そして、また雨の日
研究棟の前で、キースが足を止めて言った。
「俺は必要か?」
これからという時に、どうしたのだろうか。すっかり付いてきてもらえるつもりでいたのに。
「え? だって、ヘルムート様が兄さまも一緒にって。もしかして何か用があった? そんな、困るわ。兄さまがいてくれないと……」
なぜか、少し笑われた。
「いや、大丈夫だ」
キースは先に立って研究棟の扉を押し開け、アーシェに中に入るよう促した。
キースはきっと、今日も忙しいのに来てくれたのだ。
なにか用事があるの? それなら行ってきてくれてもいいのよ、と。
そう言えればよかったのかもしれない。
(だけど、やっぱり今日は……怖いし)
――あなたも独り立ちできるよう頑張らなければね。
記憶の中のイメルダの台詞が、アーシェを責めるように蘇った。
(わかってる。けど……)
アーシェは螺旋階段を上がっていくキースの背を眺めた。
(こんな風に兄さまといられるのはきっと、今だけ。ファルネーゼにいる間だけだから)
「どうした?」
踊り場で立ち止まっていたアーシェに、キースが振り向く。
「なにも……」
アーシェは手すりにつかまり、階段を上った。
魂の固着のことを二人に明かしてから、一か月と少し。
あの時のように、クラウディオとアーシェとキースがソファに、ヘルムートがデスクの椅子に座った。アーシェがお茶を用意したのも同じだが、違うのはヘルムートが茶菓子を買ってきていることだった。
チョコレートはもちろん、クラウディオの好物のビスケットに、ナッツ、色とりどりの砂糖菓子やドライフルーツもある。ヘルムートがそれらを大皿に広げていく様子は、まるでパーティでも始めるかのようだ。アーシェは不安な気持ちが少し軽くなるような気がした。
「まあ。わざわざありがとうございます」
「いやー、話が長くなるかと思って。うまい物があれば少しは気も紛れるだろ」
「なにか面倒な結果だったか?」
クラウディオが訊いた。
「少なくともオレにとってな……」
「なんだ、君の知り合いか」
クラウディオはもうヘルムートから報告を受けているだろうと思っていたが、まだのようだ。
「そういうわけじゃないが。……まあ、順を追って話すよ」
「ずいぶん勿体ぶるじゃないか」
窓の外では雨が降り出していた。
「まずは前提の話。魂相の記録は出入国の際に個人を特定するために使われてる。魂相や魔力波形は書き換えできないからな。魔術師は金時計を使い、それ以外は魂相で身分証明をする。内部で犯罪が起こった時なんかに変装してやりすごすとか偽名で出国するとか、そういうことができないようになってるってわけだ。死体からは読み取れないのが欠点だが、これは魔力波形も同じだな。魂相ってのがそもそも何かっていうと……クラウディオ」
ヘルムートがクラウディオに説明を丸投げした。
「魂の表面の形――ということになっている。実は判定機そのものが太古の遺産の複製で、詳しくはわかっていないんだ。なんのために作られたものなのかすら。ともかく、魂の内部まで写し取るようなものじゃない。あくまで器だけ――だからこそ今回は有力な手掛かりになると考えてる」
「ってことらしい。ちなみにエラーの出る頻度は一つの門につき季節に一度程度。つまりまあ毎月誰かしら引っかかって時間のかかる検査の方に回されてるってことだから、アーシェちゃんのがただの偶然の一致だったって可能性ももちろんある」
ヘルムートが紙の束を取り出した。
「とりあえずここまで頭に入れてもらって、本題だ」
アーシェはヘルムートから視線を向けられてうなずいた。
「エラーを出した原因は二十六年前の入国記録。古い上に分類がSで当時の書類を探すのに時間がかかったらしい」
二十六年。図書館の火災が起きた時点からさかのぼって、およそ十年。
「Sってのは、新入生や商人じゃない、賓客の類なんだ。だから重要書類扱いで……ま、なんとか頑張ってもらってこれが手に入ったわけだ。名前はエルネスティーネ・アンデルス」
「エルネスティーネだって」
突然、アーシェの隣でクラウディオが立ち上がった。
「なんだよ、おまえ知ってたのか」
クラウディオの金の瞳がアーシェを映した。
エルネスティーネ。クラウディオが懐かしそうに口にした、あの名前。
「いや……、続けてくれ」
視線がそらされた。クラウディオはゆっくりと腰を下ろしたが、顔色はよくなかった。
「エルネスティーネ・アンデルス、十七歳、女性、東門から入国、ケルステン王宮からの使節団。出国記録はなし」
ということは、もし彼女がアーシェの前世であるなら、死亡したのは二十七歳の時ということになる。フルヴィアの見立ての範囲内だ。
「この女についてはオレも少し前から別件で調べているところだったんだ。関係ないと思ってわざわざ話してなかったが、繋がってたとは……。けど、クラウディオが知ってるならオレが色々手を回すまでもなかったな」
「……僕は何も知らない。彼女がどこの誰なのか。本当にいたのかさえ疑っていた。だからそれが僕の知っている彼女なのかどうか……」
クラウディオはヘルムートの手にある書類を見据えている。
「なんだそりゃ……。会ったことは?」
「何度か。なにか……現実感のない人だったんだ。幻のような……綺麗な人だった」
「いやおまえが女を褒めるとか珍しいじゃん」
ヘルムートがからかうように手をひらひらと振った。
「仕方ないだろう、初恋だったんだ」
クラウディオはさらりと言ったが、アーシェは息を止めた。
「なぜ黙るんだ。笑うところだろう。笑われてやろうと思って言ったんだぞ」
冗談? いや、そうは聞こえなかった。
「笑えねーよ。……金髪に翠の瞳の美人だった?」
「……そうだ」
ヘルムートは頭をがりがりとかいた。
「いつ、どこで会ったんだ」
「図書館だ。十六年前……隠し部屋のようなものがあって、そこで何度か」
「いやそれはもう間違いなく当たりだろ」
クラウディオは口を閉ざした。アーシェも何も言えなかった。
「それで、エルネスティーネというのは何者なんだ。ケルステンの王宮からということは、ヘルムート殿の縁戚なのか」
キースがしびれを切らしたように場の沈黙を破った。
「あー、色々身内の恥をさらすようでオレも言いづらいんだが」
ヘルムートはため息とともに言葉を吐き出した。
「要するにこのエルネスティーネってのは、ケルステンから差し出された詫びのための貢ぎ物で――じいさんの後妻らしいんだ」




