順番
研究棟から救護院までは、大した距離ではない。
だがアーシェと荷物を濡らさぬよう細心の注意を払いながら進むと、思っていたより時間がかかった。キースは傘を肩にかけたまま、前かがみに早足で歩いた。
搬送室に彼女を預けて、すぐにまた外に出る。ぐっしょりと濡れた背中から滴る水が不快だった。陰鬱な話を聞いたからか、体どころか頭まで重く感じた。
男子寮に戻り、四階の自室に入る。同室の者は出払っており、静かだった。
体を拭き、服を着替えて二段ベッドに上った。今なら寝られそうな気がした。
最近、夜もろくに眠れていない。
原因はわかっていた。
つまらない、馬鹿げたことを考えるからだ。運動量を増やせば疲れて眠れるかと思ったが、目は冴えていくばかりだった。
愚かな自分がいくら眠い頭で考えたところで、何も変わりはしないのに。
「ねえ、にいさまは誰が一番好き?」
ブランコ遊びに飽きたのか、足をぶらぶらさせながらアーシェが言った。三歳の子とは思えぬほどになんでもよく知っている彼女だったが、遊びの内容は同じ年頃の子と大差ない。それがなんだか不思議で、キースはアンバランスに感じていた。
ものごとに順位をつけるのが、その頃のアーシェの流行りだった。前日は食べ物、その前は動物。
キースはこの遊びが苦手だった。なにが一番か、など、あまり考えたことがなかったからだ。やっと思いついて答えてみても、じゃあ二番目は、三番目は、と次々に聞いてくるので難儀した。
五番目くらいまで来ると、「もうない」と答えるほかなかった。そうだ。自分にはそれほど好きなものがないのだ。
アーシェはといえば、好きな食べ物は十五番目まで行って、あ、でもやっぱりあれのほうが上かも、などと楽しそうに順番を入れ替え続けていたが。
誰が一番好きか。
とても、とても難しい質問だった。真っ先に思い浮かんだのは母の姿だったが、すぐに悲しい気持ちになって打ち消した。
次に叔父のことを考えた。強くて優しい叔父は、とてもあたたかくていい人だ。けれど、キースはそれほど彼のことを知っているわけではない。戦場や社交の場では、また違う顔を見せるのだろう。スティーブンの一面しか知らない自分が、彼を好きと言ってもいいものなのか、わからなかった。
ならば、父はどうだろうか。稀にしか帰らない父だが、戻るときはいつも、王都の土産をなにかしらキースにくれるのだった。それは毎回、特段欲しいものでもなかったが、父がキースのために選んでくれたということが嬉しかった。頑張っているかと聞いて、頭を撫でてもくれる。尊敬する父だ。
キースが考え込んでいると、アーシェは待ちきれなくなったように言った。
「まだ決められないの?」
「ええと……」
「あのね、とうさまが泣くから秘密よ。私はね、にいさまが一番好き」
「え」
キースは呆気にとられた。まったく予想外の答えだったからだ。一緒に遊ぶようになって、まだ半月ほどしか経っていない。どう考えても、チェルシーやスティーブンの方が。
黙っていると、聞こえなかったと思ったのか、アーシェはもう一度言った。
「にいさまが世界で一番好き!」
くふふ、とアーシェは楽しそうに笑って、ブランコから飛び降りた。
「ねーえ、にいさまは?」
あまりにも自信満々に言い切られたので、キースはなるほど、と思った。
まだよく知らなくても、好きだと思っているなら、言ってもいいのか。
「じゃあ、俺は……叔父上が一番だ」
「えー! とうさまなの?! ずるい!」
ふーん、とアーシェはちいさな唇をとがらせたが、すぐにまた楽しそうになって指を動かした。
「二番目はもちろんかあさま、それで次は、おじいさまで……あ、でもとうさまが泣くから、とうさまを三番目にしてあげようかな。それで、おじいさまが、四番目」
いつもならどんどんその先が来るが、アーシェはそこで止まった。短い指は、四本しか使われないまま、きゅっと握られた。
今ならわかる。
きっと、知ろうとしてくれていた。好きなもの、嫌いなもの、キースのことを理解しようとしてくれていた。あの遊びには、そういう意味があったのだ。
まどろみを破ったのは、光だった。
雷光かと一瞬思ったが、違った。ルシアの作った魔術信だ。机の上で、アーシェからの発信であることを示す二番のランプが点灯していた。
キースは梯子をおりて、薄い魔術信を手に取った。
――さっき起きました。具合も良いです。今日はありがとう
金時計を開けてみると、昼を少し回っていた。着信の時間は十五分ほど前だ。窓の外の雨は降り続いている。
キースはまだ乾ききらない傘を持って、すぐに部屋を出た。
「えっ? 兄さま、どうしたの?」
救護院の入り口で、ピンクの傘を開いていたアーシェが目を丸くする。
「……魔術信を見たんだが」
「返事がないから忙しくしてるんだろうと思ったのに、直接来てくれたの?」
アーシェはくすくすと笑った。
そうか、返信するべきだったのか。キースは返答に窮して黙った。
「心配してくれてありがとう。もう平気よ」
アーシェはキースを見上げて言った。
「……そうか」
確かに、顔色は良かった。青くなっていた唇も、明るく色づいている。彼女のさしている傘に似て。
今日はありがとう。
短い魔術信の最後にはそう書いてあった。アーシェは、今日はもう会わないだろう、というつもりでいたのだ。明らかに、ここまで来る必要はなかった。
きちんと考える前に動いてしまったことを、キースは後悔した。気が重くなりながら、言うべきことを探す。
「……昼食がまだだろう。俺も食べていない。一緒に食堂に行くか」
思いついたのがそれだった。名案だと思ったが、アーシェは困ったように答えた。
「えっと……それが、実はもう食べたの。カトリン先輩が、イメルダ先生におつかいを頼まれていてね。私の分まで買ってきてくれたの。商業街にある人気のパン屋さんのサンドイッチよ。とても美味しかったから場所を聞いたの。今度みんなで行こうと思って」
アーシェは搬送室で楽しい時間を過ごしたのだろう。キースはおっとりとしたカトリンのことを思い浮かべた。
彼女がアーシェを元気づけてくれた。自分が案ずるまでもなかった。
今のアーシェには、頼れる友人がたくさんいるのだ。
「そうか。良かったな。……なら、俺はもう行く」
「あ、待って」
歩き出したのに、アーシェがついてきた。
「一緒に行きましょう。私はデザートを注文するから。せっかくヘルムート様が買ってきてくださったチョコレートも食べそびれたし」
なににしようかしら、そろそろ席もすく頃よね、と、なんでもなさそうに振る舞いながら。
大好物のチョコレートをひとつも口にしなかったほど、ヘルムートの話に動揺していたというのに。
それでもアーシェは、キースに優しさをくれようとする。
「アーシェ。おまえはあの話をどう思った?」
聞かずにはいられなかった。アーシェが話したくないと思っているとしても。
彼女は立ち止まり、そうね、と小さく言った。
「なんだか、大変な話だったわね。まるで物語みたいで、ちっとも現実的に感じられないの。王宮で過ごしていたとか、人々から慕われていたとか……」
「だが、まあ、よかったな。……ともかく、目的はひとつ達せられたことになる」
あの男が、エルネスティーネに好意を持っていたということは。
やはり、因縁があったのだ。クラウディオだけがアーシェに触れられることも、アーシェがクラウディオに惹かれていったことも、新しい太陽の導きだったのかもしれない。
きっといずれ、あの男もアーシェを見るようになるだろう。
そしてアーシェは、ここを卒業する時、ファルネーゼに残ることを選ぶ――そういう未来が、いやにはっきりと予感させられた。
だとすれば自分は、なんのためにここにいるのだろうか。
「そうね、よかった……」
アーシェはそう答えた。傘に隠れて、キースがその表情をうかがうことはできなかった。
よかった。
これでよかったのだ。アーシェのためには。ファルネーゼに来たことは間違いではなかった。
キースが黙っていると、アーシェが一歩、キースに近づいた。小さな靴が雨を踏んで、パシャリと音を立てる。
「ねえ、本当は使い方を忘れたから来たんじゃない? ちゃんと返事を送れるの?」
からかうようにキースを見上げる青い瞳があった。もうこんな話はおしまいにしましょう、と、そう言っているようだった。
「……まあ、たぶん」
「もう。えっと……傘しか持ってないじゃない。テストに協力する間は持ち歩いてねって言ったのに」
傘しか持っていないわけではない。ちゃんとポケットに財布が入っている。
だが魔術信は寮の机の上に置いてきていた。うかつだった。気が急いて、忘れていた。
「すまん」
「ふふ。私の鞄の中に、ちょうど二つあるわ。本当は今日、クラウディオ様に渡すつもりだったから。難しい話が始まる前に出しておくべきだったのよね。これを使っておさらいしましょう。食事が終わってから、どこかで……」
「俺は大丈夫だ」
キースは意識して胸に息を吸い、軽く吐き出してから言った。
ルシアに教えられた使い方は、ちゃんと覚えている。それほど難しい操作ではない。
「今から渡しに行けばいい。あの男なら、部屋にいるだろう」
「えっ?」
今のアーシェに必要なのは、キースと過ごす時間ではない。
それは、彼女の方がよくわかっているはずだ。
「チョコレートも残っている。わざわざ俺に付き合ってデザートを食べに行くことはない」
「で、でも」
「おまえが元気な顔を見せれば安心するだろう。それに、その魔術信も、楽しみにしているという話だったな?」
アーシェは黙って、そして、小さく首をかしげて、少しはにかんで。
「じゃあ、行こうかな……」
キースは手にしていた傘を軽く前に傾けた。
「ああ。それがいい」
アーシェは研究棟の方に足を向けたが、すぐにピンクの傘をくるりと回して振り返った。
「来てくれてありがとう、兄さま。嬉しかったわ。またね」
そして、雨の並木道を、まっすぐに歩いていく。
キースはその傘の遠ざかるのをしばらく眺めていた。
もう濡れていないはずの背中が寒かった。
どうしてあの時、幼い子どもを喜ばせるための嘘をつくことを思いつかなかったのだろう。
今なら心から言えるのに、価値をなくしてしまった。
「俺は、世界で一番――」




