レトロニムの恋~君が教えてくれた、俺の未来~
これは、クールで恋を知らない高校生の僕と、少し大人びたカフェのマスター、君との物語。出会いは、雨宿りのカフェ。そこから始まった僕たちの恋は、たくさんの壁にぶつかりながら、少しずつ形を変えていった。
家では集中できない一宮零桜は、勉強場所を探して街をさまよっていた。その時、偶然見つけたのが、静かで落ち着いたカフェだ。扉を開けると、そこには優雅にコーヒーを淹れる20代後半の女性、畠中琴葉がいた。普段あまり甘いものを口にしない零桜に、琴葉は「勉強のお供にどうぞ」と、温かい飲み物と小さなクッキーをそっと差し出した。零桜は最初は戸惑いながらも、その優しさに触れ、カフェは彼の日常の一部となっていった。いつしか琴葉と短い会話を交わすことが、零桜にとって特別な時間になっていく。
ある日の帰り道、突然の激しい雨に降られる。傘を持っていなかった零桜は、慌てて雨宿りできる場所を探し、反射的にいつものカフェに駆け込んだ。ずぶ濡れでカフェに入ってきた零桜を見て、琴葉は驚きながらも、温かいタオルとホットミルクを用意した。この夜、二人きりの静かなカフェで、零桜は初めて琴葉の心の奥にある寂しさや、日頃の苦労を垣間見ることになる。この出来事がきっかけで、零桜は琴葉に対して、単なる「お気に入りのカフェのマスター」以上の感情を抱き始めた。
いつものように放課後、カフェで過ごす零桜。勉強に集中しているふりをしながらも、彼の視線はいつも琴葉に注がれていた。その日、カフェに見慣れない男性がやってくる。彼は琴葉を見るなり、弾けるような笑顔で「久しぶり、琴葉!」と声をかけた。零桜は、琴葉がこんなに楽しそうに笑うのを見たことがなかった。その時初めて、零桜は自分の胸を締め付ける感情が、**「嫉妬」であり、琴葉への特別な「恋心」**なのだと知る。
例の男性がカフェから帰った後、零桜は意を決してカウンターに向かった。「あの…さっきの人、誰なんですか?」彼の唐突な質問に、琴葉は少し驚いた表情をした。「ああ、彼ね。昔からのお客さんで、大学の先輩なの」琴葉の答えに、零桜の胸のざわつきは少しだけ落ち着いた。しかし、それと同時に、自分でも知らなかった独占欲が湧いてくるのを感じた。
閉店時間になり、最後の客として零桜がカフェに残っていた。琴葉がテーブルを拭く中、零桜はいつものように立ち去ることができなかった。
「琴葉さん、好きです」
ぽつりと、零桜の口からこぼれた言葉に、琴葉は驚きと困惑を浮かべた。
「零桜くん…何を言っているの?」
震える声で尋ねる彼女に、零桜はまっすぐな瞳で言った。
「本気です。琴葉さんが好きです」
その真剣さに、琴葉は息を呑んだ。
「零桜くん、ごめんなさい。でも…私は、カフェのマスターで、あなたはまだ高校生よ。この関係は、よくないわ。だから…少し、距離を置きましょう」
琴葉はそう言うと、零桜から視線を外し、床に落ちた布巾を拾い上げた。
零桜が去った後、琴葉は一人、店の掃除を続けた。彼の言葉は、琴葉の心を深く揺さぶった。でも、ダメ。絶対にダメだ。私は大人で、彼はまだ高校生。そう自分に言い聞かせながらも、彼の言葉が頭から離れない。このまま彼を遠ざけるのは、もう限界だった。自分の気持ちに決着をつけるため、もう一度彼と向き合おうと決意したある日、琴葉はバス停で零桜を見かける。彼の隣には、彼と同い年くらいの女の子が立っていた。そして、零桜がその女の子に見せた、心からの楽しそうな笑顔を見て、琴葉は息をのんだ。自分には決して見せてくれなかった「零桜の本当の笑顔」。その胸を締め付ける感情が「嫉妬」だと自覚した瞬間、琴葉は零桜への自分の気持ちが、単なる「マスターと客」という枠を超えた、「恋」だったのだと初めて認めた。
雨の中、バスに乗り損ねた琴葉は、ただひたすらに走り出した。しばらくして、見慣れた後ろ姿を路地裏に見つける。零桜だった。しかし、彼の隣にはもう、あの女の子はいなかった。
「零桜くん!」
琴葉が彼の名を呼ぶと、振り返った零桜の顔は、驚きと、ほんの少しの安堵に満ちていた。
「…琴葉さん」
震える声で零桜が尋ねる。しかし、琴葉は何も答えず、ただ零桜をじっと見つめていた。そして、言葉よりも先に、彼女の口から溢れ出したのは、心の奥にしまっていた後悔と、彼への想いだった。
「ごめんなさい…零桜を、突き放してしまって」
琴葉の言葉を遮るように、零桜が口を開いた。
「あの女の子…美術部の部長なんだ。俺が、あんなふうに笑っていたのは…ただ、琴葉さんが絵を見てくれた時のことを、思い出していただけです」
その言葉に、琴葉の瞳から涙が溢れ出した。
ある日の閉店後、琴葉は零桜と向かい合って座っていた。零桜の才能が芽吹き、彼の絵が注目されるにつれ、二人の関係は周囲の知るところとなっていった。琴葉は、零桜の未来を案じ、彼から身を引くことを決意する。
「あなたの才能は、もっと大きな世界で輝くべきもの。私があなたの邪魔をしてしまうかもしれない」
琴葉の言葉に、零桜は静かに立ち上がった。
「邪魔なんかじゃない」
彼の声は、これまでにないほど強く、そして怒りに満ちていた。
「俺は、琴葉さんがいたから、絵を描きたいって思えたんだ。俺の才能は、琴葉さんが引き出してくれたものだ。なのになぜ、それが琴葉さんを遠ざける理由になるんですか?」
零桜の必死な反発に、琴葉は何も言葉を返すことができなかった。
零桜の強い言葉に、琴葉の胸はきゅんと締め付けられた。彼の瞳には、怒りと同時に、彼女を失いたくないという切実な願いが宿っていた。零桜は、怒りの表情を和らげると、そっと琴葉の手を取った。
「俺は、琴葉さんがいない未来なんていらない。俺と琴葉さん、二人で歩んでいく未来なんだ。……もう、離さないでくれ」
クールで無愛想な彼が、こんなにも不器用で、ひたむきに想いを伝えてくれる。琴葉は、零桜の純粋な愛に触れ、もう自分の気持ちに嘘をつくことはできないと悟った。
しかし、二人の関係は、零桜の両親という新たな障害に直面する。息子が年上の女性と付き合っていると知った両親は激しく動揺し、零桜に別れるよう強く迫った。琴葉は、零桜の未来のためにも、そして自分たちの愛のためにも、この試練に立ち向かうことを決意する。彼女は、零桜の家を訪ね、両親を前に深々と頭を下げた。
「一宮零桜さんとお付き合いさせていただいております、畠中琴葉と申します。どうか、少しだけお時間をいただけますでしょうか」
琴葉は、零桜がどれほど絵に情熱を傾けているか、そして、彼がどれほど純粋で優しい心を持っているかを、一つ一つ丁寧に語った。彼女の真剣な想いは、やがて両親の心を動かした。
「わかった。お前たちの気持ちは、よくわかった。それでも…零桜がこれほどまでに想いを寄せる相手なのだから、一度は信じてみよう」
両親は、二人の関係を完全に認めたわけではないけれど、零桜の真剣な気持ちと、琴葉の覚悟を受け入れたのだった。
零桜が美術大学進学のため東京へ引っ越すという決断は、琴葉の心に複雑な影を落とした。彼の夢を応援したい気持ちと、遠く離れてしまう寂しさ、そして見知らぬ場所で彼が誰かと出会ってしまうのではないかという不安が、彼女の胸に渦巻いた。零桜もまた、琴葉を置いて東京へ行くことに葛藤を抱えていた。
「離れていても、俺の気持ちは変わらないから」
零桜は出発の日、琴葉の手を強く握り、そう誓った。
東京での新生活が始まり、二人の関係は遠距離恋愛という新たな試練に直面する。会えるのは月に数回。そんな中、零桜の周りに、新たな出会いがあった。美術大学のクラスメイトである朝比奈 咲良だ。咲良と楽しそうに笑い合う零桜の写真が、共通の友人のSNSにアップされているのを琴葉が見たとき、胸を締め付けられるような嫉妬心が再び込み上げた。
ある日、琴葉は決意を固め、零桜に電話をかけた。
「零桜くん、別れましょう」
その言葉に、零桜は絶句した。しかし、琴葉は自分の気持ちに嘘をつき、冷たい声で言葉を続けた。
「零桜くんには、もっとふさわしい人がいるわ。あなたの未来のためにも、もう終わりにしましょう」
琴葉はそう言うと、零桜の返事を待たず、一方的に電話を切ってしまった。電話を切った後、琴葉はその場に崩れ落ちた。零桜の必死な声が、まだ耳に残っている。
「ごめんなさい…零桜くん」
琴葉の瞳から、止めどなく涙が溢れ出した。彼の未来のためを思っての決断。そう、自分に言い聞かせてはいるけれど、心は引き裂かれるような痛みでいっぱいだった。
零桜は、琴葉からの電話が切れた瞬間、世界が色を失ったようだった。
「俺の未来のため?」
その言葉が、零桜の心を深くえぐった。琴葉がいなければ、彼の才能も、夢も、何の意味もなさない。彼は迷うことなく、東京での生活を整理し始めた。教授には正直に話した。
「今、一番大切な人がいる場所で、俺は絵を描きたいんです」と。
そして、数週間後、零桜は琴葉のカフェの前に立っていた。
「…零桜くん?」
琴葉が恐る恐る彼の名を呼ぶと、振り返った零桜の目は真っ赤だった。
「琴葉さんがいない東京に、俺がいる意味なんてない!」
零桜はそう叫ぶと、琴葉を強く抱きしめた。その腕は震えていた。
「俺の未来は、琴葉さんなんだ。俺の絵は、琴葉さんに見てほしくて描いているんだ。俺は、ずっと琴葉さんを愛している」
零桜の必死な言葉と、彼の腕の中で震える琴葉。二人の心が再び一つになった瞬間だった。
それからさらに月日が流れ、二人は結婚した。琴葉は相変わらずカフェのマスターとして、零桜はプロの画家として、それぞれの道を歩み続けている。零桜の描く絵は、見る人の心を震わせるような、温かく、力強いものばかりだった。彼の絵の中には、いつもどこかに琴葉の姿や、二人の思い出のカフェの風景が描かれている。
ある日の閉店後、いつものように零桜がカフェにいた。彼は、琴葉が片付けを終えるのを静かに待っている。しかし、今日の零桜は、どこか落ち着かない様子だった。
「琴葉さん、座って」
零桜が珍しく緊張した声で言うので、琴葉は彼の向かいの席に座った。零桜は、深呼吸を一つすると、テーブルの上に小さなスケッチブックを置いた。そこには、二人の歩んできた軌跡が、零桜の繊細な筆致で描かれていた。最後のページには、
「俺の描きたい未来は、いつだって、琴葉さんの隣にある」と書かれていた。
琴葉の目から、温かいものが溢れ出した。零桜は、彼女の涙をそっと指で拭うと、静かに立ち上がり、琴葉の前にひざまずいた。そして、小さな箱を差し出す。「琴葉さん。俺は、ずっとあなたと歩んでいきたい。俺の妻になってください」
零桜の瞳は、深く、揺るぎない愛情に満ちていた。琴葉は、涙で滲む視界の中、ただ何度も頷くことしかできなかった。
エピローグ:二人の未来
零桜のプロポーズを受け入れた畠中琴葉の手には、輝かしい指輪がはめられていた。カフェの明かりが二人の未来を祝福するように優しく灯り、二人は静かに、しかし確かな幸せを噛みしめていた。
それからさらに月日が流れ、二人は結婚した。琴葉は相変わらずカフェのマスターとして、零桜はプロの画家として、それぞれの道を歩み続けている。零桜の描く絵は、見る人の心を震わせるような、温かく、力強いものばかりだった。彼の絵の中には、いつもどこかに琴葉の姿や、二人の思い出のカフェの風景が描かれている。
ある日の午後、カフェの扉が軽やかな音を立てて開いた。そこには、数年前に初めてこの店を訪れた頃の、どこか冷めていた零桜の姿はない。彼の隣には、彼の作品のファンであるという、一人の若い女性が立っていた。
「はじめまして。零桜先生の作品のファンです。先生の絵は、いつもとても温かくて、見ていて幸せな気持ちになります」
そう話す女性に、零桜は優しい笑顔を向けた。その笑顔は、かつて琴葉が引き出せなかった、心からの、本物の笑顔だった。
零桜は、彼女にそっと耳打ちした。
「僕の絵が温かいのは、僕が愛する人のことを想いながら描いているからなんだ」
女性は目を丸くして零桜を見つめた。その言葉に、琴葉はカウンターの向こうで、そっと微笑んだ。零桜の愛は、彼が描く絵の中に、そして二人が歩んできた日々のすべての中に、確かに息づいているのだ。