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私の転勤を勝手に断った彼氏へ。あなたとの結婚は、私が断ります

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/16

「本社への異動は辞退すると、小早川くんから聞いたけど、間違いない?」


 課長の机の前で、私は返事を忘れた。

 昼休みの終わりに、少し確認したいことがあると呼ばれただけだった。


「辞退していません」


 ようやく答えると、課長が顔を上げた。


「そうなの?」

「はい。受けたいと思っています。正式な返事は、金曜日までにするとお伝えしていたはずですが」

「うん。その予定で待っていたんだけど、小早川くんが、結婚するから今回は断ることにしたと。本人からも改めて話すと思いますと言っていたから」


 机の上に、異動先の業務をまとめた紙があった。

 先週、私も同じものを受け取った。


「私は、そんな話をしていません」


 課長はペンを置いた。


「分かった。人事にはまだ返していない。本人の返事を確認してからと思っていたから。予定どおり、金曜までに聞かせて」


 私は頷き、机へ戻った。

 画面を開いたままにしていた表の数字が、うまく読めなかった。


 高宮莉津、二十八歳。

 生活雑貨メーカーの名古屋支店で、営業支援を担当している。

 隣の課には、小早川孝典がいた。

 二十九歳の営業担当で、私が三年間付き合ってきた人だ。


 今日も、彼は自分の席に座っていた。

 こちらを見ると、軽く手を上げた。

 私は手を上げず、スマホを取った。


『今日、仕事のあと話したい。私の異動を断ったって、課長に言った?』


 送ると、彼は画面を見た。

 少しして、返事が届いた。


『そのことも含めて、話そうと思ってた』


     *


 東京の本社にある商品企画部へ行きたいと、私は一年ほど前から課長に伝えていた。

 支店では、客から届いた使い勝手の意見を整理し、営業担当と一緒に本社へ送っている。

 分かりにくい説明や、使って初めて気づく不便を、売る前に少しでも減らしたかった。


 昨年、同じ商品の問い合わせをまとめたとき、本社の担当者から、次の商品を考えるときに参考になったと連絡をもらった。

 嬉しくて、そのメールを何度も読んだ。


 それから希望を出し、支店の仕事を続けながら、社内の募集に応募した。

 面談を経て、四月から来られるかと打診されたのが、先週のことだった。

 二月のことで、返事の期限は打診から二週間後だった。


 孝典へ話したのは、その日の夜だった。

 彼の部屋で、二人で買ってきた弁当を食べながら、私が切り出した。


「本社から、異動の話が来た。受けたいと思ってる」


 彼は箸を止めた。


「東京?」

「うん。四月から」

「結婚は?」


 結婚しようと言われたのは、三か月前だった。

 私は、うん、と答えた。

 指輪も二人で選んだ。

 けれど、いつ入籍するか、どこに住むか、まだ決めていなかった。


「それも話したい。すぐ一緒に住めなくなるけど、仕事をどうするかも含めて」

「俺はこっちで働いてるんだけど」

「分かってる。だから、二人で考えたい」


 彼は弁当の蓋を脇へ寄せた。


「少し考えさせて」


 私は頷いた。

 返事の期限も伝え、その前にもう一度話そうと約束した。


 彼は、私が企画部へ行きたかったことを知っていた。

 仕事のあと、面談で話すことを整理していると、何をやりたいのか聞いてくれた。

 もっと前には、勉強している私へ、いつか行けるといいなと言っていた。


 忙しい日に会う約束をしていたときは、先に食べて待っていてくれた。

 私が遅れて店へ入ると、彼は食べ終えた小皿を脇へ寄せ、空いた隣の席を指した。


「食べたんじゃなかったの?」

「少しだけ。莉津の分、見てたらまた食べたくなるし」


 そう言って笑うところが好きだった。

 私が仕事を続けることを、特別な無理だとは思っていない人だと思っていた。


 結婚の話が出てから、少しずつ違う返事が増えた。


「結婚したら、そこまで忙しくしなくてもいいだろ」

「もう少し早く帰れる仕事もあるんじゃない?」


 私は、そのたびに仕事は続けたいと答えた。

 彼は、分かってるよと言った。

 どう働くかも、これから決めるのだと思っていた。


     *


 仕事帰り、私たちは駅の近くの喫茶店に入った。

 孝典がいつも座る奥の席へ向かったので、私もついていった。

 注文を済ませると、彼はコートを椅子へかけた。


「怒ってる?」

「どうして、私が辞退すると伝えたの?」


 彼は少し背を引いた。


「結婚するんだから、最終的にはこっちに残るだろ。早めに言ったほうが、本社にも迷惑かからないと思って」

「残るって、私は言ってない」

「まだ迷ってると思ったから」

「受けたいって言ったよ。考えさせてって言ったのは、孝典でしょう」


 彼は、テーブルの上に置いていたスマホを伏せた。


「じゃあ、離れて暮らすの?」

「それも話したかった。いつまで別々に暮らすか、どこで仕事を続けるか」

「簡単に言うけど、俺の仕事だってあるんだよ」

「だから、あなたの仕事を辞めてって言ってないでしょう」


 飲み物が来た。

 店員が離れるまで、二人とも黙った。


「俺との結婚より、仕事が大事ってこと?」


 孝典が言った。

 私はコーヒーに触らず、彼を見た。


「その前に、勝手に断ったことを謝ってほしい」

「二人のためにしたことだよ。結婚するなら、同じ家に住むのが普通だろ」

「同じ家に住みたいのは、私もだよ。でも、そのために私が異動を断るって、いつ決まったの?」


 彼は、口を閉じた。

 私は、返事を待った。


「俺が転勤できるかなんて分からないし。莉津がこっちにいれば、今までどおりで済むじゃん」


 孝典の仕事も、住む場所も変わらない。私が断れば、それで話が終わる。

 彼の部屋で、面談に持っていく紙を広げた夜を思い出した。あのときは、頑張れって言ってくれたのに。


「課長には、辞退していないと伝えた。金曜までに、自分で返事する」

「もう少し、二人のことを考えてから決めようよ」

「考える前に、あなたが決めて伝えたんだよ」


 孝典は、カップを手前へ引いた。


「大げさだな。正式に決まってないなら、訂正すればいいだろ」


 私は、ようやくコーヒーを一口飲んだ。

 熱くて、すぐにカップを置いた。


「結婚も、やめよう」


 孝典が顔を上げた。


「何で、そこまでいくの」

「また何か決めるとき、私が知らないところで話が済んでたらと思うと、もう無理だよ」

「分かった。勝手に言ったのは悪かった。でも、俺だって心配で」

「心配なら、私に話してほしかった」


 指輪を選んだ日を思い出した。

 そのときは、彼も私の好きな形を聞いた。

 これから暮らす場所や仕事は、聞かなくても分かると思ったのだろうか。


「もう一回、最初から話せばいいじゃん」


 彼が言った。

 私は首を振った。


「結婚の約束は、解消する」


 彼は、私が指輪を外すのを見ていた。

 なくさないように、バッグの小さいポケットへ入れた。


     *


 翌朝、課長へ異動を受けると返答した。

 結婚の約束も解消したので、そこを理由に辞退することはないと伝えた。

 課長は分かったと頷き、本社との手続きを進めてくれた。


 孝典へは、彼の部屋に置いていたものを返してほしいと送った。

 私の部屋にある彼のものもまとめた。

 受け渡しは休日の昼に済ませた。指輪も、そのときに箱へ入れて返した。


「二人で住む家、もう候補も見つけてたのに」


 孝典が言った。

 候補の物件を見に行ったことはあるが、契約はしていなかった。


「ご両親には、私からもお詫びを伝える。うちには、私が話すから」

「仕事が決まったから別れるって?」

「勝手に辞退を伝えられたことも、話すよ」


 彼は、何も言わなかった。


 帰宅してから、私は母に電話をした。

 結婚するのはやめたと伝え、異動のことと、孝典がしたことを話した。

 母は途中で、私の正式な返事には影響しなかったのかと聞いた。

 受けると答えたと伝えると、そう、と少し長く息を吐いた。


「引っ越し、手伝うものがあったら言って」


 私は、まず自分で探してみると答えた。


 孝典の母にも連絡し、結婚の約束を解消したと伝えた。

 息子にも聞いてみると言われ、私はお願いしますと答えた。


 新しい部屋の候補が見つかると、つい孝典とのメッセージ画面を開いてしまった。

 駅から近いけれど、台所が少し狭い。彼なら何と言うだろうと思ってから、画面を閉じた。


 部屋のページへ戻り、通勤に使う路線を調べた。

 私が毎日帰ってくる場所だ。

 台所を広く使いたいなら、家具を置く場所から考えようと思った。


 新しい部屋は、窓の大きい、一人で住むには十分な広さのところにした。

 四月、私は東京へ引っ越した。


     *


「鶴見晴紀です。収納用品の担当なので、しばらく一緒に仕事すると思います」


 異動初日、打ち合わせ室でそう挨拶された。

 二十九歳だと聞いたのは、ほかの人も一緒に昼を食べたときだった。

 商品企画の経験は彼のほうが長いが、私の上司ではない。まずは既存商品の改善案を、二人でまとめることになっていた。


 最初の打ち合わせに、私は支店で集めた問い合わせを持っていった。

 蓋つきの収納ケースで、蓋の外し方が分からないという声があった。

 両脇の留め具を外側へ倒してから蓋を持ち上げる構造だが、指をかける場所が見つからず、違うところを引っ張る人がいる。


「ここを、もう少し分かりやすい形にしたいんです」


 実物を机へ置いて話すと、鶴見さんは手に取り、蓋を外した。


「形を変えるなら、製造側にも確認が要ります。費用も、今のままでは済まないと思う」

「はい。でも、説明だけだと、開けるたびに迷う人もいそうで」

「次の商品で変える案と、今ある商品ですぐ直せる部分は、分けて考えませんか」


 私は、持ってきた紙へ目を落とした。

 彼はケースを戻し、側面に貼られた説明のラベルを指した。


「まず、ここの説明。今のは文字が小さいです」


 その日は、ラベルの案を二つ作り、次の商品へ向けた変更点も残した。

 私は、蓋の外し方を写真で示した。

 鶴見さんは、図のほうが指をかける位置を強調できると言った。


 数日後、印刷した案をケースへ貼って確かめた。

 鶴見さんが図の案を見て、これなら、と言いかける。

 私は、写真の案も隣へ並べた。


「まだ迷ってます?」

「図の矢印が、上へ引くように見えないかなと思って。両脇の留め具を外側へ倒してから、蓋を上げるんですよね」


 彼はケースの横へかがんだ。

 私も同じ位置から見た。


「たしかに。これだけだと、その動きは分からない」


 図を描き直し、製品を担当していない同僚にも試してもらった。

 私たちが説明せず渡すと、その人は最初、違うところへ手をかけた。


「だめでしたね」


 打ち合わせ室へ戻って、私が言った。


「どこを見てたか、聞きましょう」


 鶴見さんは、試してもらったときのメモを開いた。

 同僚に話を聞き直してから、私は、その人が先に読んでいた文字の位置を指した。


 何度か修正して、次の会議へ出した。

 すぐにできる説明の変更と、次の商品で形を見直す案。

 上司から確認が入り、製造側の担当とも話した。

 私の最初の案が、そのまま通ったわけではなかった。

 それでも、問い合わせを受けたときに困っていたことを、ここでは形にして話せた。


 打ち合わせが終わったあと、鶴見さんが机の上のケースを持ち上げた。


「これ、戻してきます」

「私も。ラベルの案、しまっておきたいので」


 廊下で、彼が聞いた。


「本社の仕事、慣れました?」

「まだ、どこへ何を聞くか迷います。あと、帰りの電車も」

「それは俺も、来たころ間違えました」

「鶴見さんも、異動してきたんですか」

「うん。別の部署から。本社は初めてで、最初は同じ階で迷ってました」


 彼が、少し笑った。

 仕事中より柔らかい顔になったので、私も肩の力が抜けた。


     *


 五月の終わり、会社から帰る道で、鶴見さんと一緒になった。

 私は駅と反対側へ曲がろうとしていて、彼も同じ道へ向かった。


「今日は、そっち?」

「新しい部屋で使う、棚を見に行きます。ずっと箱のままのものがあって」

「あの店ですか。俺も寄りたい」


 彼が言った店は、私が行こうとしていたところだった。

 二人で歩きながら、何を買うのか聞いた。


「鍋。持ち手が緩んできたので」

「直せないんですか」

「直して使ってたんだけど、また緩んで。そろそろ替えようかなと」


 店では、私は棚の奥行きを確かめた。

 彼は別の売り場で鍋を見て、あとからこちらへ来た。

 私がメジャーを戻すと、サイズは合いそうかと聞く。


「合いそうです。でも、これを買うと、本をもう少し整理しないと入りません」

「減らすんですか」

「今は、減らしたくなくて」

「もう少し高い棚も見ます? 本を減らさなくて済むかもしれない」


 私は、違う大きさの棚も見た。

 結局その日は買わず、家で本の幅を測り直すことにした。

 鶴見さんは鍋を買い、店を出ると、意外と重いですねと袋を持ち直した。


「夕飯、どうします?」


 彼が聞いた。

 私は、買って帰ろうと思っていたと答えた。


「俺も、外で食べて帰ろうかな。新しい鍋、使いたいけど」

「今日は使わないんだ」

「洗ってからにします」


 駅へ向かう途中の店で、二人でご飯を食べた。

 仕事の話も少ししたが、半分は部屋の話だった。

 彼は、狭い台所へ鍋を増やすと、古いものをしまう場所がなくなると言う。

 私は、古い鍋を残すのかと聞いた。


「一応。まだ使えるかなと思って」

「だから、置く場所がなくなるんですね」

「高宮さんの本も」


 言われて、私は笑ってしまった。

 鍋も本も、捨てたら済むという話にはならなかった。


 食事のあと、彼が好きな本屋を教えてくれた。

 私が読んでいた本の続きが出ているはずだと言うと、見に行ってみたいと返す。


 その週末、本屋で待ち合わせた。

 私から誘った。


 仕事で見ているときより軽い服装で、彼は入口の横に立っていた。

 私を見つけて手を上げ、さっき中を少し見たと話す。

 休日にも迷わず話せるのが、嬉しかった。


 買うつもりだった続きの本は、すぐに見つかった。

 鶴見さんは、店の奥の棚に長くいた。

 私は彼が見ていた本を隣からのぞき、何が気になるのか聞いた。


「前に読んだ本と、同じ人のです。これは、知らなかった」


 彼が表紙をこちらへ向けた。

 私は、どんな話だったか聞いた。

 彼は途中まで説明して、これ以上言うと読むときにつまらないかな、と止まった。


「読んでみたい」

「最初の、貸しましょうか」

「借りたいです。私のも、読みます?」


 店を出てからも、その話が続いた。


 私は昼を予約していた店へ向かった。

 歩いている途中、鶴見さんが細い道をのぞいた。


「あっちにも、店ありそうですね」

「寄ったら、予約に間に合います?」


 彼は時計を見た。


「ぎりぎりか。今日はやめておきます」

「次は、予約しないで歩きます?」

「それ、いいですね。気になったところに入れるし」


 予約した店で昼を食べ、帰りにさっきの道も歩いた。

 小さい店が二軒あり、片方には定休日の札が出ていた。


「今度、開いてる日に来たいですね」


 私が言うと、彼は営業時間の書かれた紙を読んだ。


「土曜なら、よさそう」


 私は、その日に予定があるか考えた。

 まだ空いていた。


 何度か休日に会うようになってから、私は鶴見さんに、付き合っている人はいるのかと聞いた。

 彼は、いないと答えた。

 私は、自分も今はいないと伝えた。


「前は、結婚するつもりだったんですけど」


 言葉が、思っていたより簡単に出た。

 彼は少し驚いた顔をしたが、続きを急かさなかった。


 私は、異動を受けたいと相談したこと、孝典が辞退を伝えたこと、結婚をやめたことを話した。

 そのときの彼への返事より、ずっと短い説明だった。


「そうだったんですね。じゃあ、引っ越す前も忙しかったでしょう」

「忙しかったです。部屋を探して、荷物をまとめて。来てからもしばらく、箱だらけでした」

「棚、買いました?」

「はい。結局、少し大きいほうに」


 私は、棚に並んだ本の写真を見せた。

 借りた本も、一番上に置いていた。


「俺の、ここにある」

「今、読んでます。あと少し」


 鶴見さんは、読み終わったら感想を聞きたいと言った。

 私は、次に会うときまでに読み終わりそうだと答えた。


     *


 六月の終わり、母から電話が来た。

 孝典の母から、私が東京の仕事に慣れてから、改めて両家で会いたいと言われたという。


「孝典くんが、莉津とも連絡を取ってて、仕事に慣れたら改めて話すことになったって言ったらしいの。それで、顔合わせの予定を聞こうと思ったんだって」


 私は、棚へ戻しかけていた本を手に持ったまま、母の話を聞いた。


「そんな約束、してない。私も、結婚はなくなったと伝えたよ」

「そう伝えておく。向こうも、話が違うと困ってたから」


 電話を切り、孝典へメッセージを送った。


『結婚は延期ではなく、解消したと伝えて。私は戻るつもりはない』


 しばらくして、彼から、電話で話せないかと返ってきた。

 私は、今ならと答えた。


「転勤してもいいから、結婚は考え直してほしい」


 電話に出ると、孝典は言った。


「東京で働きたかったんだよな。そこは、俺が折れる」

「転勤していいかを、あなたに決めてもらいたかったんじゃないよ」


 彼は黙った。


「私も考え直してるって、ご両親に言ったの?」

「今は仕事のことで頭がいっぱいだろ。慣れたら、もう一回話せると思って」


 私は、本を棚へ戻した。


「落ち着いたよ。だから、戻るつもりはないと伝えてる」

「課長にも、俺が莉津の返事をする話じゃないって言われた。でも、あれは訂正できたんだろ」

「訂正できたから、いいことにはならないよ」


 彼は、結婚して一緒に住むつもりでいたと話した。

 友人にも日取りが決まったら伝えると言っていて、最近、いつになるのか聞かれるという。


「莉津が仕事を選んだから、結婚はなくなったって言うしかないじゃん」

「それは違うよ」


 私は言った。


「仕事を選んだからじゃないよ。私が断るって、勝手に伝えたからでしょう。それを言わないで、私の仕事のせいにしないで」

「俺だけが悪いみたいに」

「あなたがしたことは、私のせいにはできない」


 電話の向こうで、孝典が息を吐いた。

 私はもう、どこに住みたいか、どう働きたいかを説明し直さなかった。


「結婚の予定があるように話すのも、考え直すように連絡するのも、やめてほしい」


 返事を待ったが、孝典は黙ったままだった。

 私は、おやすみ、とだけ言って電話を切った。


 数日後、彼の母から短いメッセージが来た。

 孝典から結婚がなくなったと聞いたことと、連絡が行き違って申し訳なかったことが書かれていた。

 私は、ご連絡ありがとうございますと返した。


 そのあと、孝典からは連絡が来なかった。


     *


 七月に入るころ、私は鶴見さんと会った。

 待ち合わせてすぐ、借りていた本を返した。

 途中で気になる道へ曲がってもいいように、その日は店を予約しなかった。


 彼は、古い文房具店の前で立ち止まった。

 窓の向こうに、小さな箱がいくつも並んでいる。

 私も一緒に入り、便箋の棚を見た。


「手紙、書きます?」


 鶴見さんが聞いた。


「たまに。名古屋にいる友達に、引っ越してからまだ何も送ってなくて」

「これ、東京の絵が入ってる」


 彼が指した一枚を、私は手に取った。

 電車と、川と、小さな店が描かれている。


「今、こういうところ歩いてるって書けそう」


 私は便箋を買った。

 彼は、芯の太い鉛筆を一本選んだ。


 店を出ると、日なたは暑かった。

 彼が日陰のほうへ歩き、私も並んだ。


「本、面白かったです。最後、あの人が戻ってくるとは思わなかった」


 私は感想を話した。

 鶴見さんは、途中で気になった場面を挙げる。

 私が覚えていなかったので、彼は本を取り出し、ページを探した。


 立ち止まって読み返すと、前の場面とのつながりが分かった。

 私も、この人が話していたことも関係あるのかと聞いた。

 彼は、その解釈もありそうだと答えた。


 彼が本をしまい始めたので、次も何か貸してほしいと言いかけた。

 借りた本がなくても、来週会いたい。私は一度口を閉じて、彼を呼んだ。


「鶴見さん」


 彼がこちらを向いた。


「本を借りたり、返したりしなくても、また会いたいです」


 彼は鞄の口を閉じた。

 私は続けた。


「一緒に歩くの、好きです。仕事のときとは違うことも、もっと話したい」


 彼が、私を見たまま頷いた。


「俺も、会いたいです」


 私は、もう一度息を吸った。


「鶴見さんが好きです。付き合ってもらえませんか」


 彼の表情が、少し緩んだ。


「はい。俺も好きです」


 返事を聞いてからも、私は彼を見ていた。

 頬が緩むのを止められなくて、彼も同じ顔をしていた。


「俺から、言おうと思ってたんだけど」

「いつ?」

「今日、帰るまでに」


 私は笑ってしまった。

 彼も笑い、先に言われたな、と言った。


「次は、帰るときに次の約束もしましょう」


 私が言うと、彼は、今決めてもいい、と答えた。


「あと、莉津さんって呼んでもいいですか」

「はい。私も、晴紀さんって呼びたいです」


 彼は、小さく莉津さん、と呼んだ。

 私は、はいと答えてから、二人とも少し照れていることに気づいた。


 歩き始めたところで、彼が手を差し出した。

 その手を取ってからは、店の看板より、彼の横顔ばかり見ていた。


     *


 会社では、これまでどおり、それぞれの仕事をした。

 説明ラベルの変更案も、確認を重ねて、次の印刷分に反映されることになった。

 次の商品へ向けた改善案には、まだ検討することが残っていた。


 打ち合わせで新しい案を出すと、晴紀さんは、そこまで文字を増やすと読まれないかもと言った。私は、削るならこの一行を残したいと返した。

 彼が、手順ごとに短く書いてみようかと提案したので、私は残したい一行をどこへ入れるか、もう一度考えた。


 帰り道、彼が、今度は別の商品も担当してみたいと話した。私は、どんなものか聞いた。

 話を聞いていたら乗るはずの電車が来て、続きは週末に、と二人で約束した。


 八月の休日、私たちは駅の改札の内側で会った。

 晴紀さんは、気になっていた道の地図を見せてくれた。

 私は、昼に食べたいものを話した。


「そこに行くなら、一本こっちを歩いたほうがよさそう」


 彼が指す道を、私も見た。


「じゃあ、そこ通って行こう。帰りは、さっきの道にも寄りたい」

「うん。そうしよう」


 スマホをしまい、二人で改札を出た。

 私は、晴紀さんの手を取った。


~完~


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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