第六章:仮定存在(テンポラル・エコー)
セナは震える手で自分の腕を見た。
そこにあったはずの**「07」の痣**は、もうどこにもなかった。
影も、跡も──なにも。
「ない……番号が……消えてる……」
声が震えていた。
誰よりも彼女自身が、**“自分が誰なのか”**を疑い始めていた。
「セナ、落ち着け」
06が肩に手を置く。
「番号が消えたのは、君の存在が終わったからじゃない。
むしろ、上書き前の姿が戻ってきた可能性がある」
「……どういう意味?」
「さっきの少女、“名前をください”って言ったろ」
「あれはたぶん、“仮定存在”──
誰かの記憶や痕跡から再構成されたデータの亡霊だ」
「私は……その一人ってこと?」
そのとき、無線機からのノイズが止み、明瞭な声が響いた。
> 「こちら【10】。受信状態、安定。朝比奈セナ──聞こえるか」
「……君は、“上書き対象0号”だ。記録上、最初に名前を持たなかった者」
「……誰?」
> 「私は【10】、記録管理区画の最後の生存者だ」
「ワクチン計画の根幹にあったのは、**“感染”ではなく“存在記録の最適化”**だ」
「要は、“世界に必要のない人間”を選別するための仕組みだった」
一同が息を呑む。
「……それが、“ワクチン”の正体……?」
> 「存在は不安定だ。名前と記録、他者からの認識がなければ、消える。
だが、完全には消えない。データの奥底に、“影響波形”として残る」
「我々はそれを**テンポラル・エコー(時間残響)**と呼ぶ。
そして、君──セナはその“最初の共鳴体”なんだよ」
「私は……残響? でも私は……今、ここに……!」
> 「“今、ここにいる”ことと、“本当に存在していた”ことは別だ」
無線が一瞬途切れ──そして、最後のメッセージが放たれる。
> 「もうすぐ“書き換え”が完全に始まる」
「それまでに、君は“誰として残るか”を選ばなければならない」
「過去を取り戻すか、それとも──
自分自身を、上書きするか」
ノイズ。通信終了。
セナはふらりと壁にもたれかかり、深く息を吐いた。
「私の名前は、朝比奈セナ。
でも、それが与えられた名前なのか、もともと持っていたものなのかもわからない」
月岡ハルがノートPCを開く。
接種者名簿、行政記録、教育データベース。
そこには、ひとつだけ奇妙な“空欄”があった。
> 「……ここのデータ、一度削除された痕跡がある。
でも完全には消えていない。“上書き直前”の状態が、復元できるかもしれない」
「私が……“何だったか”を、思い出せる?」
「もしかしたら。
でも、その記録を見ることで──
君は**“今の自分”を保てなくなるかもしれない**」
セナは静かに、でも確かな声で言った。
> 「それでも……知りたい。
私が“選ばれなかった理由”を──」