのは春奈と奈々。それから大分遅れて北村の姿があった。
ふたたび地面が大きく揺れた。
なにかが地下を這いずり回る感覚。ソージは身がまえた。マンホールへ意識を集中し、いつでも風の刃を放つ用意をするのだが、
「…………っ!」
彼の後方五○メートルに位置するマンホールの蓋が空高く舞い上がった。それが音を立てて落下するよりも先に、《ヨルムンガンド》がその全身を曝け出した。
「くそっ! 回り込まれたっ!」
予想していたよりも、遥かに知能が高い。《化身》にしては狡猾すぎるまでに……。超危険(ED)種。その言葉の意味をはっきりと身を持って彼は悟った。やや遅れてマンホール蓋が落ちてくる。重さ五○キロを超えるそれが、北村をめがけてだ。ソージが咄嗟に庇わなければ、彼の運命はここで終焉を迎えていただろう。腰を抜かした北村を抱えながら、ソージが傍らの時雨に向かって叫ぶ。
「どうやって俺たちが移動したのに気付いたんだっ!」
「考察はあとだ。状況の対処を優先する。貴様はその子供を離すなよ」
「わかってるよ。……そういや、あのデカヘビ、おまえの攻撃どっさり喰らっても無傷だったようだぜ」
「ああ。昨日戦ったときに既に証明されてしまっている。……だが、撃たないわけにはいかない」
そう言って、時雨は右腕部ガトリング砲を《ヨルムンガンド》に発砲する。たが巨躯のそれに対しては、やはり豆鉄砲だった。そうしている間に、逃げようとしていた凛たちが大慌てでこちらへ戻ってくる。
見かねたソージが、時雨に野次を飛ばす。
「相変わらず経費をムダ使いする戦い方だな。……このまえみたいに、ミサイルとかは撃てないのか」
「それが……領収書が切りづらくなっている。上から釘を刺されてしまった」
「いまが必要なときだろうがっ!」
「あの時点で《核石》を回収できてさえいれば、具申通りに書類は認可され、わたしは金満装備でここにいただろう。……だが、どこかの《ハイエナ》に《核石》を奪われてしまった」
「つまり、全ての原因は、その《ハイエナ》にあるっていうことよね。ソージのバカっ!」
慌てて引き返してきた凛がすれ違いざまにそう言って、今度は反対方向に逃げていく。逃げながらでも、罵り合うことは忘れないのは性なのだろうか。さらにその後ろには春奈と奈々が続いた。モノリスのある『出口』とは反対方向だが、安全第一なので仕方がない。北村は腰を抜かしてしまったのでソージが抱えている。
ソージが眉を八の字にして、気まずそうに言う。
「あのー、それってその《ハイエナ》さんに全部責任があるわけ?」
「そういうことだ。全て《ハイエナ》に非がある」
「へええーー(棒読み)。それは悪いやつがいたもんだな(棒読み)」
ちょうど奈々がソージたちの傍を横切っていった。妹の前では、『良識あるお兄ちゃん』を演じきるつもりらしい。
ソージが打って変った口調で弁解する。
「だって仕方ねえだろ。マンションのローンをまとめて払っておきたかったんだから。知ってるか。いまって金利手数料がものすご~~く高いんだぞ」
「そんなこと、わたしの知ったことかっ!」
ここの騒ぎを聞きつけたのだろう。《グレムリン》と《ブラックハウンド》があちこちから姿を現した。目の前には、仁王立ちした悪魔のように《ヨルムンガンド》が立ち塞がっている。万事休すだ。
「ザコからやるぞ。いいよな」
「理に適っているな。わたしもそれでかまわない」
ソージは北村を強引に片手で担ぐと、空いている方の手を鋭く振り抜いた。アスファルト抉り取るかのように、六○ノットクラスの暴風が《化身》へと向かう。周囲の道路標識や、コンクリートの破片、果ては街路樹まで根こそぎ巻き込むほどの強烈な威力だった。
「追撃はさせないっ!」
それでもなお態勢を立て直しつつある《化身》の群れに対し、時雨は正確に銃撃を浴びせていく。この時点でガトリングの残弾はほぼ尽きた。残っているのは、ミサイルの代わりに積んでいた煙幕弾ぐらいのものだ。
急激に数を減らしながらも生きながらえた敵の群れは、凛たち――脱出組の方へむかう。なんとかソージたちがそこに割って入ろうとしたとき、意表を突くように巨大な影が動いた。《ヨルムンガンド》がその巨躯をうねらせながら、先に割って入ったのだ。
ソージはおもわず舌打ちする。
「ちっ! 分断されたっ!」
これでは、凛たちの援護をすることができない。
さらに《ヨルムンガンド》が、その口腔をさらけ出す。鳴き声を発しながらの威嚇かと思ったが、そうではない。禍々しい紫色の霧が勢いよく吐き出された。毒霧だ。ソージは咄嗟に和風を引き起こしてそれを打ち払う。さきほど大技を使ったあとで、チカラが戻りきっていなかったのだ。
「そっちに流すぞ。間違っても吸い込むなよっ!」
それでも砂埃を起こす程度のその風は、なんとかこの場を凌いでくれた。さらに毒霧を、凛たちに襲いかかろうとする《化身》群れへと運んでくれてもいる。紫色の霧に包まれた《化身》は、例外なく痙攣を引き起こされ嘔吐し、その身を屈伏させることとなった。
その光景を《ヨルムンガンド》を挟んで反対側にいる凛も目撃していた。
「神経毒よっ! これを吸ったら、全身が痙攣しても動けなくなるわっ!」
「もうっ! なんなのよ、これっ!」
毒霧をかすめるようにして、春奈が姿を現した。
どうやら息をとめて、吸い込まないように努めていたらしい。
「蛇毒の一種よ。毒で相手を動けなくさせて、生きたまま獲物を丸呑みする。獲物は動けないまま時間をかけてゆっくりゆっくり消化させれるわ。解毒法はわかんないし、血清もないんだから、ゼッタイに吸いこんじゃだめよっ!」
「……う、うん」
チカラない返事を返す春奈。
「奈々ちゃんは?」
大慌てで凛が捜すと、奈々は生き残った《グレムリン》に追われていた。隠し持っていた投げナイフを制服の中から取り出し、スナップを利かせる。白銀一閃。ナイフは《グレムリン》の眉間に深々と突き刺さった。
「こっちよっ!」
奈々が駆け寄る。とりあえずこれで全員だろう。もうひとりの少年の方は、ソージたちがなんとかしてくれるはずだ。いまあたしがすべきことは、ここにいる二人の安全を確保することだ。さて、どうする? 凛は思案に暮れる。このまま回り込んで脱出を試みるべきだろうか。時雨からの情報では、この世界が消滅するまで、あと一日半ほどのあるらしいが……。
わずかな躊躇いが生じる。そうしている間に、《ヨルムンガンド》が暴君の片鱗を表した。
毒霧をところかまわず撒き散らしながら、ニ○メートルの巨体で、こちらを踏みつぶそうと暴れ回る。ビルがコンクリートごと削り取られ、外灯はポールごともぎ取られ、高々と破片と埃が舞い上がった。さらにポールが勢いよく回転しながら、凛のすぐ足もとに突き刺さった。
「……ここにいたら、死んじゃうわね」
冷静に状況を吟味し、この場は退くことにする。ソージたちの位置なら、現実世界に戻ることだって可能なはずだし、あの北村とかいう子供を先に送り届けなければならないだろう。それに現実世界に戻ったついでに、蛇殺しに役立つようなものを調達することだって可能だろう。
「逃げるわよっ!」
その決断の直後に、騒音の先から声が聞こえた。
時雨の張りのある声が突き抜ける。
「煙幕弾を使用するっ! 各自の奮闘を期待するっ!」
聞こえ終わるや否や、濃密な白い煙があたりを覆い隠し始めた。反転。先頭を突き進み、立ち塞がる《化身》を排除しながら、凛は逃げ道を切り拓く。
「郊外に逃げるわっ! 春奈は奈々ちゃんのことをお願い。あたしはザコを倒しながら、みんなを守るっ!」
後ろから迫ってくる煙幕にまかれないように、凛たちは大急ぎでこの場を後にした。




