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アーシェは大人になれない  作者: 相生瞳
断章
87/140

『勇者ウィルの冒険』




 魔力は、人間なら誰でも生まれつき持っている。

 人間の魔力を特に「光の魔力」と呼ぶ。それに対して、魔物や魔族のものが「闇の魔力」だ。

 このふたつは、その性質は似ていたが、あり方は全く別のものだった。


 伝承によれば人間はかつて光の国とよばれる夜も眠りもない平和な世界に住んでいて、そこに魔物は存在しなかった。

 魔物は闇の国に住んでおり、ふたつの世界ははじめ遠く離れていた。それがやがて互いに大きくなり、交わっていき、領土をめぐって戦争になった。

 世界はひとつになり、混沌と化した。光も闇も混ざりあってすべてが眠りに落ちてしまった。

 そこでふたたび二つの世界を分けることに成功したのが大賢者である。

 大賢者の結界に守られた世界は「昼界」と呼ばれ、ふたたび人間たちの楽園になった。毎日訪れる眠りからは逃れられなかったが、人々は少なくとも光の中で暮らすことができた。

 結界の外側、魔物たちの世界は「夜界」。闇の国ほどの完全な暗黒ではなかったが、生き延びた魔物たちの棲み処となった。


 この巨大な結界は約三百年の間、人間たちを守り続けたが、次第にほころび、ほどかれた。

 結界の要であった太陽は消えたが、新しい太陽がみたび世界を照らした。昼と夜は交互にめぐるようになり、一日は長くなり、ひとつだった大陸も四つに分かれ、大賢者たちは姿を見せなくなった――というのだが、人々は今では「光の国」とやらが本当にあったとは信じていない。眠りのない世界なんてあるはずがない、と思っている。


 しかし、魔術師たちの見解は異なる。

 大賢者こそは究極の魔術師。人間より一段上の母なる存在。

 そして大賢者を生み出した光の国も、確かに存在していたはず、というのである。


 歴史上最後に登場する大賢者の名は、アスティマリン・レイニード。

 結界がついに潰えるその前に、闇の魔力のすべてを凍らせたと伝えられている。







 チェルシー・ライトノアは、昼寝していたはずの娘が、ベッドにいないことに気づいた。

「アーシェ?」

 ぐっすり眠っていると思って傍を離れたのがいけなかった。泣き声が聞こえなかったということは、夢も見ずにすんなりと目を覚ましたのだろう。最近はそういうことがたまにあるのだ――喜ばしいが、おかげで今日は娘を見失った。

 賢い子なので、危ないことはしないと思うが。それでも、どこにいるのかくらいは把握しておきたいところである。アーシェはまだ三歳なのだ。


 チェルシーはまず義父の部屋をたずねた。スティーブンの父であるクリフトンは、穏やかな読書家で、アーシェのよき理解者だった。現役時代は勇猛な騎士だったというが、その姿をチェルシーは知らない。クリフトンは戦で片足を失っており、一日の大半を自室で過ごしていた。

「今日は来ていないよ。キースのところじゃないのかね?」

 いつものように寝台で体を起こしていたクリフトンは本を片手に言った。チェルシーは礼を述べて次の心当たりへ向かった。



 夫が休暇ついでにキースを預かってきてからというもの、アーシェは毎日走り回っている。これまでは、外での遊び相手になれるのはチェルシーしかいなかった。使用人たちは気味悪がって近づかず、近くの村の子どもたちを招いてみても、アーシェはうまく関係を築けなかった。ささいなズルや間違いを悪気なく指摘しては反発を買い、気持ちの悪いやつと言われ、身分の違いを気にしておとなしくしている子に対してはあれこれ世話を焼こうとして失敗した。ケンカのたびにアーシェは落ち込み、皆が帰ってから泣き、そして誰も来なくなった。チェルシーはできるだけ娘の遊びに付き合うようにしていたが、子どもの元気には限りがない。すぐにくたくたとなってしまい、一時間もすると「そろそろお部屋に戻りましょうね」と言うほかなかったのだった。

 今では、アーシェの外遊びには毎日キースが付き合ってくれている。はじめのうちこそアーシェに振り回されてすぐに息を切らしていたキースだったが、徐々に慣れていき、何時間でも根気よく相手をしてくれている。このなんでも言うことを聞いてくれる兄の出現に、アーシェは大変喜び、すっかり懐いて、傍を離れなかった。

 今日も朝から二人で庭に出て、石を蹴ったり泥をこねたりしていたようだ。チェルシーがそっと近づいて聞き耳を立ててみた時には、アーシェがキースに雑草の名前をひとつひとつ教えていたので笑ってしまった。「すごいな、アーシェは物知りだ」と褒められて、娘は得意満面だった。


 よく遊ぶようになったアーシェはよく眠るようになった。浅い眠りのたびに悪夢を見て泣きわめく娘の睡眠がいくらか改善したことにチェルシーはほっとしていた。昼寝に関してもそうで、これまでは睡眠が足りていないためにうとうとして、これから食事という時に眠ってしまったり、短い睡眠を繰り返したりと不規則だったのが、昼食のあとでおなかいっぱいになってからコテンと眠るようになり、起きてからはまた元気に遊びだすのだった。


 キースが来てから、アーシェはとても明るくなった。

 心なしか、使用人たちの視線もいくらか柔らかくなったように感じている。もちろん、娘の陰口をスティーブンが決して許さなかったことも、要因の一つではあるだろうけれど。



 バルコニーに出て庭を確認すると、夫が若草色の髪の少年に稽古をつけていた。十日ほど前に槍の扱いを教えてほしいとキースが言い出してから、アーシェが昼寝すると彼の修行がはじまるのがお決まりだった。

 アーシェが近くで眺めていないかと探したが、姿はない。


「ねえあなた、アーシェを見なかった?」

 大きく声をかけると、スティーブンがバルコニーを見上げて言った。

「いや、来ていないぞ。もう起きたのか?」

「そうみたい。ああ、続けていて。もう少し探すから」


 キースは見違えるほど健康になった。まだまだ普通の八歳に比べると細身で、まず筋肉をつけるようにとスティーブンから言われていたが。

 最近では好きでない肉料理も進んで食べ、スティーブンから渡されたトレーニングメニューを早起きしてこなしているようだ。また頑張りすぎて倒れてしまうのではとチェルシーは心配したが、夫には「体調管理にさえ気をつければ大丈夫、力をつけて困ることはない」と笑い飛ばされた。


 相変わらず表情は硬かったが、素直な性分の甥っ子のことを、チェルシーはとても可愛く思うようになっていた。

 彼が来てくれて本当によかったと思うのに。


 キースが来月にはバルフォア家に戻るのだということを、アーシェにまだ切り出せずにいる。



「アーシェ! まあ、こんなところにいたの」

 娘はキースの部屋にいた。

「かあさま。今、戻ろうと思っていたところ」

 アーシェが手に持っているのは、キースが家から持ち込んでいた本だった。子ども向けの本としてはかなり分厚い。本来なら十歳くらいからが対象の字の多い本だったが、キースはそれを日課として寝る前に少しずつ読んでいるのだった。

 タイトルは『勇者ウィルの冒険』。男の子に人気の、昔からある伝説の勇者の物語だった。元は全五巻からなる大人向けの伝記本で、それを読みやすく一冊にまとめてあるのだ。

「これを読んだの? キースがしおりを挟んでいたでしょう」

「大丈夫。一気に読んだから、しおりは動かしてないわ」

 アーシェはけろりと答えた。

 これくらいのことで、チェルシーは驚かない。

「アーシェには少し簡単だったかしら」

「いいえ、面白かった。でもちょっと内容が違ったかな」

 チェルシーは苦笑した。

 よくあることだった。アーシェはまた、この物語を「はじめから」知っていたのだろう。

 チェルシーはこの本の元となった伝記本を読んだことはない。言い回しが古いし、長いし、戦いの部分が多くて男性好みの物語だ。しかしそのあらすじくらいはちゃんと知っていた。あまりにも有名だからだ。いくつもの歌曲や劇の題材になっているし、恋愛の部分をメインに取り出した歌劇などはチェルシーも鑑賞したことがあった。

「それは、だいぶ省略されてるエピソードもあると思うわ。子ども向けだもの」

 実話を元にした、面白おかしい冒険活劇。捨て子だったウィルと相棒のシャレスが、魔物によって夜の世界にさらわれた妹を探す旅に出る。後に最後の大賢者となるアスティマリンも「賢者の娘」として仲間パーティに加わり、やがて世界を救う戦いへと発展していく。


「でも、勇者が実は魔族だってことが書かれてなかったわ。それに、さらわれた妹も魔族なのよ。本当はさらわれたんじゃなくて、魔族としての自覚を取り戻してしまって、自分から夜に行ったの」


 チェルシーはさすがに驚かされた。

 そんな話はついぞ聞いたことがない。


「それに勇者の恋人が違うわ。アスティマリンじゃなくて、カレンと恋に落ちるのよね。カレンのことがどこにも書いてないの。不思議ね。自分が魔族であることを悟ったウィルが皆の前から姿を消そうとして、そんな彼をカレンが受け入れる場面が感動的なのに」


「……面白い想像だけど、勇者様は人間じゃない? 魔公を倒して、魔王の復活を阻止したのよ」

「私が考えたんじゃないのよ、かあさま。本に書いてあったの」

 そんな本が、家にあるはずはなかった。

「――その本をどこで読んだの?」

「どこ、だったかしら?」

 アーシェは考えて、考えて、やがて眼を泳がせながら言った。ここではないどこかを見ている。そういう感じだった。

「本がたくさんあって。毎日読んでたの。どうしてか、ほかにはなーんにもすることがなくて退屈だから。難しい、変な本ばっかりで、わからなかったけど読んでたの……」


 チェルシーは、我が子を怖いと思ったことはなかった。

 間違いなく、自分の産んだ子だ。魔族の子などでないことはわかりきっている。

 魂にしみついた以前の記憶があろうと、関係なかった。チェルシーにとってはただの、甘えたがりの可愛い娘だった。


 けれどこの時はじめて、チェルシーは恐れていた。

 怖かったのは、娘そのものではない。アーシェの持っている知識が、普通の人間には知り得ることのできないような、秘されるべきものだと察したのだ。


「忘れて。だめよ、アーシェ。話してはだめ」


「大丈夫よ。にいさまがまだ最後まで読んでないものね。話したりしないわ」


 ただの博識なら、なんということはない。成長すれば誰も変には思わなくなるだろう。けれどこれは違う。

 知っているはずのないことを、知っていてはいけないことを、この子は知っている。


「違うの。ねえアーシェ。そこで読んだ本の内容を、決して誰にも言ってはいけないわ。お父様にも、そして私にも、これから先、いっさい口にしてはだめ」

「どうして?」

「危険だから……いいえ、お母様がアーシェと一緒にいたいから。あなたと離れたくないから言ってるの。ねえ、約束できる?」

 アーシェの肩をつかんだ手が震えた。

 ぽかんと見つめ返してきた娘は、やがてこくりと首を動かした。

「わかった、かあさま。秘密にする」


 チェルシーは娘を抱きしめた。この子を隠さなければ。奪われないように守らなければ。そう固く決意しながら、腕に力を込めた。






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