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例の四人シリーズ

夫婦同然の円満な二人 〜浮気なんてないはずよね?〜

作者: Re:I P
掲載日:2026/05/24

ハッピーエンドなので心配しないで下さい!!!!

書きながらホッコリしていました( ◜ω◝ )

 朝、窓から差し込む光でアリスは目を覚ました。


 以前なら、決まった時間になると侍女がカーテンを開けに来ていた。着替えも、髪を整えるのも、一人でやることはほとんどなかった。けれど今は違う。アリスは自分で身体を起こし、自分で窓を開ける。


 春先の柔らかな風が部屋へ流れ込んできた。


「……いい天気」


 小さく呟きながら部屋を見回す。公爵家の屋敷に比べれば、この部屋はずっと狭い。天井も高くないし、豪奢な調度品もない。けれどアリスは、この部屋が好きだった。自分の手が届く場所に生活がある。それが、不思議なくらい落ち着くのだ。


 隣を見ると、エドワードがまだ眠っていた。アリスの髪に手を乗せたまま静かな寝息を立てている。


 婚約してから数年が経っていた。本来なら、正式に婚姻を結ぶ前に同じ家で暮らすべきではない。だがウェールズ家を出たアリスに戻る場所はなく、ロイド家も「今さら形式を気にしても仕方ない」と受け入れてくれた。その結果、こうしてエドワードとの生活が始まっている。


 最初の頃は緊張でまともに眠れなかった。朝になれば好きな人の顔が見えて、食事を共にして、「いってらっしゃい」と「おかえり」を交わして、夜には同じ家で「おやすみ」を言う。そんな当たり前の生活が、自分にも訪れるのだと、なかなか実感が湧かなかった。


 アリスはそっとベッドを抜け出すと、髪を簡単にまとめて台所へ向かった。


 ロイド家の朝は早い。パン屋の店を開ける準備があるため、皆かなり早く起きる。最初はその生活に合わせるだけで精一杯だったが、最近は少し慣れてきた。


 台所へ立ち、昨日の残りのスープを温める。パンを切り、卵を焼く。


 最初は散々だった。火加減が分からず卵は黒く焦げ、スープは吹きこぼれ、鍋を駄目にしかけたこともある。そのたびに落ち込むアリスへ、エドワードは呆れるでもなく言った。


「アリスが無茶して作らなくて良いよ。僕も手伝うから」

「ありがとう!でも私も作ってみたいのよ」


 アリスがぱっと顔を上げて言うと、エドワードは少しだけ目を瞬かせ、それから笑った。


「君がそう言うなら……一緒に作ろうか」

「うん!」


 途端に機嫌が良くなったアリスは、勢いよく木べらを握る。


 以前なら考えられない姿だった。


 公爵家では、台所へ立つことなどほとんどない。料理人が作ったものを食べ、侍女が紅茶を淹れ、使用人がすべて整えてくれる。


 だからアリスは、最初まともに卵すら割れなかった。力加減が分からず握り潰したこともあるし、殻が丸ごと入ったこともある。


 けれど今は、少なくとも“食べられるもの”は作れるようになっていた。


「ねえエドワード、見て。今日は綺麗に焼けてるわ!」

「本当だ。上手くなったね」

「でしょう?」


 褒められるとすぐ嬉しくなる。アリスはにこにこしながら鍋をかき混ぜた。


 こういう時間が好きだった。


 豪華な食事ではないし、格式ある晩餐でもない。ただ二人で台所へ立って、朝ごはんを作っているだけ。


 それなのに、とても楽しい。


「私、最初は不安だったの」


 ふと、アリスが呟く。


「ちゃんとできるかしらって。普通の暮らしなんて何も知らなかったし、迷惑かけるんじゃないかって」


 洗濯の仕方も知らない。

 掃除の順番も分からない。

 買い物ひとつ、自分でしたことがなかった。


 公爵令嬢として生きてきたアリスにとって、“普通の暮らし”は未知のものだったのだ。


「でも今は、毎日すごく楽しいわ」


 アリスは笑う。


「失敗しても、次は上手くやろうって思えるの。昔は失敗するのが怖かったのに」


 エドワードは静かにアリスの話を聞いていた。


 無理に励ましたり、大げさなことを言ったりはしない。ただ自然に隣へ立って、同じ鍋を覗き込む。


 その距離感が、アリスには心地よかった。


 その距離感が、アリスには心地よかった。


「ねえ、エドワード」

「ん?」

「私、あなたと婚約できて本当に良かった」


 アリスが真っ直ぐそう言うと、エドワードは少しだけ照れたように目を逸らした。


 窓の外から朝の光が差し込む。小さな台所にはスープの匂いと焼きたてのパンの香りが広がっていた。


 きっと夫婦円満の秘訣というのは、こういうことなのだろう。


 特別な何かではなくて、一緒に笑えて、一緒に暮らして、“また明日もこうしていたい”と思えること。


 アリスはそんな当たり前の幸せを、今日も大事そうに胸へ抱えていた。




 ◇




 アリスには気の知れた友人がいた。


 公爵令嬢のセシリア・リンドベル。

 侯爵家の令嬢、リーザロッテ・ヴァルナー。

 快活で思ったことをすぐ口にするセシル・ハインズ。

 そして親友のエレノア・フェルト。


 四人とは、まだアリスがウェールズ家にいた頃からの付き合いだった。


 身分も立場も性格もばらばらだったが、今でも週に一度ほど王都へ集まって、お茶を楽しむ仲になっていた。


 いつもなら茶会は王都の喫茶店で開かれるのだが、今日は、エドワードの許可を得て四人を家へ呼ぶ事にした。


 それはアリスが皆に披露したい事と相談したい事があったからだ。


 披露したい事――それは、自分の料理の出来だった。


 エドワードと一緒に台所へ立つうちに、少しずつできる事が増えていった。今日はその成果を、どうしても皆に見せたかったのだ。


 やがて、家の前に見慣れた四人の姿が見えた。


「あっ、来た!」


 アリスはぱっと表情を明るくし、そのまま玄関へ駆けていく。扉を開けた瞬間、最初に前へ出てきたのはエレノアだった。


「アリス〜」


 柔らかく笑ったかと思うと、そのままぎゅっと抱きしめられる。


「わっ」

「元気にしてた?」


 アリスは少し驚いた後、すぐ嬉しそうに笑う。


「うん!元気よ!」

「良かったぁ……」


 エレノアは安心したように頬を緩めた。

 その後ろで、セシルが家を見回しながら口を開いた。


「珍しいわね、アリス。貴方の家で開くなんていつぶりかしら?」

「……確かに」


 アリスは少し照れくさそうに笑った。


 公爵家にいた頃、自室へ友人を招くことはあっても、“家へ呼ぶ”という感覚はほとんど無かった。あの屋敷は、自分の家というより“ウェールズ公爵家”そのものだったからだ。


 けれど今は違う。ここは、自分とエドワードが暮らしている場所だった。


「今日は皆に見て欲しいものがあるの!」


 アリスがぱっと顔を輝かせて言うと、リーザロッテが勢いよく身を乗り出した。


「という事は、今日は特別なお茶会なんですの!?」

「そうよ!今持ってくるからちょっと待っててね!」


 そう言い残すと、アリスはぱたぱたと台所へ駆けていった。


 残された四人は顔を見合わせる。


 最初にくすっと笑ったのはエレノアだった。


「アリスったら最近ずっとあの調子よね」


 するとセシリアも小さく肩をすくめる。


「でも何か良いですよね。エドワードさんと良好な関係を築いていらっしゃるみたいだし」

「そうよねぇ、早く結婚しないかしら?」


 セシルが頬杖をつきながら言う。

 リーザロッテもぱっと顔を輝かせた。


「分かりますわ!もう完全に新婚夫婦みたいなんですもの!」


 四人の間に、自然と笑いが広がる。


 アリスがエドワードと出会った頃のことを、皆覚えていた。


 最初は全員が戸惑っていたのだ。


 公爵令嬢として生きてきたアリスが、本気で平民の男性へ恋をしている。


 それは貴族社会では決して簡単な話ではなかった。けれど、今のアリスを見れば分かる。あれが間違いではなかったことくらい。今日ですらも皆が分かってしまう程に朝からずっと浮かれていた。


 そんな姿を見られるようになったのは、きっとエドワードのおかげなのだろう。


「お待たせ〜」


 明るい声と共に、アリスが戻ってくる。

 両手には大きな皿が抱えられていた。


「ちょ、ちょっと重かったわ……!」


 そう言いながらも、表情はどこか得意げだ。


  テーブルへ次々と並べられていくのは、昼食用の料理だった。


 焼きたてのパンに温かなスープ。彩りよく盛り付けられたサラダ、そして香ばしい匂いのするキッシュ。


 どれもアリスの手作りだった。

 リーザロッテがぱちぱちと瞬きをする。


「……えっ」


 セシルも思わず身を乗り出した。


「これ、本当にアリスが作ったの?」

「そうよ!」


 アリスは誇らしげに胸を張る。

 その反応が欲しくてたまらなかったのだろう。


「今日は自信作なの!」


 その声は弾んでいた。


 エレノアが驚いたように目を丸くする。

 アリスは嬉しそうに何度も頷いた。


「そうなのよ!最近エドに料理を教えて貰っていて、簡単な物は作れるようになったのよ?」


 その言葉に、リーザロッテが感動したように両手を合わせる。


「まあ……!何て素敵なの……!」

「そんな〜大袈裟よ〜」


 そう言いながらも、アリスはどこか照れくさそうだった。


 セシルは改めて料理を見回す。

 少なくとも、昔の“炭を量産していたアリス”とは別人だった。


「……普通に美味そうなんだけど」

「でしょう!」


 褒められた瞬間、アリスの表情がぱっと明るくなる。

 その様子を見て、セシリアがくすりと笑った。


「そう言えば、エドワードさんは……?」

「エドは、今日は外出中よ。用事があるみたいで夕方に帰ってくるらしいわ」


 アリスはそう答えながら席へ座る。


 どこか自然に“エド”と呼んだことに、四人はちらりと顔を見合わせた。


 ――これは、もう結婚も近いのではないか。


「ほら、冷める前に食べて!」


 アリスは嬉しそうに皿を勧める。


 四人は顔を見合わせながら、それぞれ料理へ手を伸ばした。


 最初にスープを口にしたリーザロッテが、ぱっと目を輝かせる。


「美味しいですわ!」

「本当!?」


 アリスが勢いよく身を乗り出した。

 続いてセシルがキッシュを一口食べる。


「……あ、普通に美味い」

「普通にって何よ!」

「ごめんごめん、アリスがここまで上手とは思わなくて」


 セシリアもパンをちぎりながら小さく笑う。


「でも、本当に上達したわね。ちゃんと料理になってるもの」

「前は“挑戦的な味”だったよね……」


 すると、リーザロッテが感心したように言う。


「でも、エドワードさん凄いですわね。ここまでアリスを育てるなんて」

「私、人みたいに言われてない?」

「実際かなり成長してると思う」


 セシルが頷いた。


 アリスは少し得意げに胸を張る。


「最近は朝食なら一人でも作れるのよ?」

「へえ?」

「まあ、まだエドが隣にいること多いけど」


 その言い方があまりにも自然で、セシリアがくすっと笑った。


 アリスはそんな反応に気づかないまま、少し迷うように視線を落とす。


 そして、スープ皿を見つめながらぽつりと言った。


「……ねえ、皆」

「ん?」

「実は今日、相談したいことがあったの」


 その瞬間、四人の視線が一斉にアリスへ集まる。アリスは少し言いづらそうに視線を泳がせた。


 さっきまであれだけ嬉しそうにしていたのに、今はどこか落ち着かない様子だ。


「……結婚式のこと、じゃないの?」


 エレノアが首を傾げる。アリスは小さく首を振った。


「ま、まさか!まだ早いわよ!その前に、ちょっと聞いてほしいことがあって」


 その言い方に、セシリアがふっと表情を変える。いつもの軽い雑談ではないと察したのだろう。


「何かあったの?」


 アリスは少し迷ってから、ぽつりと言った。「……最近、エドの様子がおかしいの」


 リーザロッテがぱちぱちと瞬きをした。


「おかしい……?」

「うん」


 アリスはスプーンを持ったまま、小さく頷く。


「何て言えばいいのか分からないんだけど、最近ちょっと帰りが遅い日が増えてて……」


「仕事じゃなくて?」


 セシルが聞く。


「それならいいんだけど……何か、変なの」


 アリスは眉を下げた。


「この前なんて、帰ってきた時に、すごく良い香りがしたのよ」


「香り?」

「うん。花みたいな香水の匂い」


 その瞬間、リーザロッテが息を呑む。

 セシルは片眉を上げ、セシリアは静かに紅茶へ口をつけた。


「……それは確かに気になるわね」


 セシリアがゆっくり言う。

 アリスは慌てて続けた。


「でも! 別に決まったわけじゃないのよ!? ただ、何となく気になってるだけで……!」

「アリス」


 エレノアが優しく声をかける。


「貴方、もしかして不安なの?」


 その言葉に、アリスは少しだけ黙った。そして小さく俯く。


「……浮気、とか」


 口にした瞬間、自分でも傷ついたような顔をした。


「考えたくないんだけど……ちょっとだけ、そうだったらどうしようって思っちゃって」


 アリスの声は、最後の方になるほど小さくなっていた。


 自分で言っておきながら、そんなはずないと否定したいのだろう。

 エドワードがそんなことをする人ではないと、一番分かっているのはアリス自身なのだから。けれど、一度浮かんでしまった不安は簡単には消えない。


 すると、静かに紅茶を置いたセシリアが口を開いた。


「アリス、そういう時こそ、私に任せて」

「え?」


 アリスが顔を上げる。

 セシリアはどこか自信ありげに微笑んだ。


「私、花や香水は詳しいんだから!この時期に使われる花系の香水なら、ある程度絞れると思うわ。それに香料や花の組み合わせで、その人が何をしていたかなんて分かるものよ」


 さらりと言い切るセシリアに、アリスがぱちぱちと瞬きをする。


「分かるの……?」

「ええ」


 セシリアは当然のように頷いた。


「例えば薔薇系でも、夜会向けの濃い香りと、普段使いの軽い香りは全然違うもの。花屋へ寄っただけなのか、香水店へ行ったのかでも変わるし」

「怖っ」


 セシルが思わず呟く。

 リーザロッテも少し引き気味だった。


「香りだけでそこまで分かるんですの……?」

「分かるわよ。むしろ、香りって結構誤魔化せないの。言葉より正直だったりするし」


 アリスは思わず自分の袖口を嗅いだ。


 そこには焼き菓子と紅茶の匂いしかしない。


「じゃ、じゃあ……エドのも分かるの?」

「条件次第ね」


 セシリアは少し考えるように目を細めた。


「どんな香りだったか、もう少し詳しく思い出せる?」


 アリスは困ったように眉を下げた。


「うぅ……説明しようとしても難しいのよね」


 甘い香りだったのは覚えている。けれど、どんな花だったのかまでは分からない。


 アリスは普段そこまで香水へ詳しくないのだ。


 しばらく悩んだ後、ふと思いついたように顔を上げた。


「……エドの服、持ってきても良い?」

「まあ、現物があるならその方が早いわね」

「本当!?じゃあ持ってくる!」


 そう言うなり、勢いよく立ち上がる。


 ぱたぱたと二階へ駆け上がっていく足音を聞きながら、残された四人は顔を見合わせた。


「……何か大事になってきましたわね」


 リーザロッテが小声で呟く。セシルは頬杖をつきながら、二階の方へ視線を向けた。


「まあ、アリスがあそこまで気にするって珍しいわね」

「普段なら、“考えすぎかも”って自分で終わらせるのにね」


 エレノアも少し心配そうだった。


 その間にも、二階ではばたばたと慌ただしい音が続いている。


 引き出しを開ける音、何かを落としたような音。そして「あっ、これじゃないわ!」というアリスの声。


 やがて、再び足音が近づいてくる。


「持ってきたわ!」


 アリスが少し息を切らしながら戻ってきた。

 手にはエドワードの上着が一着抱えられている。


「これ!この日に着てたやつ!」


 そう言いながら、アリスは上着をセシリアの前へ差し出した。


 服を近づけなくても分かるほど、甘い花の香りが残っていた。


 部屋の空気へふわりと溶けるような、柔らかな匂いだ。


 リーザロッテが目を丸くする。


「わ、本当にお花の香りがしますわ……!」

「結構しっかり残ってる」


 セシルも驚いたように呟く。


 セシリアは静かに椅子から立ち上がると、アリスの手から上着を受け取った。


 そして目を閉じるようにして、ゆっくり香りを確かめる。


 その姿は、まるで鑑定士だった。

 しばらくしてから、セシリアが静かに口を開く。


「……ジャスミン。それと薔薇。少しだけ柑橘も混じってるわね」


 アリスがぱちぱちと瞬きをする。


「わ、分かるの……?」

「ええ」


 セシリアは上着を軽く持ち上げながら続けた。


「でも、これは香水っていうより花の移り香ね」

「移り香?」

「花屋とか、花を扱う場所に長くいた時につく匂いよ」


 その言葉に、アリスがきょとんとする。


 セシリアはさらに上着の袖口を見ながら、小さく頷いた。


「香水特有の重さが無いの。もっと自然な香り。それに、花弁の青っぽい匂いが残ってる」

「青っぽい匂いって何だ」


 セシルが眉をひそめる。


「説明しにくいけど、あるのよ」


 セシリアは真剣だった。


「少なくとも、“女性と密接に会ってました”って感じの香りではないわ」


 その瞬間、アリスの肩から、目に見えて力が抜けた。


「よ、良かったぁ〜……」


 へなへなと椅子へ座り込む。


 どうやら本人が思っていた以上に不安だったらしい。エレノアが苦笑しながら背中を撫でた。


「もう、そんなに心配してたの?」

「だってぇ……!」


 アリスは半分泣きそうな顔だった。そんな様子を見ながら、セシリアがふっと口元を緩める。


「アリス、多分、近いうちに良い事あるわよ」

「え?」


 アリスが顔を上げる。セシリアはエドワードの上着を軽く持ち上げながら続けた。


「この匂い、ジャスミンや柑橘だけじゃないもの」


 そして袖口へ顔を近づけ、小さく頷く。


「薔薇の香りが残ってる」


 その言葉に、リーザロッテがぱっと目を輝かせた。


「まあ……!」


 セシルも何か察したように片眉を上げる。

 アリスだけがきょとんとしていた。


「……どういう事?」


 するとセシリアは、どこか楽しそうに笑った。


「さあ?でも少なくとも、浮気を疑う必要は無さそうね」




 ◇




 それから数日後。

 その日も、いつもと変わらない朝だった。


 アリスは台所でパンを切り、スープを温めていた。最近では卵を焦がすことも減り、エドワードから「本当に上達したね」と言われる回数も増えている。


 窓の外は穏やかな晴れ模様だった。

 春の風が薄いカーテンを揺らしている。


「アリス」


 背後から声をかけられ、アリスは振り返った。


 エドワードは外出用の上着を羽織りながら、少しだけ迷うように口を開く。


「今日、夕方空いてる?」

「え?うん、空いてるけど」

「少し付き合ってほしい場所があるんだ」


 その言い方が妙に真面目で、アリスはぱちぱちと瞬きをした。


「分かった!」


 夕方、二人は並んで王都の街を歩いていた。


 夕焼けに染まり始めた石畳を、ゆっくり進んでいく。


 やがて大通りを外れ、少し静かな道へ入る。


「こっち初めて来たかも」

「そう?」

「うん。何か新鮮」


 アリスは楽しそうに辺りを見回していた。


 しばらく歩くと、小さな広場へ出る。


 中央には古い噴水があり、その周囲には色とりどりの花が植えられていた。


 夕陽を受けた花々は柔らかな色に染まり、とても綺麗だった。


「わぁ……!こんな場所あったのね」

「最近できた花壇らしいよ」

「すごい……!」


 アリスは嬉しそうに花へ近づいた。

 その背中を見ながら、エドワードは小さく息を吐く。


 かなり緊張していた。


 何度も頭の中で言葉を考えて、その度にやり直してきた。


 けれど、今目の前で笑っているアリスを見ていると、不思議と覚悟が決まる。


「アリス」

「ん?」


 名前を呼ばれ、アリスが振り返る。

 その時、エドワードは静かに片膝をついていた。アリスの目が大きく見開く。


「え……?」


 エドワードはそっと、後ろに隠していたものを差し出した。それは、鮮やかな薔薇の花束だった。深紅の薔薇を中心に、淡い色の花々が丁寧に束ねられている。


 花の甘い香りが、春の風にふわりと混ざった。


「これを君に渡したかった」


 その声は少しだけ緊張していた。アリスは息を呑んだまま、花束を見つめる。


 エドワードは続ける。


「アリス。僕は、君と一緒にいる時間が好きだ」


 朝、一緒にご飯を作る時間。くだらないことで笑う時間。「おかえり」と言い合える毎日。その全部が、何より大切だった。


「これから先も、ずっと君の隣にいたい」


 そう言って、もう片方の手から小さな箱を取り出す。


 中には、繊細な装飾の指輪が入っていた。

 夕陽を受けて、小さな宝石がきらりと光る。


「僕と結婚してください」


 一瞬、アリスは何も言えなかった。ただ目を見開いたまま、エドワードを見つめている。


 やがて、じわじわと目元が潤み始めた。


「っ……」

「え、ちょっと、嫌だった?」

「違うわよ……!」


 アリスは慌てて首を振る。


「嬉しくて……っ、びっくりして……!」


 声が震えていた。エドワードはほっとしたように笑う。


 アリスは涙を拭いながら、何度も頷いた。


「する!します!絶対するわ!」


 その返事を聞いた瞬間、エドワードの表情から力が抜けた。


「良かった……」

「良かったじゃないわよ、もう……!」


 アリスは半分泣きながら笑っていた。


「最近帰り遅かったの、これだったの?」

「うん。薔薇探したり、指輪選んだりしてた」


 その言葉に、アリスはふっと笑う。そして思い出した。あの上着に残っていた花の香りを。


「……だから薔薇の匂いがしたのね」

「薔薇?」

「何でもない!」


 アリスは笑ったまま、薔薇の花束を大事そうに抱きしめた。


 その花の香りは、とても優しく甘かった。

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