第二章 戦いの幕開け(10)
薄暗闇が街中を支配する時間帯になっていた。
そこにはもう逃げる市民の姿は見当たらず、決して少なくない数の無残な屍と、赤い眼を鈍く光らせた殺戮者が闊歩する光景が広がっている。
そんな状況で、冬海時雨の意識は覚醒した。
「………ここは?」
どこかの建物の中のようだ。何もない殺風景なフロアだから、多分空き部屋なのだろう。
まず彼女は自分が薄手の黒いタンクトップとスパッツ姿であることに気づき、そしてその傍らにいる少女の姿に気づく。
「貴様は何者だ? わたしを助けたのは貴様か?」
心配そうにこちらを眺めている西洋人形のような少女に詰問した。やや巻き毛の髪に心配そうな表情を浮かべているその少女は、こちらを眺めたままなにも答えず、だが視線をしっかりと合わせたままだった。
「どうした? わたしとは口を利きたくないのか?」
時雨の瞳は猛禽のような輝きをぎらつかせていた。
それでも少女は視線をそらさず、不安げな瞳でこちらを覗いている。
遅れてやってきた節々(ふしぶし)の鋭い痛みに顔を歪めそうになった時雨は、このときになって自分の身になにが起こったのかを初めて悟った。
「話したくないなら、それでいい……。助けてもらって礼を言う」
その少女はまるでどういたいしましてと言うかのように愛想よく微笑んだ。
時雨が怪訝な顔をする。
「……わたしのことを嫌いというわけではなさそうだな」
それっきり彼女も押し黙った。
子供は嫌いではないが……どう接すればいいのかわからなかった。
「あっ……。目が覚めたんですね」
廊下の方から、中肉中背の少年が姿を現した。
「貴様は?」
「船渡中学三年の北村っていいます。こっちは同級生の鷹鶴奈々。避難訓練の最中にハザードに襲われて、みんなバラバラになって逃げたんです。そしたら、デカイヘビのバケモノに出くわして、そこでお姉さんがやられたのが見えたから、それで――」
「ここまで運んでくれたというわけか。……わたしの装備の類を知らないか?」
「重かったんで、外してから運びました。下の階に置いてあります」
弱々しい月明かりに照らし出された室内は薄暗く、人々の心理的不安を増長させた。目の前の子どもたちにもその兆候は表れているように思えた。なにせ彼らはわたしと同じ撃滅師ではない。どこにでもいる一般人だ。こんな特殊な環境には慣れていないことだろう。
「……そういえば、お腹がすいたな。食べ物はないか?」
なにか話しかけなければならないと思った時雨は、とりあえず食べ物の話をする。もしかしたら、この子供たちならポッキーを持っているかもしれない。それに純粋な意味でもお腹が空いていた。
暗闇の中、北村が遠慮がちに声を出す。
「その……」
「なんだ?」
「お姉さんの装備の中に、なにかそれっぽいものがあるんですけど、僕たちも頂いていいですか。お腹が空いてるんです」
「あたりまえだ。助けてもらっておいてなにも恩返しないほど、わたしは恩知らずではない。……すまないが、とってきてくれないか?」
たったったと北村は軽快な足音を立てて階下へと下っていく。《化身》に浸透されている可能性もあるから、なるべく静かに行動するべきなのだが、時雨は敢えて注意しなかった。この子供たちのいたずらに不安にさせる可能性と、これまで無事だった可能性を考慮してでのことだ。
「どうやら、なにかの事情で言語を発せないのようだな」
奈々が本当に申し訳そうに俯いてみせた。すでに情報端末はバッテリーが切れていて使用できない。筆談は暗すぎて字が読めないだろう。それに筆記用具が見当たらなかった。
目の前の少女の俯き加減から、もしかしたらものすご~く傷つけてしまったのではないかと逆に不安になってしまった時雨が、彼女なりのフォローをする。
「いや、気にする必要はない……。わたしも年下との会話は苦手だ。それにコミュニケーション自体、あまり得意な方ではない。ごく少数の友人によると、『友情よりも規則に優先するような鉄火面の女』らしい。このまえは諸事情により、言い出しっぺをミサイルで吹き飛ばそうとしたことを根に持たれてしまった」
奈々が口もとに両手を当てて、笑いそうになるのを必死に堪えている。
しかしそれは、時雨にはまるわかりだった。
「ふむっ……。冗談を言ったつもりはないんだが、笑ってくれてなによりだ」
なぜだろう。この子供と一緒にいると心が落ち着いてくる。いつの間にか鋭い痛みも和らいだようだ。むしろこちらの不安を不思議と取り除いてしまうような安らぎを目の前の少女は与えてくれた。
そんなおり、少年が戻ってくる。
「これなんですけど……」
「ああ。貸してくれ」
少年が持ってきたのは、厚いビニールに包まれた行軍用の携帯食糧だった。時雨が袋を千切って中から取り出したのは、ビスケットのようなもの――乾パンだった。
「ほらっ……。好きなだけ食べていいぞ」
相当お腹を空かせていたのだろう。北村が勢いよく食べ始めると、奈々もそれに続いた。時雨はそんな二人をわずかに緩んだ頬で眺めながら、自らも乾パンを頬張り始める。口の中に、小麦粉の化合物の味が広がった。
「むっ……。どうしたんだ?」
いつの間にやら、子供たちの食事の手は止まっていた。なにやら気まずい表情でこちらを見ている。
「その……」
「どうした? 日本男児なら思ったことは、はっきりと言え」
僅かな沈黙。
申し訳なさそうに北村が言う。
「あまり……、おいしくないです」
「……そうか。だが、喰えっ!」
軍人のような命令口調で、時雨は威勢よく言い放つ。だが、北村たちの手は止まったままだった。相変わらず彼女は乾パンを頬張ろうとしたが、まわりの子供たちの顔を見て、一瞬その手がとまった。口もとまで運んでいた乾パンをあやうく落としそうになる。
(く……っ!)
次の瞬間。なにを勘違いしたか時雨は、ものすごい勢いで自分の口もとに乾パンを詰めこみ始めた。呆気にとられる少年たち。気にせず彼女は、北村たちの分の乾パンを口の中に半ば強引に放り込む。必死に噛み砕いて、僅かな唾液とともに無理やり胃袋に流し込んだ。
「……どうやら、乾パンがなくなってしまったようだ。他に食べ物がないから、わたしはこれから近場を探して調達してくる。おまえたちはここを動くな。……それと、なにか食べたいものがあったら注文を受けよう。飲み物とかも指定してくれると助かる」
本当は辛くて涙が出そうになるのをぐっと堪えながら、時雨はそう口にした。
正直、こんなことは二度と御免だった。だが、笑顔を見せながら喜んでいる子供たちの姿を見ていると、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んだ。さらにここにいる子供たちを守り抜くという気概が、心の支えとなった。
そして子供たちから注文を受けた時雨は、〈騎竜〉に備え付けていた予備の自動拳銃と、軍用のマグライト片手に、《化身》が支配する街へと姿を消した。