第二章 戦いの幕開け(7)
「ふう……。なんとかやり過ごしたみたいだな」
冷や汗ものだった。ソージは安堵のため息をつく。あんなことはもう勘弁してほしい。
彼らが逃げ込んだのは四階建ての雑居ビルだった。オフィス代わりに使われていたのだろう、書類が散乱したままだった。
ソージは春奈の姿を眺めた。自動拳銃を握ったまま、彼女は部屋の隅に蹲っている。その瞳には、深遠なる闇が宿っていた。狂気だ。無理やりにでも帰すべきだったと、彼は自分の判断の迂闊さを呪った。
虚空を見つめながら、春奈はつぶやく。
「……あんたはどうして戦わなかったの?」
長く艶やかな黒髪が陰湿さを醸し出すかのように彼女の顔を覆っている。髪を整えるなどという女性らしさなど、どこかに置き忘れてしまっているようだった。
「これから何時間戦い続けることになるかわからないからな。ザコ相手にチカラのムダ使いするのを避けただけだ。おまえも、もう二度とあんなことはするなよな。大事な戦いとそうでない戦いを区別しないと、この世界じゃ生き残れないぜ」
なるべく彼女を刺激しないように……だが、それでいてソージは確実に窘めておく。彼は撃滅師だが、まだ十代の若者だ。負の感情に支配された少女をどうやって助ければいいのなど知るはずもなかった。
ふたたび誰もいない所へむかって、春奈はつぶやく。
「でも……。あたし、あいつらに復讐したい……。仇を討ちたいの……」
なるほど。無理やりにでもついてきたわけだ。さて、俺はこの問題をどう処理するべきだろうか。ソージは腕を組みながら首を捻った。とりあえず、春奈の安全確保が最優先だ。またいつ暴走するかしれたもんじゃない。
「復讐……か」
やはりいまからでも送り返そうか。だがそうすると奈々はどうなる? 無事に脱出できただろうか。いや、俺の妹なら人助けしようとして逃げ遅れることが多い。いままで三回遭遇して、三回とも逃げ遅れている。おそらく今回も例に漏れることなく……。
覚悟を決めたソージが告げる。
「なら、ここの《守護獣》を俺が倒す。それならかたき討ちになるだろ」
春奈の顔がゆっくりと動いた。半ば意識のなさそうな顔つきで、ぼんやりとこちらを眺めている。無意識の中にあっても、その手にある拳銃だけは手放そうとはしなかった。
宮廷風の恭しいお辞儀にソージは陽気な口調を交えてみる。
「なにか至らない点でもございましたか? お嬢さん」
《守護獣》を倒せるかどうかなど、相手を確認してみなければなんともいえない。だがそれでも、いまだけはどうしても彼女の心を取り戻しておかねばならなかった。こんなところにいては、どうしようもない八方塞がりのままなのだから。
「……えっと」
ふざけた仕草のソージを見て、つぎに自分の手に握られた拳銃を一瞥すると。春奈は煩悶のとした顔をする。なにやら自分の中で葛藤しているのだろう。やがて彼女は口を開いた。
「ありがと……。あたしもそれなら納得できる……と思う」
ゆっくりとした唇の動きで、声も小さなものだった。顔も俯いたままで、長い髪がヴェールのようにその表情を覆い尽くす。それでもなんとか、彼女は負の感情の連鎖を押し留めているようだった。
「『と思う』は外してくれ。……また暴れられたら、こっちの身がもたねーから」
「……わかったわ。それと――」
しばし躊躇った挙句、春奈は自動拳銃をソージに差し出した。
憎しみに心のどこかが支配され狂気したことを彼女は自覚し、そして今度はなんとなくそれを恥じているかのように思えた。
「そいつは自分で持っておけ」
一瞬逡巡したが、ソージはそう答えた。
「チカラは使用者の心がけ次第で、身を滅ぼすことにもなるし、誰かを守ることだってできる。要は用法と用量を守って使えっていうことさ。……こんなふうになっ!」
言い終えるか言い終えないか、不意に背中を翻したソージは右手を振り抜いた。その瞬間。後ろから音もなく忍び寄っていた《グレムリン》が死滅する。どうやらその残忍酷薄な見た目とは裏腹に、それなりの知性を備えているようだった。
「見つかっちまったから、先に進むぞ」
まるで初めて《化身》を目の当たりにしたかのように驚くクライアントの手を掴み、ソージは大急ぎでその場を後にした。