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蛙化現象に悩む聖女は年下魔王に攻略される




「聖女殿がまた蛙化現象を引き起こしたようです」

「ま た か !!!」


静かな朝の空気が弾けるように、声が屋敷を震わせた。

机の上の報告書が宙を舞い、窓辺の花瓶がかすかに揺れる。

悪い報告を持ってきた彼は特に悪びれた様子もなく、慣れた手つきで書類を片手でまとめながら淡々と言った。


「今回で三十八回目です。詳細を聞きますか?」

「……もういい、数えるな。頼むから……」


椅子に沈み、片手で額を押さえるのは彼の主だった。

短く刈り上げた黒髪に指を滑らせる仕草に、疲労と諦めが滲む。

角が光を掠め、乾いた笑顔から八重歯がわずかにのぞいた。


「……会えたんだ。セラフ。やっと」

「聖女殿に、ですか」

「ああ。この地位を得て、もう一度会えると思ってた。会って、話して、笑って……それで終わると思ってたんだがな」


彼は短く、寂しく呟く。

セラフと呼ばれた男性はこの部屋に似つかわしくない、昼の陽を思わせる金髪を揺らして大げさに肩を竦める。


「しかし彼女はあなたを魔王として見たのですね」

「そうだ。……邪神に仕える化け物として、な」


魔王と聖女。

ふたりは数年違いではあるが同じ街に生まれ、隣接する同じ様な家に住み、同じ様な物を食べ、同じ様に学んだ。そして彼らの親の様な大人になるはずだった。

彼女に神託が降りて神殿に連れて行かれるまでは。


セラフは、顔を覆う薄布の向こうから小さく息をついた。血の気のない唇が静かに動く。


「それでも、あなたは笑っていました」

「笑うしかないだろう。あんな顔を見たらな……」


魔王は視線を落とし、窓辺に写る自分を眺める。

彼女が連れて行かれて数年後、この世の全てを憎んだ彼は偶然にもこの地の指導者である所謂“魔王”として見出された。

窓の外に満ちている紫とも灰色ともつかない、この地を包む靄のようなものの影響なのか、彼の姿形は徐々に変化を遂げていった。

この姿に不満は何も無い、寧ろこの地位であれば手の届かない人となった彼女に会える。そう思っていたのだが…。


「…俺は自分が思っていたよりずっと強欲だったようだな」


ほんの瞬きほどの間、二人の間に言葉が途切れる。

そのとき――。


「ああ、いらっしゃいましたね。地下の祭壇へお向かい下さい」

「……こんなときにか」


魔王は深く息を吐き、立ち上がる。

黒衣を羽織ると、刈り上げた首筋にわずかに光が落ちた。


「留守を頼む」

「いつもの通り、ここで待機します」


家の地下。

重い扉を開けば、石造りの階段が静かに闇の底へと続いている。

セラフは入り口で一礼し、それ以上は進まない。


「……私はここまでです」

「わかってる。すぐ戻る」


そう言い残して、魔王は一人で階段を下りていった。


湿った空気とともに、懐かしい香りが漂う。

草、花、春の陽のような匂い――それは地の神の気配だった。


「…また子どもに混じって遊んでいたのですね?」

「かわいいでしょう、作ってもらったの」

「実体のあるものを移動させると消耗しますよ」


淡い光が祭壇の前に揺らめく。

草花の冠を頭に乗せた彼女は、心底満足そうな笑みを浮かべながら、まるで母のように彼を見つめた。


「いいじゃない、子どもは大好きよ。もちろん、あなたもよ、ベイビーちゃん」


その言葉にわずかに目を伏せる。

神はいつも、甘やかで、どこか寂しい。


「また聖女の涙が大地に染み込んだわ。……可哀想で、可愛い子ね」

「……」

「あと数日後、きっと彼女はここに来るわ。準備しておいてね」

「は? なぜ?」

「私に会いに来るのでしょうねぇ」


柔らかな声が消え、光も静かに薄れていった。

残ったのは湿った石の匂いと、草花の冠、そして胸の奥に沈む重たい予感だけ。

魔王はゆっくりと息を吐く。


「……どうすればいいんだ、俺は」



階段を上ると、扉の外でセラフが静かに待っていた。

その姿は影のように動かず、顔の殆どを覆った薄布の端から覗く唇がわずかに動く。


セラフは彼女、地の神から下賜された人…いや、本来なら人の手の届かない“何か”だった。魔王就任の褒美に何か授けられると言われて願ったのだ。この世界を壊せる知恵が欲しい、と。

そして地の神は「物騒ねぇ」と笑いながら言ったのだ。彼女の“特別大切なもの”を授ける、と。

そしてあの日と同じように、セラフは今もここにいる。あの日と寸分違わない姿形のままで。


「地の神は、いかがでした?」

「……聖女が来るらしい。数日後に」

「ほう。良い機会ではありませんか」

「良い機会? 何をどう良いと?」

「彼女があなたを恐れているなら、今のあなたは“ただ待つだけ”です。恐れられながらも、決して離れない者として。……それが一番、効きます」


魔王は眉をひそめた。

セラフの表情は口元からしか伺えないが、きっと彼の瞳は笑っているのだろう。


「……効くって、お前な」

「ええ、心理的な意味で、です。彼女に再会してから約2180日、殿下はじっと耐えられてきたではありませんか」


彼の艷やかな黒曜石の瞳は、魔王自らが薄布で覆ってしまった。

地の神は民に混じって遊び、時には農耕にまで参加している。しかしその姿や眼差しは、魔王以外の誰にも思い出せない。

だからこそ、魔王はセラフの顔を隠した。地の神と同じ、深い夜の瞳を、人々が不用意にふたりを結びつけることのないように。


「殿下より眉目端麗な方も、殿下より逞しい方も、殿下より才能豊かな方も、皆蛙化してますから」

「おい」

「犬よりも誰よりも殿下は辛抱強く“待て”ができておりますので、今のところは自信を持ってよろしいかと」

「フラグを立てるな」


魔王は小さく片眉を上げ、扉を閉じた。

風が窓を叩く。その音に混じって、かすかに地の神の笑い声が聞こえた気がした。








数日後。

屋敷の窓から遠くの街並みを見下ろしながら、魔王は静かに息を吐いた。

白灰の地平線の向こう、風に煽られた旗が揺れている。

あの先にいるはずの彼女が、今この領域にいる――そう思うだけで胸がざわつく。


「半刻ほどで到着します」


背後から、冷静な声。振り返らずとも誰のものかは分かる。彼が隣にいる限り、魔王はなんとか“落ち着いて見える男”を続けていられるのだから。


「……彼女は、どんな思いでここに来るのだろうな」

「分析しますか?」

「やめてくれ、数字で心を測るな」

「では、感情的推測でよろしいですか」

「それもやめろ」


薄布の奥、唇だけが静かに弧を描く。

セラフは淡々と手帳のようなものを開いた。

その仕草は、まるで役所の窓口職員のように無駄がない。


「では現状を整理いたしますね」


軽く咳払いをして、機械的に読み上げ始める。


「まず、彼女は“聖女”という立場にあります。

この地に湧く、所謂“瘴気”を祓える唯一の存在です。

おかげで、あちらの領地内の神殿や政治家から引っ張りだこ。いわば“宗教界のアイドル”ですね」


魔王は無言のまま、眉をわずかにひそめる。


「で、その重責ゆえに、彼女は幾度となく“人の温もり”を求めてきました。つまり、数多くの男性と……まあ、甘い時間を過ごしてきたわけです。

とはいえ、あれです。必ずしも恋多き女というわけではなく、“精神的サポート係を探していた”と言った方が正確でしょうね」

「お前……言い方を考えろ」

「事実を述べているだけです」


セラフどこ吹く風で袂から小さな木彫りの蛙を取り出し机に置く。


「そして問題はここからです。彼女、男性と“親密になった途端”に逃げ出す傾向があるようでして。関係が深まるほどに、なぜか逃げます」

「……それが、例の現象か」

「ご明察です。“蛙化現象”とは──恋慕や憧れが“現実の相手”に触れた瞬間、理想と現実の乖離により嫌悪や拒絶を起こす心理的反応です。つまり、“想いが通じた後”あるいは“好意を自覚した瞬間”に発症します。一部の者はこれを“愛の自己防衛本能”と呼んでいますが、端的に言えば、恋が現実に耐えられなくなった瞬間に人間は言い訳をして逃げる──ということですね」


遠い異国の物語、蛙の王子が人に戻る御伽噺だった筈なのに、湾曲して付けられた現象。

魔王は乾いた笑いしか出てこなかった。


「……救いのない話だ」

「まあ、彼女の場合は神の加護というのも関与しているかと思います。加護とはだいたいそんなものです。神は総じて嫉妬深いのです。“癒し”と“呪い”は表裏一体、恋愛も同じですね」


溜息を吐く魔王を横目に、セラフはさらりと付け足す。


「ご安心ください、殿下。今は問題ありません。殿下は対象外ですから」

「……」

「好意がないので、蛙化しようがない。安全圏です」

「……分かっている!嬉しそうに言うな!」


セラフは一礼し、淡々と告げる。


「以上、聖女レポートでした。まとめると…彼女は聖女、所謂瘴気を祓う、恋愛偏差値は高いが恋愛耐性はゼロ。今後、彼女を攻略したい殿下には“優しさと距離感”が推奨されます」

「……お前は本当に、全く」

「殿下が私を欲したのですから、責任の一端はそちらにもありますよ」


魔王は軽く頭を抱えた。


「まあ、私からみてもあの地域は問題ありますね。聖女の“恋心”が神の加護を強めると推測された時から、積極的に側仕えを男性にしてましたからね」

「……胸糞悪い話だ」

「神の恩恵の前では、人権なんて無視されてしまうのですよ」


爪が食い組む程強く握りしめた魔王の手元に、薄い革の手袋をそっと差し出しながら、セラフは窓辺に腰掛ける。


「さあ、そうこうしている間に見えましたよ。予定より十五分早いです、流石ですね。 おや……今日は彼女、やたらと“祓って”ませんね…?」

「御者はどうした?」

「うちの領地の者を雇った様ですね」


魔王は無言で立ち上がり、階段を降りる。思っていたよりも、胸がざわついていた。どうにかして平静を装おうとするが、セラフの黒い瞳はそれを逃さない。


「殿下、深呼吸を。心拍が上がっています」

「測るな」

「この地の空気はちょっと薄気味悪い色がついていますが殿下にぴったりですので」

「ええいうるさい」

「さ、襟元を直しますね……開けますよ」


魔王の身なりを整え、お喋りな口元に笑みを浮かべたまま、彼の従者は扉を開ける。


霞の中に、以前よりやつれた聖女が馬車から降り立った。

少ない荷物を抱えたまま、不安を隠しきれない彼女が近づいてくる。それでも、その瞳はかつてと同じように真っ直ぐで、少し寂しげで、誰かを救うことばかりを考えているようだ。


そしてその薄い唇が何を語るのか…そう思っていたが、彼女は静かに頭を垂れた。


「これまでの無礼を……お許しください」


その声はかすかに震えていた。

魔王は言葉を失う。久々に再会した彼女が、自分に頭を下げている。その現実に、脳が追いつかなかった。


沈黙の中、セラフだけがいつもの調子で耳元でささやく。


「これで安全圏から危険地帯へ一歩踏み出しました、良かったですね陛下」


セラフの声の端には、かすかな笑みが混じっていた。

魔王の胸中を少しでも軽くしようとしているのか、それとも純粋に面白がっているのか、判断がつかない。

魔王は一度だけ深く息を吐き、聖女に向き直る。


「……顔を上げてくれ」


彼女が顔を上げると、ほんの一瞬、目が合う。

胸の奥が痛いほどに跳ねた。しかし彼はすぐに、冷静な声を出す。


「ここでは落ち着かないだろう。……誰か、祭壇まで案内を頼む」


扉の外で待機していた使用人が静かに頭を下げ、聖女を導いていく。その背中を見送る魔王の指先はきつく握られ、横でセラフが小さくつぶやいた。


「彼女、加護が弱くなっているようですね。加護が弱まる、心が弱まるで付け込むには最善の様子です殿下」

「詐欺師のようなことを言うな」

「ここで手籠めにしてしまうと後に彼女が回復したら一発アウトです、くれぐれも浅慮な行動はなさぬように」

「やめろ聞こえたらどうするんだ!」


聖女の足音が遠ざかると、空気が一瞬だけ緩む。

魔王は深く息を吐き、手で額を押さえた。


「……落ち着け。落ち着け俺」

「落ち着けてませんね」

「うるさい」


セラフは、すこし口元をゆるめる。


「殿下。彼女に対して絶対にしてはならないことを確認します」

「……ああ」

「まず、聖女であることを強調しない、使命を口にするのも禁止です。時間外労働なので利用するようなことも駄目です。

次に、手を伸ばさないこと。たとえ頬が濡れていても、ハンカチで拭いてはいけません。渡すのはまあギリオッケー。

それから性欲を押し付けたり…睨まないで下さい。あとそう、妻帯者のような発言も避けてください」

「お前、俺を何だと思っているんだ?」

「落ち着いてください、殿下。冗談です」


魔王は呆れたように天を仰ぐ。


「セラフ、俺は怖い」

「大丈夫です。私がついています」

「お前は神殿には入れないだろうが」

「殿下が蛙になったらキスして差し上げますね」

「お前じゃ荷が重くてたぶん戻らないだろうな」


ふと、地下から柔らかい光が滲む。

聖女の祈りか、それとも――地の神の応えか。

魔王の心中は複雑で全てを投げ出して逃げ出したかった。




結論から言えば、聖女は地の神の声が聞けなかったようだ。

酷く落ち込む彼女を前に沈黙しか生まれず、タイミング良く地の神から呼び出しがあった魔王は、渡りに船だと地下へ行って後悔した。


“聖女ちゃん、私の声が届かないの…。だからちょっと触れてみて”

そんな事を言われて魔王はとんでもなく動揺した。セラフに触ることはタブーであると散々言い聞かされたのもある、そして彼女に触れられるかもしれないという待ち望み過ぎた淡い希望。

今しかない、必ずやれと言って地の神は消えた。彼女がヒトに干渉できる時間は1日のうちのほんの僅かだ。


頭を抱え神殿を出ると、聖女は扉のすぐ傍で待っていた。

事の顛末を伝えると、階段上から覗き込んでいるセラフはニヤリと口角を上げ、驚き狼狽える聖女に向かい言い放ったのだ。


「殿下の意思ではありません、これは地の神のお告げによる義務ですので、聖女殿、心配はありません。義務ですので。どうぞ殿下をよろしくお願いします」




そしてその神殿にだけは入れないセラフは、まるで猫がご主人を見送る時のような顔で見下ろしている。そう、彼は忠誠心の高い犬ではない。飄々としていて何かイレギュラーを待っている…そんな顔だ。いや、薄布で覆われている顔は見えない、そう読み取れるだけだが。


「殿下……落ち着いてください。義務ですから」

「……言うな」

「義務ですので」

「言うな!」


そんな調子のセラフを残し、神殿内の祭壇の前で向き合う。魔王は表情をぐるぐるさせていだが、観念したように聖女の前に手を差し出す。

彼女がそっと手を差し出そうとした瞬間、彼は思わず口を挟んだ。


「……何が起きるかは分からない。利き手は、やめておいたほうがいい」


聖女は驚いたように目を瞬かせ、次にはふっと安心したように目を細めて小さく頷く。

そして逆の手を、そっと魔王の手に重ねる。


その手は冷たく、震えていた。

いや、震えていたのは彼女だけではない。魔王の心臓も、うるさいほど鳴っていた。


どちらともなく目を閉じると、闇の中に柔らかな気配が満ちてくる。温かな春を思わせる、地の神の気配。


重なった手が、ゆっくりと温度を帯びていく。地の神が、それはそれは優しく、慈しみながら手を撫でている様がありありと浮かんだ。

聖女が小さく息を呑む。そして、涙が、ひと粒こぼれた。


「こんなにも……あたたかい……」


小さくこぼれた声に魔王の心臓が跳ね、慌てて手を引いてしまう。彼女の手は少し宙を彷徨い、そしてそっと胸の前で固く握られた。

膝を折り、祈る姿勢で震える頼りなげな肩。


その瞬間、地の神の声が柔らかく響き、誰かが寄り添うような温もりが背中に伝わる。


「ありがとう、親愛なる魔王さま」

「……いえ、それより俺はどうすれば」

「うーんと、押し倒す? 特別に豊穣の祝福も授けちゃう?」

「なぜそうなる!!」

「…懐かしくて、切ないわ……あのひとに会いたい。……ああ、聖女ちゃん。わたしのベイビーちゃん…この愛しい子をよろしくね」

「待っ……」


地の神の気配は忽ち消えた。

いつの間にか背後に、祭壇に置いておいた花冠が落ちている。

魔王はそれを拾い上げ、そっと聖女の隣に置いた。

そして、静かに神殿の扉を閉める。

いつもは階段すら降りてこないセラフがすぐ傍で腕を組んで待っていた。


「殿下、何もせずに出てきたのは大変よろしい判断でした。素晴らしいです。死を回避できたと言えるでしょう」

「俺はいつ死ぬつもりで神殿に入ったんだ」

「殿下が動揺のあまり、何かやらかす可能性があったので…」

「…やらかしてない、たぶん」

「邪な思いが私にも一瞬伝わってきました、だから褒めています」

「あれは神が…!」

「冗談です、殿下の表情から推測したまでです」


魔王の力が抜け、壁に寄りかかる。

セラフは淡々と言葉を続けた。


「では、これからが本番です。聖女様は感情が大きく揺れています。優しさ八割、距離感二割、そして“触れない”を徹底でお願いします」

「さっき触れと言ったのは地の神だ」

「今回は特例です。二度目は蛙化確率が跳ね上がりますので」

「……確率確率とお前はまったく…」

「殿下の命に関わる統計ですので」


魔王は深いため息をつき、神殿を振り返った。

扉の向こう、祈り続ける彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

彼女に触れた温度が、まだ指先に残っていた。


「もう一度彼女の禁忌をお伝えしますか?」

「やめてくれ……どうしてこんな面倒な女に惚れたのだ、俺は」


拗らせに拗らせた彼女への想いは最早執着と呼んでも差し支えない程に育った。そんな自覚があるからこそ、魔王は自分に嫌気が差すのだ。


「端的に言えば、惚れる理由なんていつも理屈の外側にあるからでしょう」

「理屈屋のお前がよく言う」

「だからこそ、殿下が一番良くお分かりのはず」


魔王はセラフを遮り、手をちらりと見て握りしめる。

地の神の温度、そしてそれ以上に、聖女の震え冷えた指先の、彼女の懐かしい肌の質感だった。








翌朝。

馬車は領地境界へ向かい、乾いた道を軋ませながら進んでゆく。

魔王は、聖女の乗る馬車とは別の馬車に揺られながら、落ち着かない様子で窓の外を見遣る。


「殿下、申し上げてもよろしいですか」

「……嫌な予感しかしないが、言え」


その向かいでセラフは、始発から終点まで喋るつもりの顔で座っていた。

現に境界まであと僅か、セラフは今まで喋りに喋り倒している。


「同じ馬車に乗っていれば、必然的に聖女殿と会話ができたはずなんですが。どうして乗らなかったんです?ヘタレました?」

「ヘタレと言うな!帰りはどうするんだ帰りは!」

「てっきり聖女殿を返さないつもりかと」

「返す!当たり前だろう!!お前絶対楽しんでるだろ!!」

「はい、かなり」


昨日、地の神に触れた聖女がその想いを知り、何としてでも天の神の元へ行くと言い出したのが事の顛末。

再会した彼女の加護は元々弱々しく、地の神に触れたことにより更に脆くなっていた。

天の神の加護がなければこの地の気質に長くは耐えられない、けれども疲労困憊である彼女を夜中に境界まで連れ出す訳にも行かず…そうして朝を迎えると同時に魔王城を発ったのだ。


「ところで、殿下のご希望どおり、彼女が知りたいと望んだことは詳しく…全てお話ししました。

この地の民が迫害された人間の子孫であることや、身体的変化が生じた結果魔族と呼ばれるようになったこと…」


魔王は窓の外を眺めたまま小さく頷く。

昨夜聖女は別棟に案内したが、魔王は殆ど眠れなかった。思春期でもあるまい、たかが想い人に触れただけ…そう思えば思う程、自分自身を苦しめ悶えた。

そんな彼の心中を知ってか知らでかセラフは続ける。


「そして魔王なんて本当はいないという事も蛇足でお伝えしました。あちら側の人々が勝手に、魔族は邪神を崇める恐ろしい種族と決めつけ、さらに殿下のような……」

「ような、なんだ」

「“邪悪な風貌の指導者”が現れたことで、魔王と呼び始めたこととか」

「邪悪というな!! 俺は善良だ!!」

「“善良な魔王”……良い語感ですね。民も代々の指導者もが面白がって、そのまま呼び名が定着したのですから。きっと聖女殿も腑に落ちたと思いますよ」


魔王は深く息を吐き、座席に沈み込んだ。


「魔王城が城と呼ぶにはやや小ぶりであることや、魔王と呼ばれる割に民との距離が妙に近い理由とか、慎ましい生活をなさっていることとか」

「……俺、威厳ないな」

「大丈夫です殿下。“親しみやすい魔王”というジャンルは高需要ですので」

「そんな需要いらん……」

「そもそも威厳なんてもの望んでいないでしょうに」


馬車は境界へ向かって進む。

魔王は胸のざわつきを無理やり押さえ込み、何度目かわからない深呼吸を繰り返した。

聖女と同じ馬車に乗らなくて正解だった。いや違うか、いやでも。

横でセラフが、薄布の奥でニヤリと笑った気がする。


「お二人の立場はとても似ているのですよ…さあ、殿下。境界に着きます。心の準備は――できていませんね、案の定」

「お前というやつは全く!」


馬車を降り、既に目的地へと向かった聖女の後を追う。

互いの領地の境目に位置するこの場所は、境界と呼ぶにあまりにも相応しい。空も大地も繋がっているはずなのに、まるで全く別の世界のような隔たりがあることを言わずとも知らしめる。


魔王とセラフは歩を進めた。

大理石と黒曜石が交互に敷かれた円形の石畳の上、石碑と、古い祈りの壇がぽつんと建っている。

地の神と天の神が、互いに最も近づいていた時代に置かれたものらしい。

石畳に踏み込んだ途端、それまでの空気がまるで嘘のように変わった。

風が止み、音が消え、色が、ほんのわずかに褪せる。


「殿下、聖女様から5歩圏内に近づかないでください。心拍が上がると蛙化誘発率も上がります」

「もうこれ以上無いくらい動悸が苦しいのだが」

「なかなか素直ですね」


光に向かって祈る、聖女。そのローブが静かに仄かに光を携える様はとても神々しいものだった。


この場所で彼女に会えるのは年に一度、人間と魔族がが再び調和し人の世に平安が続くことを祈る…という建前のもとに行われる、共和国建国の象徴儀式だった。

実際は聖女と魔王が共に存在することを民衆に見せつけるための、くだらない政治演出。

聖女側にとっては「魔王が神殿の前で頭を下げる」姿を見せ、信徒の信仰を固める演出。魔王側にとっては「共和国が自分たちを必要としている」アピールであり、経済交渉の重要な口実。


「神は…応えると思うか?」

「さあ、こればかりは予測不能ですね」


聖女は静かに手を合わせ続けた。

薄暗い空から光が一筋差し込み、白灰の粒子が静かに漂っている。

あの空の向こうに天の神はいるのだろうか。


「神よ……どうして……」


それまで微動だにしなかった聖女の肩が小さく揺れ、思い詰めた声が石畳に吸い込まれて行く。


ここがかつて神が人間に初めて神託を降ろした神聖な場所、と言うのは光の神を一神教として奉る神殿派の主張である。

“あの場所はね、あのひとと一緒に人間を眺めるために作った愛の巣の跡よ”

という地の神の言葉を思い出し、魔王はこめかみを押さえる。人間は結局、神をも利用して繁栄する事を目論んできたのだ。


「あなた様の大切な方の想いを、届けたいのに…」


そして代々、彼女たちも利用されてきた。

魔王の胸がつまる。

駆け寄りそうになった瞬間、セラフがひじで止める。


「殿下、まだです。触れると蛙化しますよ」

「……分かっている」


ほんの少し俯き、それでも意を決したように聖女の元へ向かう魔王を横目に、セラフは天を仰ぎ見る。


魔王は俯いたままの聖女の隣で片膝を折り、

“   ”

彼の口からセラフも聞いたことのない名がこぼれ落ちた。


呼ばれた彼女は涙を拭い、ゆっくりと顔を上げる。


「……俺は最初、神にひとつだけ、自分のために願った。……お前はここまで頑張った。自分のために、何か願ったっていいと、思う」


驚いたような彼女の顔は魔王を見据え、そして次にはとても幸せそうに綻ぶ。

驚き、戸惑い、安堵、喜び、そして思慕。その全てを思わせる彼女の表情はとても揺らいでいたが、魔王は目を逸らせなかった。彼の心の内もかなり複雑な事になっているのだが、なんとか表情を崩さまいと堪える。


そして彼女は笑顔を携えたまま再び俯き、光に向かって強く両手を握りしめた。



そして唐突に、塞がれていた空気が動く。

境界全体を、ふわりと撫でるような柔らかい風。

そして風はふたりの間をすり抜け、背後へと流れていく。


「セラフ…?」


“地の神の大切なもの”である彼の周りに小さく、けれども力強い風が吸い込まれるように渦巻く。天から降る光の色を閉じ込めた淡い金髪が忙しなく踊り、表情を隠していた薄布が空へと舞い上がる。

大地を思わせる黒い瞳が、真直に魔王を捉えた。


そして次の瞬間、彼はにこりと、悪戯を企む子どものように笑った。


「さて――あなたたちの願いを叶えてしまいましょうか」


聖女は大きく瞳を見開き、魔王は言葉を失う。

白灰境界に積もっていた塵を舞い上がらせ、そして風は楽しそうな彼のを中心に、四方へと吹き飛んでいった。広く、広く、天へ、地へ、世界へ。


魔王は体制を崩した聖女の背を支え、かつて彼の領地を深く包み込んでいた靄が散っていく様を、固唾を飲んでただただ見守った。

そして境界を境として差し込まなかった光が、大地を輝かせる。


「……これは、地の神の……?」


聖女が震える声でつぶやく。

反対に彼女のいた領地は明る過ぎる光が、とてもとても薄くなった靄によって少しだけ遮られたようだった。


「地の神による過剰な愛ですよ。人間の活性剤ですかね」

「……まあ、ドーピング剤だからな。これだけ薄ければ影響もそんなに無いだろう」


聖女は唖然とし、そして気付く。

今まで聖女を聖女たらしめていた加護は霧散し、貫くほどに眩しかった天からの光は弱まった。代わりに柔らかく温かな陽射しが、彼女の髪を、肌を淡く煌めかせる。

優しい掌の温度が背に伝わるのを感じ、それでも彼女は気づいていない振りをしてそっと隣を見上げた。

初めて光の下で見た彼の艷やかな黒髪も、健康的な浅黒い肌も、彼女と同じように煌めく。


全ての地には同じように照らされ、そして地の神の祝福が覆ったようだった。


「……世界に愛が、満ちたのですね」


魔王は思い出したように慌てて手を離したが、決心したようにグッと一度身体に力を込め、再び聖女の背を支え、そしてもう片手を彼女の前に差し出す。


聖女はその手を取り、促されるようにゆっくりと立ち上がる。


かつて彼女達が瘴気と呼び拒んできた靄は、もう殆ど目視出来ない程に薄い。

彼女はゆっくりと呼吸を繰り返す。

地下で触れたあの優しい神の慈しみが、身体を満たしながら労ってくれているようだった。

例えそれが錯覚であったとしても、彼女は確かに、地の神を愛しく思う。


コホン、というセラフの咳払いに魔王は反射的に聖女から手を離し、慌てて後ろ手を組む。


「父と母は、ようやく痴話喧嘩を終え、寄り添い眠りについたようです……全く困ったものですね」


セラフはどこか他人事のように、それでもほんの少しの敬愛を込めて天と地を見遣る。


「父と母か…何故地上に留まれていたんだ?」


魔王はセラフの瞳が地の神を思わせた時から、薄々気付いてはいたが、それでも確証はなかった。

天の神からの由来があるなら、四六時中年中無休でセラフが自分の傍にはいられないと思っていた。それ程までにヒトは大地に近しい。


「私、1日の半分は1ミリ浮いていたではありませんか」

「気付く訳ないだろ!」


驚愕する魔王からとぼけたように視線を外し、そして恭しく、イタズラに彼は言った。


「そして魔王と聖女の願いにより私の力が戻りました。

 おめでとうございます、私が神です」


八重歯が覗く口を閉める事も出来ない程に、彼はもう驚き続けて目眩がしていた。

片手で顔を覆い、項垂れる。


「…何を願った?」

「……あなたの願いが、叶うようにと……」

「!!」


セラフが悪びれもせず笑う。


「殿下から大切なひとを奪った世界、これにてしっかりぶち壊してやりました。

さあ殿下、世界は今から大混乱に陥ります、どうしましょうか」


天と地の神は眠りにつき、ふたりの似たような使命もなくなった。それはそれで寂しいような気がする彼は自分の気持ちに少し驚く。

もしかすると彼女は喪失感に苛まれているのでは…そう考えると背中が少しヒンヤリとした。


「…天命を奪った俺を憎むか?」

「……少しだけ。でもいいの、あなたとこうして話せるようになれたから」


それに、と彼女は続ける。


「新しい神の元、ぶっ壊れた世界を再び建て直しましょう…一緒に、私と。あなたの様な優しい世界に…いいでしょうか?」


元聖女は頬を染め、元魔王は頭を抱え、セラフは微笑む。

世界は軽やかに、皮肉に、そして自由に、新しい神を得た。




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