エルネスティーネ
制限装置つきの金時計についての意見書を提出するため議会に顔を出した帰り、ヘルムートは花束を持って墓地を訪れた。
祖父ドゥイリオの墓碑に、知らない女の名があった。エルネスティーネ、と。
「誰だ?」
ヘルムートの疑問に答えたのは、隣に立っていたセザールだった。
「エルネスティーネ。彼の妻の名だよ」
「妻? グラシエラだろ」
ヘルムートの祖母であるグラシエラは、先々代のシスネロス王が晩年に恵まれた末娘だったという。甘やかされて育った朗らかな姫君で、シスネロスを訪れたドゥイリオと恋に落ちた。
当時ドゥイリオは二十九歳。研究に明け暮れていた魔術大公の、少し遅い春だった。
魔術の素養のない姫を大公妃として迎えることに、議会は反対だったが、ドゥイリオはそれを押し切ってグラシエラをファルネーゼに迎えた。
夫婦仲は円満で、幸福な日々が続くかに思われたが――グラシエラはマルツィアとイヴェッタを産み、そして幼い二人の娘を残してあっけなく病死した。
なんということはない流行病だった。
ファルネーゼの救護師たちの力があればすぐにでも治せたはずだった。それなのに、手が打てなかった。
グラシエラは魔力閉塞症にかかっていたのだ。
彼女が魔術師でなかったことが災いした。ドゥイリオは慌てて彼女に金時計を付けさせたが、魔力波の全体像を浮かび上がらせるにはひと月以上がかかる。間に合わなかった。
手当たり次第に様々な波形の人間が病室に呼ばれたが、グラシエラの対は見つけられず、彼女は息を引き取った。有名な話だ。ヘルムートはファルネーゼに来てから、あちこちで幾度も聞かされていた。
「グラシエラなら、そこに刻まれている」
セザールは墓碑の上の方を指した。最愛の妻、と記されており、没年も添えられている。
エルネスティーネにはなにもなかった。
「エルネスティーネは二人目の妻だ。君が知らなかったとは驚きだな。彼女はイヴェッタの身代わりに嫁いできたようなものだが。ケルステンでも彼女の話はタブーかね」
「どういう意味です?」
「いや。私から言えることは何もないよ」
勝手に話を切り上げて、セザールは行ってしまった。
その時のセザールの含みのある言い方が引っかかった。キースの調べていた件に関係があると思ったわけではなく、純粋に興味を持った。
グラシエラの話はいくらでも聞いたが、エルネスティーネは知らない。後妻がいたということすらヘルムートの耳には入っていなかった。
そこでケルステンの知人に連絡を取り、エルネスティーネという女のことを調べてほしいと依頼したのだ。
あっさりと返事が来た。エルネスティーネはケルステンでは広く知られていた。ただ、王宮では禁句だったらしい。
麗しのエルネスティーネ。ケルステンの翠玉。失われた至宝。眩き太陽のいとし子。幻の王妃。彼女を称えるための言葉がいくつも存在していた。
「気難しいオレの兄も一目で気に入り、出会ったその場で求婚したんだとか。それが九歳の時。エルネスティーネは十歳。それからの彼女は王宮に入って将来の王妃としての教育を受けてた。ま、話は盛られてるかもだがとにかくとんでもない美少女だったんだと」
「あの……本当に私、の前世ですか?」
積み重ねられる美辞麗句に、アーシェは小さくなっていた。
「さあね。あのさ、こいつにディルクって名前をつけたのはアーシェちゃんだって? なにに因んで?」
「えっ? ええと、なんとなく、浮かんで?」
アーシェは突然の話に首をかしげている。肩に触れる長さの紫の髪がさらりと揺れた。
「なんとなく、か。まあ、東部じゃそんなに珍しい名前でもないが……。ディルクはオレの兄、ヴェンツェルの飛竜の名でもあるんだぜ。王族の男子は十歳で自分の飛竜を従える決まりがあってね。つまり、ディルクはエルネスティーネが兄の婚約者だった頃に生まれた飛竜なんだ」
一昨日、買収した係官からこの書類を渡されて、ヘルムートが真っ先に思い当たった「繋がり」がそれだった。
「……アーシェちゃんの中で、どっかなじみのある名前だった。そういうことじゃないのかな」
アーシェは口元をおさえて考え込んでしまった。
「ヴェンツェル王の婚約者だった女が、なぜファルネーゼに?」
キースが険しい表情で言った。もともとそんな顔だが。
「兄が気変わりしたんだと。オレの知人は、自分より民衆の支持があることを疎ましく思ったんじゃないかと書いてたな。まあ理由はどうあれ、あの男にはよくあることさ」
ヴェンツェルが女を捨てたことは、ヘルムートにとっては意外でもなんでもなかった。
むしろそれまで七年も、ひとりの女を飽きずに傍に置いていたということの方が驚きだ。それほどに彼女が美しかったということだろうか。
「エルネスティーネは優秀で妃教育はうまくいってた。兄もどこへ行くにも彼女を連れていたとかで、まあお気に入りだったんだろうな。二人は成人と同時に結婚って話になってたらしい。それが突然、直前になって婚約を破棄すると兄が言い出したんだ。そりゃあもう大騒ぎになった。彼女はすでに王族同様の扱いを受けていて、当時病がちだった第一王妃を助けて社交の場にも出てた。王妃も娘同然に可愛がっていたというしな。考え直せと皆が兄を説得したが兄はもう顔も見たくない、国を追放しろという。そんで……、彼女の扱いをどうするか、問題になった。エルネスティーネの美貌はすでに名高く、欲しいという話は山ほど来てた。だが彼女はケルステンの内情を知りすぎている。下手な国には渡せない。いっそ殺すべきという意見まであったらしい。結果、ファルネーゼならどうかという話になったんだ」
ファルネーゼは中立国だ。ケルステンとは敵対しない。他国に漏れては困るような機密も、ファルネーゼにはとうに握られている。
それだけではない。ケルステンはファルネーゼに負い目があった。
それは前年にイヴェッタを死なせていたことだ。
ヘルムートの産後、なかなか体調の回復しなかったイヴェッタは、救護師から安静を言い渡されていた。それにもかかわらず、半年と経たぬうち、第二子を身籠った。
イヴェッタはじわじわと衰弱し、ヘルムートの弟か妹かを、腹に宿したまま死んだ。
事の次第を知ったドゥイリオは激怒した――ケルステン側は当然経緯を伏せようとしたが、ケルステンの救護師とてファルネーゼを卒業した魔術師だ。ファルネーゼの大公に「嘘をつく」ことは金時計が許さない。ドゥイリオはすべてを明らかにし、ケルステンには葬らせないと娘の亡骸を強引に連れ帰った。一歳になったばかりのヘルムートも引き取られるところだったが、交渉の末残ることに決まったという。
ケルステンからは以降十年、学生を受け入れない。そういう通達も来ていた。
「父王はどうしても女の子が欲しかったらしい。まあこのへんの詳しい事情は後日でいいか? 長くなるし気が滅入るんだよ……エルネスティーネのことに直接は関係ないしな」
ヘルムートはドライフルーツをひとつ口に運んだ。キースはさっきからアーモンドをつまんでいるが、クラウディオは何も食べていない。口をはさみもしない。
アーシェはため息をつきつつ紅茶を飲んでいる。もうお開きにしたいくらいの空気だが、そういうわけにもいかない。
「じいさん、前大公ドゥイリオは、以前からエルネスティーネを気に入っていたらしい。オレが生まれた時にケルステンに来て初めて彼女に会い、亡き妻に似ている、是非彼女を貰い受けたいと申し出てたとか。初孫に会いに来といて何やってんだって話だよな? そん時は兄が自分の婚約者だからときっぱり断ったらしいが。母が死んだ時も、じいさんの怒りをおさめてオレをケルステンに残すため、交渉の場に駆けつけて懇願したのがエルネスティーネだったんだと。……つまり、不要になったエルネスティーネを、ファルネーゼに献上して、機嫌を直してもらえば一石二鳥と」
「確認したいが、その時前大公は何歳だった」
キースが苦りきった顔で訊いてきたので、ヘルムートは書類に目を落とした。
「えーっと。二十六年前だから……」
「五十七だ」
クラウディオが代わりに答えた。一応、頭は回っていたようだ。
「だな。……つまり彼女は婚約者に捨てられたあげく、故国から追い出され、四十も年上のじいさんに嫁がされたんだ。まあ男が嫌になっても仕方ないとオレは思うね」
アーシェはうつむいたまま、何も言わなかった。
「簡単なあらましを手紙で知った後で、オレも直接ケルステンに出向いた時ついでに色々調べてみたんだけどな? 彼女がもしそのまま王太子妃になり、現王妃となっていれば、今とは違った世の中になっていただろう……とさ。みんな口をそろえてそう言うんだ。美しいだけじゃなく、賢く優しい女だったと。ただ名を出すだけで兄の怒りに触れるというんで、王宮じゃ誰も話題にしない。そういうことだった」
「セザールとの関係はどうなんだ。彼女にとっては一応、夫の娘婿……ということになるが」
キースの疑問はもっともだった。
「そこはまだなんとも。ケルステンでのことは簡単に調べがついたが、ファルネーゼに入ってからの話が……イメルダですら知らないらしい。どうも彼女のことは表に出していなかったみたいだな。ケルステンの王太子妃になる女性として周辺国の高官にも知れ渡っている状態だったものをファルネーゼに迎えたとなると、まあ良くも悪くも騒がれたろうから……」
ケルステンでも、エルネスティーネがどこへ行ったかまでは市井の人々には知られていなかった。自害した、殺された、両親のもとに戻りひっそりと暮らしている、などとさまざまな憶測の元に語られているのみだ。
実はファルネーゼからの制裁を受ける寸前だった、などと明かすわけもないし、無理からぬことだろうが。
「ラズハットなら知っているんじゃないか。今頃どこにいるんだ?」
クラウディオが懐かしい名前を出してきた。
「あー、そうだな。ラズハットか。確かに」
ヘルムートは身を乗り出した。
「誰だ?」
「じいさんの最後の対。あっちこっちふらふらしていやがるんだよな……」
「東大陸にいるかどうかすら怪しいな」
「だよなぁ。セザールを直接とっちめて……というわけにもいかないか。なにか確かな証拠でもあれば――アーシェちゃん、大丈夫?」
クラウディオとキースはアーシェに隣り合って座っていて、正面にいるのはヘルムートだけだ。そのヘルムートから見て、アーシェの顔色ははっきりと悪くなっていた。
「いえ……、はい。その、ティアナから少しだけ聞いたことがあって……とても厳しいお父様だと……その人は、どうして……」
「んー。まあ、あいつはロクでもないからな。そのまま結婚してたとして、いい人生だったかどうかは。ティアナもそりゃあ兄には苦労してるさ。あの子は第三側妃の子で、立場もそれほど強くないからな」
アーシェは長い吐息を落とし、両手で顔を覆った。
「アーシェ」
キースが気遣わしげに声をかけた。
「頭が……」
それだけ呟いて、アーシェは背を曲げた。膝の上に伏せて震えている。
その背中を、クラウディオがさすった。
「イメルダを呼ぶか?」
ヘルムートはそう言って腰を浮かした。目の前で、アーシェがゆっくりと体を起こし、クラウディオと顔を合わせた。伸ばされた小さな手が、クラウディオの後頭部に届き、抱擁するように触れた。
「……は?」
クラウディオが呟いた。
妙な雰囲気になった。アーシェはうつむき、クラウディオは動きを止めていた。
キースは顔を背けている。
「ご、ごめんなさい。もう大丈夫……です」
アーシェは真っ赤になってクラウディオから離れ、立ち上がろうとした勢いのままうしろに倒れた。




