おそろしい谷
ある部族の美しいむすめに、西からやってきた若者が求婚した。
部族の者たちは、誰もその若者のことを知らなかったので、みなが反対した。けれどもむすめは、その若者と結婚することにした。若者はりりしく、狩りがとても上手で、またやさしかったからだ。
結婚のお祝いはにぎやかに行われた。妻となるむすめは、きらきら光るガラス玉や真っ白な貝殻、色とりどりの羽で長い黒髪を飾り、夫と一晩中おどりをおどった。妻は幸せだった。若者が狩りでたびたび大きな獲物をしとめてきたので、部族のみなも喜んだ。
それからしばらくたって、夫が妻に、自分のふるさとへ行こうとさそった。むすめはそれまで西の方角へ行ったことがなかったので、何となく気がすすまなかった。けれど、あんまりたびたび夫がさそったため、とうとう承知した。
部族のキャンプから西の方角へ、一日半も歩くと、深い谷があった。ふるさとは谷の底にあるといい、夫が妻を抱きかかえて谷をおりた。
谷の底では、妻の部族よりも裕福で、にぎやかそうな人々が待っていた。夫と妻は、そこでごちそうやら歌、おどりやらでもてなされ、何日も面白おかしくくらした。最初は早く部族の元へ帰りたいと思っていた妻も、じきにそれを忘れるようになった。
ところがある日、たきぎを集めるために妻が谷底の奥へ歩いていくと、ずっと昔に死んだはずの祖父がいた。
おどろく妻に、祖父は忠告した。一刻も早く、谷から逃げろ。この谷には、おそろしい魔物がひそんでいる。あの手この手でえものを呼び寄せ、最後には食べてしまうのだ。食べられてしまった人間は、魂でさえも永遠に囚われ、谷底をむなしくさまよい続けることになる。
祖父は彼女にマツの種をあげた。もしも追いつめられたら、これを食べるがいい。魔物に捕まることはなくなるだろう。
妻はマツの種を持って、逃げた。行きは夫に下ろしてもらったがけを、今度は自分の手と足で登った。夫やその仲間たちが気づき、追いかけてきた。けれども妻は、わきめもふらず、登り続けた。夫のやさしい言葉や、祖父のうめき声にも、耳を貸さなかった。
谷の上がようやく見えてきたころ、安心した妻は、ふと後ろを振り返った。
そこで見えたのは、大きな顔だった。谷の底は歯をむき出した広い口で、赤い舌が、妻を呼んでうごめいていた。そしておそろしい目が、ぎょろりと妻をにらんだ。
妻は気を失う寸前、祖父にもらったマツの種をのみこんだ。
すると、妻は一本のマツの木になった。崖に根を張り動かない木を見て、魔物たちはあきらめ、谷底におりていった。
マツの木は、枝にとまった小鳥たちに、自分が経験した話を伝えた。小鳥たちは、その話を人間たちにも広めた。それで、谷の魔物に食べられてしまう者はいなくなった。




