第二章 戦いの幕開け(11)
それは些細な変化に過ぎなかった。
だが、注意深く相手を観察していた春奈にとって、事実が露見するには十分過ぎた。
「ヘンですね」
そう言った彼女の視線の先には、凛の姿があった。さきほどから「疲れた」と言ったきり、彼女は横になったままだった。加えてわずかに顔が青白くなっている。どこか具合でも悪いのだろうか。春奈はそっと凛に近づいた。
「…………っ!」
間近で見ると、彼女はうっすらとその額に脂汗を浮かべていた。やはりどこか調子がおかしい。春奈は彼女の体にそっと視線を這わせた。まるで痛いところを抑えつけるかのように、凛の手が腹部のある一点に留められていた。
「診せてっ!」
春奈は強引にその手を押しのけて制服を脱がせようとしたが、凛に遮られた。
「……だいじょうぶよ。あたしもこれで撃滅師だから」
「あたしは医者の娘なの! あなたよりもケガには詳しいわ」
「……これくらいは、慣れっこだから」
「でも、診せてっ! 大丈夫って言う人に限って大丈夫じゃないんだから」
「うぅ……、あっ!」
強引に手を退け、制服を引っぺがす。中に来ているワイシャツは赤黒く染まっていた。だが、その血はすでに渇いている。出血は止まっているようだ。傷口は……裂傷の痕のようなものがあった。鋭利な刃物で切り付けられたかのような傷だ。険しい表情をする春奈。いまはなんとか閉じかけているが、いつ開いてもおかしくない。
「……どこでこんなキズを?」
「避難誘導のときに……。ちょっとね……」
ちょっと、というほどの傷ではない。
「閉じかけてるけど、どうやったの?」
それでも治癒過程にあるのが幸いだった
これだけの回復力なら、縫うだけでもなんとかなりそうだ。
「あたしは祓魔師なの。魔力のチカラで細胞を活性化させれば、ね」
「でも、こんなキズ……。自然治癒じゃ時間がかかりすぎます」
それまで傷がぱっくりひらく可能性の方が大きい。
この人も撃滅師なのだから。これからも戦うつもりなのだから。
春奈は落ちついて裁縫道具を探し始めた。戸棚をあたりかまわずひっくり返し、それを捜す。家探しするのは性に合わないが、非常時には仕方のないことだ。三つ目の棚で探し物を見つけると、それを抱えて凛のもとへ詰め寄った。
「え、えーーっと。……な、なにすんの?」
そんなわかりきったこと尋ねる凛。
春奈は危機せまる顔で針を右手に構えた。
「……少し痛むけど、動かないでね」
「ま、待って! いま痛覚神経麻痺させるから――」
ポケットからピルケースを取り出した凛は、神経を麻痺される効能を持つ――アヘンの粉末状の物をふりかけた。自家栽培している鎮痛作用のある芥子の実を傷つけて、そこから抽出したものだ。あきらかな犯罪行為だったが、撃滅師にケガはつきものなのだから仕方がない。
春奈は唇ときゅっと結ぶと、おもむろに右手を動かし始めた。
ひと針、ひと針――自分の体が他人に縫われる感覚は、控えめに言っても気持ちいいものではない。だが、凛は心を落ちつけることができた。薬物が効いていたこともあるが、それよりもなにより彼女を安心させたのは、森崎春奈の眼差しだった。
彼女のどこか暗雲が立ち込めたような瞳から、一条の光が射しているように思えたのだ。春奈にどんな事情があるのかは凛は全く知らない。ただその暗雲を破った光は、まぎれもなく自分を助けようとする彼女の想いの光だと思ったのだ。
「……うん。思ったよりも深刻じゃなくてよかった。あたしって傷を縫うのが得意じゃないから。間違って稲妻縫いとかやっちゃうのよね」
そんなことを言いながらも、春奈が縫ったのは、縫い目を目立たなくさせる――埋没法とWX形成縫いという極めて高度な医療技術を用いた方法だった。凛も自分の傷を見たときには、それが良くわかった。
「あんた……。これを、どこで……」
「うちは両親が開業医だったから、こっそり手伝うこともあるのよ」
「それって犯罪じゃないの?」
「凛が降りかけたパウダーだって同じようなもんでしょ」
お互いに犯罪者であることは同じらしい。
まあ命に関わることなどでしょうがないだろう。
「…………。『開業医だった』っていうのは過去形ね」
「ま、まあ……。その……ね」
戸惑う春奈。
さらに凛が鋭く指摘する。
「あんたの依頼内容は、かたき討ちとかなの?」
「えっ! な、なにがよっ!」
繰り返すようだが、この業界にはよくある話だ。
誰かを失った憎しみ。心に渦を巻く復讐の連鎖。
彼女の瞳の暗闇がどんなものか凛には察しがついた。
でも、それはなにも生み出さない。いずれ身を滅ぼすだけだ。
凛はおもむろに口を開く、
「あたしにはよくわかんないから、こういうこと言えた義理じゃないんだけど……」
お節介なのはわかっている。
それでも――
「やめときな」
その言葉が口を突いた。
「春奈にそんなの似合わないよ。あたしの友達……いや、ライバル……。これも違うな。まあ、そんなのにも復讐に取りつかれている子がいるんだけど――出会ったときと違って、いまは復讐者だとか言いながら、民間人を守るために戦ってるわ。そいつの顔から察するに、かたき討ちなんて思ったほどでもないらしいわよ」
「どういうこと?」
「《化身》を殺しても、なにも変わらないっていうこと。失った大事な人たちも、あんたの心の闇もね。死んだ人は魔術師にだって蘇らすことはできないし、他人の心の闇は超能力者だって拭い去ることはできないわ。……でも、知り合いの論理的思考バカは、そんな自分の心の闇と向いあって、抗うことができた。あたしたちに大事なのは、過去じゃないわ。これからよっ!」
「でも……やられたままじゃ――」
「ええ。もちろん、やりかえすのは悪くないわ。けどね、いまここにいるあんたには、憎しみ以外の気持ちもあるんじゃないの?」
なにを言っているんだろう。
春奈は言われたことの意味が理解できなかった。
「どういうことよ?」
「春奈って、《化身》を殺したいから、ここにいるの?」
「えっ……。そうだけど……」
どことなくぎこちない返事。
そう自分で返しておきながら、春奈は不思議に思った。
凛がきっぱりと言い放った。
「見えない」
「なにが?」
「あんたは憎しみに取りつかれた人の顔をしてないってことよ」
凛は首だけ起こして、まじまじと春奈の顔を見つめた。
「どっちかっていうと、すこし投げやりっぽく見えるわ」
「どういうこと?」
「自分の胸に訊いてみなよ」
こう言われて、春奈は自分の胸に手を当てた。
聞こえてきたのは、自分の心臓の鼓動。
だがそれは普段感じるものとは異なり、僅かに鼓動が速く、そして大きく力強くなっていた。まるで自分の心の中に覆い尽くされた憎しみとは異なる感情が、凛の言葉に歓喜されて雄叫びを上げているかのように……。
「憎しみのほかにも、あんたにはきっとあるわね。もっと他の大事なココロが」
「あたし……」
なんとなくだが、凛の言いたいことが掴めてきた春奈。
「春奈はね、いまここであたしを救ったの。あんたは医者の娘って言ってたわよね。なら、あんたの体には、誰かを救うことに生涯を捧げた両親の血が通ってる。あたしの体には《化身》と戦うために修業に励んだ、祓魔師の両親の血が通っているようにね。春奈の顔はいまはちょぴっとだけ、悪いもやもやがかかっているけど。あんたは復讐なんかするような人じゃないわ」
「なんで、そんなことまでわかるのよっ!」
当たっているかもしれない。
けど、素直に受け入れることはできなかった。
「あたしの家は魔術師の家系だから、オカルト関係はいろいろと学ばされたの。人相学とかもよ。だからその人の顔つきを観れば、どういうやつなのかぐらい、一発でわかるわよ。……それにあんたは、あたしを助けてくれたからね」
その言葉を聞きながら俯く春奈の胸中は誰にもわからない。
それでも枝垂れ桜が幹を隠すかのように、彼女の顔を覆い尽くす長い髪の暗幕からは、見てはいけないものを隠すような不気味めいた感じはまるでしなかった。