34 湖でのひと時
「わあぁ! 広いですっ!」
「まさか地下商人の情報が正しいとはな……」
目の前に広がる幻想的な光景に、メロは爛々と目を輝かせる。
玄室の殆どを埋め尽くす、広大な湖と、その周囲に広がる青々とした植物。
ここがダンジョンであるという事を、忘れそうになる清涼な空間。
この場所を教えてくれたのは、客からぼったくることに命を賭ける――地下商人であった。
時間は少しだけ戻る――
***
――ダンジョン生活4日目の昼。
昨日1日がかりで地下生活者の女の治療を施した翌日の朝もまた、休憩室の外には地下商人が控えていた。
俺の姿を見ると、ローブの下に僅かに見える口元で笑顔を作り、俺とメロを手招きするのであった。
そうして地下商人が広げた商品は、着替えや櫛や石鹸などと言った生活用品の数々。
観察眼に優れた地下商人は、俺達が〝金は持っているが訳あってダンジョンの外に出ることは出来ない訳アリコンビ〟であることを見抜いたようで、こうした品の数々を一晩で用意し、俺達に押し売りにきた次第であった。
とはいえ――俺達もダンジョンにおいて最低限文化的な、人間らしい生活を送るには、文明の利器に頼る必要が出てくる訳であり、地下商人の商品提供はありがたいものだった。
「所でメロ様――ダンジョンにも水場があるのはご存じですかな?」
商人は情報さえも商品にして売る。
誰よりも早く迷宮魔災後の、生まれ変わったダンジョンの地図を埋めて冒険者に売りつける地下商人は、現在最もダンジョンの構造に詳しいと言っていいだろう。
そんな地下商人が持ちかけたのは、ダンジョンにある湖の情報提供であった――
「わぁ! ひんやりとしてて気持ちいいです!」
――こうして話は冒頭へと戻る。
以前も言ったがダンジョンには自然界と同じように生態系が存在している。
つまり――魔物も生存には水分が必要という訳であり、そうなるとダンジョンにも水場が存在する訳で。
地下商人からもたらされた情報を頼りに回廊を進むと――その湖はあった。
「おい! あんまり奥まで行くなよ! 足が届かないかもしれないぞ!?」
「大丈夫でーすっ!」
メロは広大な湖を見てテンションが上がり、靴と靴下を脱ぐと――角質とは無縁な柔らかい踵と、焼きたてのパンみたいなふくらはぎを惜しげもなく露出し、湖に足を突っ込んだ。
法衣の裾を持ち上げて、膝の辺りまで水に浸かり、パシャパシャと水を蹴り上げ、楽しそうに飛沫を飛ばしている。
「(こうして見ると――年相応のガキなんだよな)」
俺も湖の縁で腰を落とし、手の平で水を掬う。
透き通っていて異臭もしない。
そのまま飲んでも問題ないくらいに清潔な水だった。
「ロボさんも一緒に入りましょう!」
「俺は後で入る。まずはメロが入れ」
俺達はここに、水遊びをしに来たのではない。
4日分の蓄積した身体の汚れを落とすため、水浴びをしに来たのである。
とはいえ――メロは桃しか食べない生活習慣が所以なのか、着の身着のまま4日生活してもなお、肉体から異臭を放つことはなかった。
むしろ、日に日に桃の香りが強くなっていく程で、決して広くない休憩室の中は、まるで御香でも焚いているかのように、芳醇な桃の香りに包まれる程であった。
体臭まで桃の香り故に、濃くなっても常人のような異臭を放つことはないのだろう。
そうはいってもやんごとなき身分の娘が、4日も身体を洗わない生活を我慢できるはずもなく、地下商人から水場の情報を買わないかと提案された際は、二つ返事で銭を差し出したのであった。
「そんなこと言わず、一緒に入りましょうよ」
メロは湖から一旦出てくると、水で湿った手でコートの裾を引っ張る。
早く全身の桃汗を流したくて溜まらない様子だ。
「年頃の娘が無暗に肌を晒すものではない――湖の真ん中に大きな柱があるだろ? あの裏で身体を清めてこい。俺はここで見張っている」
毎晩メロの身体を見ている癖に、何を紳士ぶっているのだという感じだが――それには桃血病で傷が自然治癒しないメロの身体を検分するという大義名分がある訳で。
メロと共に肌を晒して共に水浴びをする理由にはならない。
「でもでも……この場所、普段は魔物の水場として使われているんですよね? 魔物がきたとき、ロボさんに守ってもらわないと、私死んでしまいます……」
「うぐっ」
メロは上目遣いで俺を見つめる。
「(だからその顔をするのをやめてくれ……)」
打算でやっている小悪魔なのか、天性の人たらしである聖女の血筋による天然なのか、身長差で自ずとそうなってしまうのか――メロに上目遣いで見つめられると、正論さえも覆してしまいそうな、罪悪感に蝕まれる魔力を秘めている。
メロの魔物の脅威から守って欲しいというのもまた、俺と一緒に入りたいという本音を隠すための大義名分だろう。
だが大義名分を盾にしているのは俺も同じ訳であり、メロのワガママに付き合うのは今に始まったことではない訳であり――
「分かったよ」
――と、折れてしまうのもまた、いつもの流れであった。
数百年前――まだルナルシア月教が誰にも知られていない新興宗教だった時代も、メロの祖先は美貌と甘え上手を駆使しては、周囲の人間を勾引かして信者を増やしていったのだろうか……?
「えへへっ♪」
メロははにかみながら、法衣を脱いで下着姿になる。
俺もコートに手をかけ、脱衣を始める。
「下着は脱ぐなよ」
「え? なんでですか?」
「湯浴みじゃないんだ。川の水浴びと同じだ。身体を清めるためとはいえ、ここはダンジョンだ。最低限の布は纏っておけ」
湖には衣類の洗濯も目的の1つとして組み込まれている。
下着の汚れも水で流されて一石二鳥であろう。
新品の下着と身体を拭くバスタオルも地下商人から購入したので、水浴び後の心配もない。
ちなみに、メロが小聖女であることまでは見抜けていないようだが、それでも高貴な身分であることは、身に着けている装飾品や立ち振る舞いから察したようで、地下商人が用意した下着やタオルは結構な上布だった。
「ひゃあっ! 全身浸かるとちょっと冷たいです」
俺とメロは下着姿になり、湖の中に入る。
メロはまるで、初めて川遊びをする子犬のようにはしゃいでいた。
年頃の娘とは言え、10歳はまだまだガキか――と、そんなメロを微笑ましく見守る。
「一番深い所でも水位はメロの胸辺りか。これなら問題なさそうだな」
俺も4日振りの水浴びで、汗や垢が流れる心地よさを感じながら、丁寧に全身を擦っていく。
メロの様子を伺えば――仰向けで水面に浮かび、手足を器用に伸ばしたり曲げたりして、推進力を得ては、湖をすいすいと横断していた。
メロの作る水流に煽られる桃色の長髪はまるで未知の海藻のようで、その様がなんだか可笑しく感じてしまい、笑みか零れてしまう。
「あたっ!? えへへっ……ぶつかっちゃいました///」
可愛く言えばクラゲ――的確に言えば下から見たカエル――のように水面を漂っていたメロは、仰向け状態が故に正面が見えず、形のいい頭部が俺の腹部と衝突した。
「はしゃぎ過ぎた」
お返しにと、水で掻きあげられ露出した額を指差しで小突く。
「いつも入ってるお風呂の倍くらいの広さなので、ついはしゃいじゃいました/// お風呂じゃないので、泳いでも怒られませんし」
「(この湖の半分の広さでも十分過ぎる程広いんだよな……)」
この半分の量の水と、それが湯になるまで熱するのに必要な膨大なエネルギーが、国民の血税から賄われていると思うと――愛国心が揺らいでしまいそうになるので、これ以上考えないようにする。
「(いや――元々愛国心なんざサラサラないのだけども……)」
十分に身体の汚れを落とした後、湖から出る。
地下商人から購入した新品のバスタオルで、メロの全身を拭いてやる――例の如くバスタオルだけ寄越したら、「なんで拭いてくれないんですか?」とナチュラル御嬢様仕草をされたので仕方なく。
水滴を丁寧にふき取った末、上布の下着――チュニックとドロワーズパンツを着せ――俺もまた新品のパンツとシャツを纏う(こっちは低品質の麻製である)。
「泳いだらお腹空いちゃいました」
「んじゃ飯にするか」
「なんだかピクニックみたいですねっ!」
入浴――メロにとっては遊泳――の後、俺とメロは湖の縁に座り、足首を水に浸からせながら食事を摂る。
地下商人は食器の類いも持ち込んでいたのだが、メロが限りあるお金は大切にしないといけないので――とのたまい、例の如く俺の手が皿替わりである。
メロが食器を買い渋ったのは、節約のためではなく、親鳥が雛にする給餌のような、行儀がいいとは到底呼べないこの食事スタイルを、メロが気に入っているからなのは明白なのだが、悲しいかな――我らの活動資金はメロの装飾品を売ったお金で賄われているため、奴隷の我が身は大人しくメロの裁定に従うしかないのである。
「あむっ! 外で食べる桃はいつもより美味しいですねっ!」
「広義に解釈すればダンジョンが四方が石で囲まれた〝中〟なんだけどな……」
とはいえ広大な湖に、その畔に茂る青々とした植物という光景は――レンガで囲まれた城塞都市の内側では決してお目にかかれないものであり、視覚情報が味覚に好意的な影響を与えるメロの言い分も、間違ってはいないのだろう。
ちなみに、切り落とした桃の皮は水筒に入れ、その上に湖の水を注いでいる。
メロ曰――桃の皮に含まれる成分が水と混ざり、爽やかな味わいになるのだという。
試しに飲んでみた次第だが――幼少より味の濃いもの(劇毒)ばかり飲んでバカ舌になってしまった俺では、水に含まれる繊細な桃の風味を感じ取ることが出来ず、普通の水との違いが分からなかったのだが……。
「へ、へくちっ!」
「いい加減身体が冷えてきただろ――そろそろ湖から出て法衣を着た方がいい」
桃を食べ終えた後も、湖に足首を浸からせながら、他愛もない雑談を続けていると――メロは小さくくしゃみをする。
メロの剥き出しの二の腕を掴むと、普段体温の高いメロからすればかなり冷たくなっている。
水遊びでテンションが上がり、体温が低下していることに気付いていなかったらしい。
ガキはそうやって風邪を引くのだろうな――と、メロが本当に風邪を引いてしまわないよう、法衣を取りに湖から出た――その瞬間。
――ザリッ。ザリッ。ザリッ。
「っ!」
複数の足音が、俺達のいる玄室へ近づいてくるのを察知する。
「メロっ!」
「ひゃっ!? ロボさん!?」
即座に羽織っていたコートを脱ぎ、未だチュニックとドロワーズパンツ姿のあられもない姿のメロの肩に被せる。
その後――足音の鳴る方向を向き、メロを俺の背後に庇い――湖のへ乱入者を待ち受けるのであった。
足音の正体は、果たして――