熱
「にいさまが世界で一番好き!」
それはなんて、無邪気で甘い言葉だったのだろう。
世界だなんて、そんな大きなもの、ちゃんと知りもしないのに。
実のところ、キースははじめからその言葉を真に受けていたわけではなかった。
一日たてば変わる程度の、気分によるものくらいに思っていたし、すぐに忘れた。アーシェと離れるその日までは。
キースの父、ユーインがライトノア家を訪れたのは、良く晴れた日の午後のことだった。
アーシェが昼寝から目覚めた時には、もう荷造りまで済んでいた。元々キースの持ち込んだ物はそう多くはなかった。
「帰るって……私、聞いてない。聞いてないわ」
今日だというのはキースも前夜知ったばかりだった。ちょっとした予定の変更があったのだ。しかしそれをわざわざアーシェに話すことはしていなかった。
ただ、もう最後だなと思ったので、午前中はいつにも増してじっくりとアーシェの遊びに付き合ったつもりだった。それでくたくたに疲れたアーシェは、普段よりたっぷり昼寝をしていた。
「本当は来週のはずだったけど、ユーインの休みが取れたから。わざわざ迎えに来てくれたのよ」
チェルシーはアーシェの頭を撫でてなだめた。
「やあ、アーシェ。久しぶりだね」
キースの隣に立ったユーインが言った。
アーシェはすっかり片付けられたキースの部屋を見回し、キースの着替えの入った大きな鞄を持ったユーインの従者を見、そして最後に旅装に着替えたキースを見て、みるみる目に涙をあふれさせた。
「そんなのだめ、ぜったいにだめ! にいさまはずっとうちにいるの。そのほうが元気だもの!」
頬を真っ赤にして、アーシェは泣きながら怒っていた。
「こっちの方が空気もいいし、勉強だって私が教えるし。ね、うちにいた方がいいでしょ? にいさま」
キースは何も言えなかった。スティーブンの休暇も終わってしまったし、決まったことはもう変えられないということがはっきりわかっていたからだ。
「伝えるのが遅くなってごめんね、アーシェ。でも、キースのおうちはここじゃないのよ。だから」
アーシェは、転んでもすぐに涙をこらえられる強い子だ。
なのにその日は、悪夢を見た後のようにチェルシーに抱きかかえられても泣き止まなかった。叔母の腕の中から抜け出して、キースをつかまえて離さなかった。
「いやだ、いや、にいさま、いかないで」
こんな小さな体のどこにそんな力があるのかと驚くほど強く縋りつかれて、キースは立っていられずに座り込んだ。膝の上で泣きじゃくるアーシェに、あの時の言葉は、あれは本気だったんだ、と、キースはようやくそう思った。
本当に、自分なんかを一番だと思ってくれたのだ。
「ごめんなさい、お兄様。普段はこんなわがまま言う子じゃないんだけど」
「ずいぶん仲良くしてくれたんだね。ありがとう、アーシェ」
困ったように肩をすくめながら、ユーインは言った。あやそうにも、父はアーシェに近づくこともできないのだ。
どうしたら泣き止んでくれるだろうか。
キースは考えながら、細く柔らかい紫の髪を撫でた。
「アーシェ。俺は来年もここに来る。約束する」
そんな予定はまったくなかったが、そうしようと心に決めながら言った。
「また遊ぼう。一緒に」
震える小さな背中をさすり、安心させようと抱きしめた。アーシェが声がかれるまで泣き続けて、疲れて静かになるまで、ずっと。
特別に思ってくれる誰かがいるということは、何の自信も持たなかった少年にほのかな灯りをくれた。
上手くいかない時、自分に価値がないと感じる時、その笑顔を思い出すともう少しやってみようという気になった。
少年は変わった。
曽祖父の前に出ても震えずにいられるようになった。
勉強でつまづいても、アーシェの教え方のほうがわかりやすかったなと思いながら小さく笑うことができた。
叔父から教えられたトレーニングは絶対に欠かさなかったし、力がつくにつれて、少しずつでも自分は成長していると感じられた。
次に彼女に会ったら何をしてあげようか、どうしたら喜ぶだろうかと考えるようになった。そうだ、以前父にもらったオルゴール、あれを見せるのはどうだろう。
楽しみだな。
早く会いたい。
そう思っている自分に気づいて、可笑しかった。
――兄さま、昨日から朝練に出ていないって聞いたけど大丈夫? 体調が悪いの?
目が覚めると、枕元に置いた魔術信が光っていた。アーシェからの連絡だ。もうずいぶん時間が経っている。キースは前髪をくしゃりと掴んでため息をついた。
いつにも増して言葉を探すのが難しく、「寝ていた」とだけ返した。ゆうべもアーシェからなにかメッセージが届いていたが、その内容はもう覚えていない。ルシアの魔術信は、本来のものと違い文面が残らないのが不便だ。
昨日は朝から喉が痛く、寒気がして、身を起こすと頭痛がした。これは風邪をひいたな、と思った。一日寝ていれば治ると思ったが今日はさらにひどくなった。朝から何も食べていない。
せめてと思って水を飲んだが、そのために梯子を上り下りするだけで頭がぐらぐらした。二段ベッドが上の段か下の段かなど大した差はないと考えていたが、はじめて下の段ならよかったのにと思った。
またしばらくうとうとした後で、ノックの音がした。
「こんにちはー……。えっと、キースさん、います?」
部屋に入ってきたのは赤いローブの男だった。ベッドで身を起こしたキースを見上げて、ほっとしたように笑う。重そうなまぶたをした中年の男だった。
「ああ、寝ていても大丈夫。俺ね、タルヴォといいます。救護院からの往診で。具合を診に来ただけでね」
キースは枕の下に魔術信を隠した。
タルヴォは梯子をひょいひょいとのぼって、膝をついた状態でキースを診察した。
「熱があるって聞いたけど、どう。まわりに同じような症状の人がいたとか、虫に刺されたとか、心当たりは?」
「いえ。一昨日……少し雨に濡れて。あとは、睡眠不足で」
ふんふんとタルヴォはキースの話に頷き、額と手首に触れた。
「どこが一番つらいかな」
「頭痛が」
「頭ね」
タルヴォはもう一度キースの額に右手を置き、左手で彼自身のこめかみをトンと叩いた。
じわり、触れたところから痛みが引いていく。
「まあ疲労がたまっていた、て感じかな。若いからってあまり無理しないように。あ、そだ、眠れる薬出してあげようか。いる?」
「助かります」
「ん。多用しちゃだめだよ」
素直にありがたかった。タルヴォはキースに鞄から出した薬瓶を渡し、使用法を説明すると、またするすると梯子をおりていった。
その時、妙な音がした。
キースが周囲を見回すとすぐ、揺れが来た。転がりかけた薬瓶を手でおさえた。小さな揺れだったが、窓枠がキシキシと音を立てていた。
「っと。あぶな」
タルヴォの呟きが下から聞こえた。
「地震、珍しいよね。おりてる時でなくてよかったよ」
揺れがおさまると、タルヴォは安心したような声でそう言った。
「じゃ、お大事に。明日になっても悪いようならまた来るんで、誰か言付けて」
やっと頭がはっきりした。救護術がよく効いた。ずっと彷徨っていた迷路を抜けたような気がした。
部屋に一人になったキースは、枕の下から魔術信を取り出した。いつの間にか、またアーシェからの返信が来ていた。
――それ、寝過ごしたってこと? それともやっぱり具合が悪いの? 心配してるんだから、ちゃんと教えてよ!
唇をとがらせたアーシェの不満そうな顔が見えるようだった。キースは少し頬をゆるめて、ペンを手に取った。
あの頃、彼女の世界は狭くて、他に誰もいなくて、だからこんな自分を選んでくれた。一番にしてくれた。
それがわかっていても、己では届かないとわかっていても、いつまでも選んでほしいと思ってしまう。
一番大切で、好きで、どうしようもなくなってしまったのは、こちらの方だった。
こんな子どもじみた厄介な執着は、彼女には不要なものだ。
アーシェはもう、ひとりぼっちの女の子じゃない。
これからももっと、大切を増やしていける。両の手で数えきれないほどの大好きな人たちと生きていけるだろう。
彼女がただ、幸せで、笑っていればいい。
そう願っていたはずなのに、どこで間違えてしまったのか。
アーシェにもう心配いらないと書き送ると、ほどなく返事があった。
キースは魔術信を取り落とした。




