第二章 戦いの幕開け(3)
春奈の護衛依頼が終了する約束の期日まで、残すところ三日となった。
学校が終わるとソージは、いつもの喫茶店で途中経過を報告するために待ち合わせる。これといって異常はないのだが、報告することは彼女たっての希望なのだから仕方ない。
モノリス・ハザードに苛まれたときは、人間は本能的に違和感を覚える。人間に生来備わっている危険を司る感覚器官が悲鳴を上げるのだ。
普段と変わらない陽気な声でソージが話しかける。
「なにか問題でもあったか?」
二人とも学校帰りで制服姿だが、春奈の方が先に店に来て、席についていた。それなりに急いで来たつもりのソージだったが、そんな彼よりも一足早く、彼女は喫茶店に足を運んでいたらしい。……まさか俺と会うのが愉しみというわけではないだろう。
ソージが眉根を寄せる。
「もう三日しか残ってないぞ」
「まだ三日よ」
素っ気なく答える春奈。
「たった三日だ」
「それでも、まだ三日だわ」
不毛な言い争いだ。
コップの中に、水が半分も残っているのか、半分しか残っていないのかは、観察者の心の恣意性に依存してしまう。それでも、クライアントが自分の発言を撤回しない以上は、まだ三日残っていると捉えるべきなのだろう。彼の脳裏を《悪魔憑き》という言葉が過ぎった。なぜこれほどまでに、ハザードに見舞われることを確信しているかのような言動をとれるのだろうか。
「俺の経験から言わせてもらえば、モノリスにつけ狙われるなんてありえないぞ」
「でも《悪魔憑き》って言葉が存在してるくらいだから、遭遇率が高い人っていうのは存在するわけでしょ」
「まあ、そうだろうな。……俺とかもそういう類だし」
「?」
「率先して火中の栗を掴もうとするやつってことさ。虚幻世界には、現実世界に存在しない産物があるから、上手く立ち回れば高値で捌ける。そういうやつらも自ずと遭遇率は高くなるだろ」
「でも、それは自分から率先しての場合で……。あたしの場合は……」
そんな彼女の心理を察したかのように、ソージは言葉を続けた。
「まあ、俺の妹だって異能者でもないが、ハザードに三回遭遇したことがあるぞ。もっとも、そういうときは必ず俺が撃滅師としてのチカラで助けたけどな」
「へえー。無許可の自営業のくせに一人前の口を利くのね」
そう答えながらも、三回遭遇するなんて……、と彼女は内心でその子を憐れんだ。
ソージが言う。
「そこいらのやつと一緒にされちゃ困るな。依頼掲示板に掲載されている俺への書き込みに目を通さなかったのか?」
「ああ、それなら読んだわよ。『くたばれっ! このハイエナ野郎っ!』とか『豆腐の角に頭ぶつけて死ねっ!』とかロクでもない評価ばっかりだったわね」
「……まあ、そういうこったよ。俺の人並みはずれた才能に嫉妬する連中はあとを絶たないから困ったもんだ。あいつらはちゃんと資格を取って撃滅師をやってるくせに、俺よりも業績が悪いことを僻んでるのさ」
ソージは当たり前のように誹謗中傷を受け流してみせるが、批難されるのは彼が手柄を横取りしてしまうことが原因だ。もっとも彼に言わせれば『奪われる方が悪い』の一言で片付いてしまうが……。
「そういえばさ、あんたってどうして撃滅師やってるの?」
「言ってなかったっけ? 俺の両親は死んでるから、どうしても稼ぎ手が必要なんだ」
「そういう場合は、生活扶助が国から支給されるはずでしょ」
「……妹の目の前で両親が《化身》に殺されてな。それ以来、妹は喋れなくなった。医者に診せたり、ストレスの少ない生活環境を整えたりで、どうしてもお金が足りなくなったんだよ。それで撃滅師をやって生計を立ててるわけ」
春奈がなにやら考え込む表情をする。
初耳だった。こいつの妹も、あたしと同じような境遇にあるらしい。
もっとも、あたしは目の前で両親を殺されたわけではないが――それでも、同じ女性としてそのソージの妹の境遇には同情した。年端もいかない子供が、いきなり目の前で両親を失ったりしてトラウマにならないわけがない。ショックで喋れなくなったのも理解できる。それは例えるなら、心にぽっかりと穴が空いてしまうような虚無感と脱力感に捉われるのだ。
さらに時間が経つにつれて、あたしはその穴を徐々に塞げることができた。憎悪や執念、復讐といったどす黒い感情で埋め立てることによって……。
そして――
「だったらなおさらじゃないのっ!」
気がついたときにはもう春奈は、声を荒げてテーブルを力強く叩きつけていた。
「そんなあこぎな商売止めて、真面目に働きなさいよ。アルバイトとかできるんでしょ!」
そう叫んでから、ふと気づくことがあった。
あたしはどうして叫んでいるのだろう……?
ここで目の前の撃滅師を咎めずに、その妹にも復讐を勧めればいいではないか。
そうすれば、あたしのように人生に生きる目的ができるかもしれない。
いや。なにをかんがえているんだ、あたしは……。こいつの妹には、まだこいつがいる。大事な家族が残っているから、こいつを咎めているんだろうに……。
「どうした?」
勢いに任せて机をたたいたままどうやら春奈は、自分を見失ってたようだ。歪んだ感情との葛藤を繰り広げていたのが、どのくらいの時間だったかさっぱり分からない。彼女はソージのわずかに緊張感を孕んだ――といっても春奈が気づかない程度――の陽気な声を聞きながら、ふたたび椅子に腰かける。
「アルバイトって時給八○○円とかだろ。それって人生の切り売りとしか思えないな」
ソージは相変わらずの調子だ。
それから何気ない表情でコーヒーに口をつけ、思いついたことを口にする。
「俺がいまここで飲んでるコーヒーが一杯三○○円。ニ・五杯分だな」
「なにがよ?」
「俺の人生の一時間だよ。ずいぶんと安っぽく感じてしまえないか」
そういえば、この撃滅師はお金儲けのために戦っているんだった。なんでも妹の誕生日までにお金を貯める必要があるとかで、報酬の支払い日を依頼終了と同じ日に指定してきたぐらいだった。それだけ妹のことを想っている兄が、自分がどれだけ妹にとって大事な存在であるかを顧みらないことがあるだろうか。
そんなやつはいないだろう。もしいたら、そいつはキチガイだ。
その考えに至って、春奈はソージが撃滅師を生業とすることを紛糾することはできなくなっていた。そのまま彼女は、少しだけ憑き物が取れたかのようにふっと肩の力を抜いた。
「でも、失敗したら返ってこれない……。死んじゃうのよ」
深刻そうな顔をする春奈。
「それだよ。そのリスクがあるからこそ、いまはまだほとんどの人が商売として虚幻世界をみなしていない。商売人である俺の目には投資の対象としては十分ってわけだ」
「だってヘタしたら――」
「春奈からの依頼料よりもずっと劣る」
にべもなくそう答えるソージ。
どうやら余計な気遣いだったようだ。
「……まあ、あんたの言いたいこともなんとなくわかったわ」
彼が彼なりにライフプランを持っていることを、春奈は理解した。それとともに彼女は、ソージの妹がどんな子なのか一目見てみたくなった。こういう兄に育てられたその妹はどんな子に育っているのか気になったのだ。その子は、わたしのように暗く澱んでしまった瞳をしているだろうか……。
そんな鬱屈とした考えを振り払うかのように頼んでみる。
「それと……これは相談なんだけど、今度はその妹さんに会わせてもらってもいいかしら?」
「んっ、妹に何か用でもあるのか?」
「あんたみたいなお兄ちゃんに大事にしてもらってる妹が、どんな子供なのか興味があるのよ」
「かわいい妹だ。目に入れても痛くないぞ」
ソージは快く微笑んでみせた。
「あら、あんたってシスコンだったのっ!?」
「シスコン言うなっ! 妹想いって言えっ!」
ソージにしては珍しく感情的な態度に、春奈は口もとに手を当てて、くすくすと笑った。
「……まあ、たまにはハズれてもいいかもね」
「なにがだ?」
「なんていうのかしら、あたしの心の中のもやもやがピークに達したころになると、モノリスが現れるような気がするのよ。こっちに引っ越してからは、大体今がその頃合いぐらいね」
「興味深い話だな。おまえには、電波星人の才能があるのかもしれないぜ」
「…………っ!」
陽気というよりは、むしろ軽薄な口調だった。
ソージは自分がどれだけ失礼なことを言ったのか全く気づいていない。
「マスター、オーダーよ。オートマグⅢをひとつ!」
春奈が注文したのは、カクテルなどではない。例の『ボディーアーマー・キラー』だ。
待ってましたと言わんばかりに、マスターはそれを持ってくる。何気にこういう注文を受けて喜んでいるようだ。そういえば、春奈のお茶目な態度を気に入っていたらしいので、そのせいもあるのだろう。
「はいよっ!」
「ちょ……マスター、もってくるのがはやすぎだろ! いまの注文は取り消し。どこの世界にパートナーを射殺しようと考えるクライアントがいるんだよ。おまえはどっかの大統領暗殺の陰謀に巻き込まれた新米のCIAの捜査官かっ!」
「なにわけのわからないことをいってんのよ。さきにケンカ売ったのは、あんたの方じゃないのっ!」
「…………。俺の頭の中には、そんな事実は存在しないな」
「あたしの脳細胞の中には、ちゃんと刻まれてるのよ。このシスコン男っ!」
「シスコン言うなっ! 妹想いって言えっ!」
「はいはい、そうですか。……シスコン、シスコン、シスコンっ!」
拳銃を乱射されるよりも、ソージにとって遥かにダメージが大きかった。彼はまるで悪夢にうなされているかのように、苦しみもがいている。
春奈はそんなソージを指さし、胸を張って言う。
「知ってた? シスコンってね――ロリコンの一種なのよ。あんたの性癖は幼女といちゃいちゃしながら、むふふな関係になることを望んでいるわけ。自分がヘンタイであることを自覚したなら、とっとと膝まづいてあたしに謝りなさいっ!」
うそだ。ホントはそんなことなんか知らない。
春奈がダメ押しを放ったとき、
ちょうどそのタイミングで
彼女は奇妙な感覚に捉われた。
ああ。これだ。体が粒子のように細かく分解されていく感覚。そして原子一つ一つにまでに分解されてもう再度人間に構成されていく過程での安らぎと解放感。そして遅れてくる直感。ここは危険なんだと脳の奥底が警告していた。
すぐさま彼女は周囲を見回した。
店にいた何人かの客たちは瞳をぎらつかせながら店を飛び出し、マスターはそそくさと手荷物をまとめて大通りに向かって行き、大通りの人々はどこかあるはずの黒曜石のような輝きを求めて右往左往している。ソージはというと、険しい表情をしたままこちらを見つめていた。
ああ、きたんだ。
ついに……、このときがきた。
これでやっとあたしは、長い間溜め込んできた感情を解き放つことができる。
けたたましいサイレンが鳴り響き始めたそのとき、春奈はうちなる狂気の感情が抑えきれなくなり、うっすら暗澹たる表情で口の端をつりあげた。