第35話
陛下は話している間、何度も咳き込んだ。
そしてその間に何度も私に『逃げろニコル。お前は私の犠牲になる必要はない。王宮には隠し通路がある。それを使いなさい』と言った。
隠し通路の存在は知っている。
数回そこを通って、食堂を手伝いに行った。陛下に教えられたなくても私は逃げることが出来るのかもしれない。しかし……
「陛下を置いては行けません。とにかく、早く体を治す事を考えましょう」
「私はもう手遅れだ。お前だけでも逃げろ」
「無理です!逃げるなら陛下も一緒に……!」
「王が逃げれば……今までの国の根幹が揺らぐ。何もせずに明け渡す訳にはいかないんだ」
「それが……処刑でもですか?」
「そうだ。それでも逃げるわけにはいかない」
「多くの者の血が流れるのに……ですか?」
私はいつの間にか涙を流していた。陛下は私のその言葉がとても痛かったのだろう……苦しそうな顔をして、
「それでも……だ」
と私の目を見て言った。
「陛下はご病気です。今は戦についての決定を下せる状態にありません。日を改めて下さい」
翌日。宰相を始めとした議会の貴族数名が陛下の寝室を訪れた。
「妃陛下……。もうこれは議会で決定した事なのです。馬鹿な国民のせいで、私達貴族が飢える様な事があっては困りますから。
これについては陛下も了承済みの事。後はここにサインを頂ければ良いだけです。貴女の意見は聞いていない」
宰相は私に紙を突きつけた。こいつが国の混乱を招いた元凶だと、ここで私が叫ぶ事が出来たら、どんなに良いだろう。だが証拠はない。陛下もそう言っていた。
「陛下は了承していない筈です」
私はこの寝室に誰も通さないという覚悟で、皆を睨んでそう言った。
「ほぉ。どうされました?今の今まで、王妃としての仕事を全て放棄し、政にも興味を示さず、贅の限りを尽くした貴女が急に……。
ここ数年、陛下との会話すらなかった貴女が陛下の何が分かるのです?まるで……今の貴女は別人の様だ」
宰相はそう言ってニヤリと笑った。そして私の耳元に顔を近づけると、
「もし別人が王妃の名を語っているのなら……そんな不届き者は今直ぐにここで切り捨てなければなりませんねぇ」
と私だけに聞こえる声でそう言った。
私はその言葉で悟った。……こいつは全てを知っているのだと。
陛下の体調が優れない事が、悪い方向へと向かってしまった。
「どういう事です?!陛下は許可を出していないのに!!」
私は廊下の護衛に詰め寄った。彼はとても困った様に、そして悲しそうに言った。
「すみません……最低限の護衛は付きますが、近衛の半分は……この戦に駆り出されると思います」
「ノアは?ノアは戻って来たの?」
私は無意識にノアの名を口にしていた。
あの日からノアには会っていないが、ノアも近衛だ。もしかしたらその戦に参加するのかもしれない。
反乱軍なのに……陛下を裏切っているのに……そう思うが、心配してしまう私はお人好しなのだろうか?
「明日戻る予定ですが、その足で王国軍と共に戦へとあいつも参加する予定です。きっと……妃陛下の顔を見ずに旅立つ事になるでしょう」
何故か護衛は申し訳なさそうな顔だ。
「そうなの……」
「あいつは……妃陛下を心配していました。自分の留守中にくれぐれも妃陛下を頼むと言い残して休暇を取った。
最近は殆ど休まず妃陛下の護衛を買って出ていました。そのノアが長めの休暇を取ると言い出したのには、きっと深い理由があるのだろうと……私は考えています。
あいつが何を考えているのかは私にはわかりません。でも……妃陛下を想っていた事は確かです」
「何故……それを私に?」
「あいつは……素直じゃないから。
確かに前には妃陛下との仲は良好だとは言い難かったですけど。何故あいつがそんな風に……妃陛下を心配する様になったのかはわかりませんが。だけど、このままお二人が会えなくなるのは……あいつにも不本意だろうと思って……って、こんな事を言える立場ではないですね。陛下にも不敬でした……すみません」
その護衛は私が陛下の伴侶だという事を思い出して、我に返ったかの様に頭を下げて謝罪した。
私は陛下の寝室の扉を細く開いて中をそっと覗いた。
胸が上下しているのが確認出来てホッとする。
あれから陛下は意識が朦朧としている様で、目を開いていてもボーッとしている事が増えた。今は穏やかに眠っている様だ。私はまた静かに扉を閉めた。
あの日から、私はずっと陛下の部屋で寝泊まりしていた。
寝室の隣に簡易の寝床を作って貰った。私に何が出来るのかは分からない。だけど、自分の部屋へと戻る気持ちにはなれなかった。
マギーは逃げ出した。私の面倒などもうみたくないという思いからなのか、この危機的状況をいち早く察して避難したのかはわからないが、私の行動を制限する者はもう居ない……あの宰相以外。
あの時、脅すように私に囁いた宰相に私は沈黙するしかなかった。
しかし、陛下はサインしなかった……いや、出来なかったのだ。手が震えてペンを持てなかったからだ。
だが、この戦を止める事は出来なかったという訳だ。




