なくしたはずの
実験棟から見える一番高い建物は、ファルネーゼの中心にある天測塔だった。夜の波を観測するために必須の施設で、昼夜期には各地に建てられていたというが、現在ではその機能も不要となり、残っているものは少ない。
天測塔の根元には、行政区がある。アーシェは一度も行ったことがない。特に用事がないし、そもそも一般の学生は入れない。行政区の周囲は湖で、橋がふたつ掛けられている。行政区は湖の真ん中の島なのだ。聞いたことはあったが、こうして見てみると本当にドーナツのようにきれいなリング状の湖だった。
「いい眺めだろ?」
「ええ、とても」
「こいつに乗ればもっといいものが見られると思うけどな」
ヘルムートがプレヒトを撫でながら言った。
「ふふふ。実は興味がありました。私が男体拒否症でなければ、あの時是非とお返事したかったのですけど」
アーシェは荒地での出会いを懐かしく思い出しながら言った。
「それにしても、こんなところにプレヒトがいたのですね。実験棟を使っている研究生から苦情が来たりしませんか?」
「まあはじめはなくもなかったけど、慣れだよな。姿は見せてないし、防音魔術も施してある。今じゃ上にこいつがいるって知らない研究生もいるくらいでさ」
ヘルムートは手巾で手を拭いた。どうやら革袋の中がカラになったらしい。
「最初は厩舎の近くを巣にしてたんだけど、馬が怯えるってんでこの場所をもらったんだ。いつでもこいつと一緒にいさせてほしい、ってのが、オレがファルネーゼ入りする時につけた条件だったんでね。多少の無理は通させてもらうさ。オレもけっこう気を遣ってるんだぜ? 散歩も夜にしてるし、昼間に出るのは実戦演習の時くらいなもんで」
「授業で飛竜を出すんですか?!」
「最終試験は装備あり、乗騎ありの真剣勝負だからな。馬上のキースとやり合うのが楽しみだ」
ヘルムートがにやりと笑った。
それは少し見てみたいかもしれない。アーシェがちらりとキースの方を見ると、彼はティアナとルシアにちょこっと魔術信の手ほどきを受けている様子だった。設置は無事に終わったようだ。これからテストなのだろう。
「人に慣れた飛竜は、親の役割の兵士が死ぬと処分されるんだ。制御が効かなくなるし、野生にも戻れない。オレはこいつが生まれた時に親になったんだ。だからどこへ行くことになっても、こいつとはずっと一緒さ」
ヘルムートがプレヒトの鼻の頭に手を乗せると、プレヒトが翼を揺らした。
「飛竜の寿命は長くもって五十年。こいつらは戦いの道具として育てられるが、決してそのために生まれたわけじゃない。大事にしてやらないとな。さて……」
ヘルムートはズボンのポケットをさぐった。
「これ、アーシェちゃんのじゃない?」
「あっ」
それは胡桃割り器だった。荒地に落として、そのまま忘れてしまったものだ。
おそらく土埃にまみれていたのではと思うが、綺麗に磨かれている。
「やっぱり。そうじゃないかと思ったんだ」
アーシェの返事を待たずに、ヘルムートはそう言った。
「は、はい。でもどうして」
「はぐれ飛竜の遺骸をそのままにしとくわけにはいかないし、調べたいこともあったんでね。後始末をしに行った時に拾ったんだ」
ヘルムートは胡桃割り器の端を持って差し出した。
「まだ無理かな?」
アーシェはヘルムートに向けて手を出したが、やはりその端をつかむまでには至らなかった。距離を縮めようとすると、どうしても指が震えてしまう。それでも以前よりは近づけていると思うのだが。
ヘルムートは苦笑して、胡桃割り器を岩の上に置いた。
「どーぞ。で……、飛竜が胡桃を好きだって知ってたの? それも生まれる前の記憶ってヤツ?」
ヘルムート相手にはもう隠す必要もないことだった。
「そうです」
アーシェは胡桃割り器を手にして肯定した。
「やっぱ……そうだよな。あー……なんか複雑だわオレ……アーシェちゃんが……」
ヘルムートはなにやら芝居がかった仕草で嘆いた。
「私が?」
アーシェが瞬くと、ヘルムートはふと真顔になって言った。
「たぶん、わかったんだ。魂相が似てるからって、それが前世という確証はどこにもないけどな。まあしかし状況的には、おそらく――」
「えっ。では」
顔色を変えたアーシェを、ヘルムートが押しとどめる。
「そうだ。結果が出た。込み入った話になるし、明日ゆっくりクラウディオの部屋で。キースも一緒にな」
その後は気もそぞろで、ルシアとティアナの三人で商業街まで足をのばして魔術信のテストをしたのに、アーシェはあまり役に立てなかった。
「疲れてる? 最近ずっと水晶とにらめっこしてたもんね。せっかくの休みに付き合ってもらってごめん」
ルシアにそう言われて、申し訳なかった。
夕食の前、アーシェの名が呼ばれた。ついにチェルシーからの手紙が来たのだ。
わかったのは、前回の手紙があちらに届いていなかったということだ。母は元気だったし、アーシェの状況がよくなっていることを喜んでくれていた。
なぜコリンへの手紙だけが届いたのか、不思議だったが、ともあれ心配していたような事態はなさそうだったので、アーシェはひとつ安心して、眠りについた。
日曜の朝、アーシェはヘルムートに指定された時間にあわせて女子寮を出た。そろそろ降りだすので、帰り道のための傘を片手に。
キースも傘を持ってアーシェを待っていた。
「おはよう、兄さま」
歩きながら、アーシェはまず手紙の話をした。キースも気にしていてくれたようで、チェルシーからの返事を知るとこう言った。
「考えていたんだが。あの時、途中で係官が変わっただろう。それで……手紙の便が別になったのかもしれないな」
「そういえば……、そうね。同じ日に出したけど、そういうこともあるかも。なんだ、単純なことだったわ」
ようやく得心がいって、アーシェはほっと息をついた。
「……ようやくだな。本当にわかる日が来るとは」
「そうね。なんだか呆気なくて……。まだ実感がないの。少し怖くて、ゆうべからあまり考えないようにしていて……だって、聞く前から悩んだって仕方ないものね」
「たとえ過去が誰であっても、おまえはおまえだ」
キースはきっぱりと言った。アーシェは傍らを歩く従兄の顔を見上げた。
「そう……そうよね。ありがとう」
本当にそうだろうか。彼女が誰だったのかわかっても、自分は変わらずにいられるだろうか。
しばらく黙っていると、キースが話題を変えた。
「昨日ルシアが話していたが、ずいぶんいい魔術具をもらったそうだな」
「あっ、そういえば見せていなかったわね」
アーシェは首元の鎖を引いてペンダントを取り出した。
「私が前に、攻撃魔術コースを考えていますなんて言ったから……色々と気にしてくれていたみたいで、わざわざ作ってくださったの。こうしていつも身に着けているのよ」
「そうか。……安心だな」
「ええ、とても」
アーシェはペンダントを眺めた。クラウディオがアーシェのことを考えてアーシェのためだけに作ってくれた魔術具。
きっと、なにがあっても守ってくれる。
握りしめて、服の中にしまった。




