第一章 争奪戦(10)
喫茶店で春奈と別れたあと、ソージはスーパーで食材を購入し、急ぎ足で帰宅した。まだ奈々は帰ってきていない。図書館かどこかで寄り道しているのだろう。そう判断した彼は妹を喜ばせるために、調理用のエプロンを身につけ、夕食をつくり始める。
鶏肉、タマネギ、しめじなどの具材を火にかけたフライパンの中に放り込み、タマネギがしんなりするまで弱火で炒め、下拵えをする。それと同時にもう一つフライパンを火にかけ、牛乳、バター、小麦粉などを用いて、特製ホワイトソースをつくる。
あとは耐熱皿にそれらをのせ、上から山盛りのチーズを加え、オーブンに入れて待つこと十数分。オーブンレンジがチンと小気味良い音を立てたときには、キッチン一杯に香ばしい香りが広がっていた。
(もうすぐうちのかわいい奈々ちゃんが帰ってくる。そしたら、部屋の中には大好物のグラタンが用意されていて、奈々はまるで天使のような頬笑みで俺の苦労を労ってくれることだろう。ふふふっ……、最早俺の心は銀河系の支配よりも満ち足りたているっ!)
他に誰もいない室内で、妄想をしながら口許をほころばせているソージ。そんな彼の姿をなにも知らない第三者から見れば、ただの不審者であり、事情に精通している友人たちから見れば、やはりシスコン野郎なのだろう。
折よく玄関から物音がして、中学の制服姿の奈々がリビングへと姿を現した。
ソージは妹が無事に帰ってきたことにまず感激し、次に彼女が部屋の中を漂う香りから、グラタンであることに察しがつき、うれしそうに微笑んでくれたので、彼はいまにも昇天しそうになった。
「ま……、待っていろ、奈々。お兄ちゃんが今すぐ食事の用意をするから」
彼は疾風のような速さで瞬く間に夕食の用意を完了させる。
テーブルの上には、オーブンから取り出されたばかりの熱々のグラタンが、呼吸しているかのような山盛りのチーズとともに、さもおいしそうに湯気を立てていた。
「どうだろう。今日は奈々の大好物のグラタンをつくってみたんだが……」
向かいあうようにして座りながら、ソージは既にわかりきったことを尋ねる。
チーズがたっぷりとかかったグラタンを、奈々はなにも言わずスプーンで口に運ぶと、ほっぺたが落ちそうとでも言いたげに微笑んでみせた。
「そうかそうか、おいしいか。それはお兄ちゃんも作りがいがあったというもんだ。うんうん。今日はやっぱりグラタンをつくってよかった。おまえが喜んでくれるなら、今日だけじゃなくて、明日も明後日もつくってやるよ。……ふふふ、いやいや、お兄ちゃんを誉めなくてもいいんだ」
普段とはまるで違う口調で話しかけながら、ソージはさりげなく奈々の体に視線を這わせる。そして目を細めた。やはり今日も……か。奈々の制服は、彼がほぼ毎日といっていいほど、埃や泥などの汚れがついていないか確認している。身嗜みは淑女のエチケットだ。
それなのに最近になって、彼女の制服はやけに汚れていることが多い。もっともそれはごく僅かな埃であり、一般人ならまるで気にならない程度なのだが、妹想いのソージにだけは気になった。
(この汚れは、誰かの上履きの跡だ。埃にも嫌がらせの執念めいたものが感じられる)
妹想いのソージには直感でそれがわかるのだ。
結論から言えば、うちのかわいい妹はおそらく中学三年になってから、クラスメートに虐めを受けているのだろう。これも直感が告げているのだが、心理的トラウマから言葉を喋れなくなっていることを理由として。……もしなにかあったら、その虐めっ子は、俺が裁判官であり判事として、裁きを下してやろうと決意していた。
それでも、妹限定で猪突猛進するソージにしては珍しく傍観者の立場を取っている。どこか歪んだ愛情表現を奈々にしている彼だが、目の前にいるは自分と血の繋がった、たった家族だ。ソージの瞳が穏やかな光を帯びる。奈々なら――俺の妹なら――自力で虐め問題を処理することができるだろうと、彼は信じていた。