実験棟の屋上で
マリーベルはこれまでヘルムートが食事に同席しても「魔術学院のルール」に則って、少なくとも表向きは嫌な顔を見せずに繕っていた。今日だって、ヘルムートから何も言われなければ、普段通りの彼女だったろうに。なにも追い返すようなことを言わなくても、と、アーシェは思っていたが。
屋上に着いて、ヘルムートはマリーベルを心配したのだ、ということがわかった。
実験棟は、アーシェには初めての場所だった。長い階段をいくつも折り返して上り、最後にヘルムートが扉を開けた。
「ようこそ。ここはオレの家みたいなもんだ」
ヘルムートは笑みを浮かべてそう言ったが、それにしては殺風景な場所だった。灰色の陸屋根が古く錆びた鉄の手すりに囲まれている。奥の方にはこれまた灰色の岩が積み上げられていて、そこからギシギシと重い金属のこすれるような音が聞こえてきた。
「まあ……! こんなところにプレヒトが」
ティアナの小さな呟きが、隣にいたアーシェの耳に届いた。
「プレ……? うわ! え、でっか!!」
ルシアが驚いた声を出し、アーシェも目を見開く。
赤銅色の翼の飛竜がそこにいた。荒地でアーシェたちを救ってくれた、ヘルムートの竜だ。のそりと脚を動かして岩の上から頭を出し、黒い目でじっとこちらを見ている。
「ひぇ」
ルシアが後じさり、ティアナのうしろに隠れるようにした。
なるほど、竜騎兵に蹂躙されたバチクのことを思えば、マリーベルが冷静でいるのは難しかったかもしれない。「来ない方がいいかも」とは実に率直な言い方だ。
「ただいま、プレヒト」
ヘルムートはプレヒトの傍に向かいながら言った。
「なんだ、珍しく人が多いから警戒してるのか? 大丈夫だ。あいつら、ここには別の用事があって来ただけだから」
振り返ったヘルムートが声を張り上げた。
「そっちの端の方ならプレヒトも届かない。好きなとこに置いてくれよ。けっこう風吹くからさ、雨除けとかはしっかり固定したほうがいいぜ」
「は、はいっ」
ルシアはうわずった声で返事をした。
「ヘルムート様こんなとこで飛竜を飼ってんの? いや時々連れてくるのは知ってたけど、学院内にいたなんて」
「わ、私も知りませんでした……」
「それにしては落ち着いてるじゃん、ティアナはあれ怖くないの?」
「あ、いえ、その! 驚いて、実感が……」
「どこに置けばいい?」
ひそひそと話していた二人にキースが声をかけた。
「あっすみません! ええと、えっと、じゃあこのへんに」
「ここか」
キースは中継機をそっとおろした。
背負っていた荷物を広げたルシアが作業をはじめる。それをティアナとふたりで見守っていたアーシェは、キースが一人離れて景色を見ているのに気づき、彼に近づいた。
研究棟のクラウディオの部屋の窓からの眺めも悪くないが、ここはずっと高く広く見晴らせる。近くにある同じくらいの高さの建物といえば、第一講堂の鐘楼台くらいなものだった。
アーシェはキースの隣に立った。手すりに手をかけ、学院の外を眺める。
見慣れた商業街の中央通りも細く見えた。まっすぐだと思っていたが、こうして見るとゆるやかにカーブしているのがわかる。いつかの喫茶店はどのあたりかと目を凝らしたが、それぞれの屋根が小さすぎてよくわからなかった。
「綺麗ね。兄さま、いつの間にこんなところに連れてきてもらっていたの? ずるいわ!」
「まあ、たまにな」
教えてくれたっていいのに。アーシェは唇をとがらせた。
キースがどこでなにをしているのか、どんなことを感じたのか、手紙でやり取りしていた頃の方が知っていたようにさえ思う。
最近は本当に会う時間が減った。
アーシェもこのところは暇さえあれば暗示の痕と格闘していたので、忙しいのは同じだ。せめて朝食で会えればいいのだが、キースは結局あれから一度しか来ていない。善処すると言ったのに。
「これが兄さまの分よ」
アーシェは鞄に入れていた試作機をひとつキースに渡した。
これでもう少し、キースに会える時間が増えるといいが。
「前に作った分は二台しかなかったけど今回はもっと増えたの。でも今日はテストのためのこれだけしか持ってきてないけど」
新しい試作機は六台作られた。はじめのものよりずいぶん機能が増えている。いつ着信したかがわかるように時間が表示されるようになったし、どの試作機にメッセージを送るかも選べるようになっていた。キースのものは三号機だ。
「これが魔術信か。とてもそうは見えないが」
アーシェは自分の分のちょこっと魔術信二号機を取り出して、はめ込まれているペンをはずした。本体は厚みもだいぶ減って、持ちやすいしなにより軽い。
「これで書くのよ。先輩、どうですか?」
「もーちょい待ってね。こっちを起動させてから……」
中継機をいじっているルシアが声をあげた。
「アーシェちゃん、ちょっと」
見ると、ヘルムートが手招きしている。なんだろうか。飛竜に餌をやっているようだが。
「いーよ、ここは手が足りてるし。お兄さんへの説明は任せて」
「は、はい。では……」
ルシアに言われて、アーシェは試作機をティアナに預け、ヘルムートとプレヒトの傍へ向かった。
「いやーここんとこあちこち行ってたから、忙しくてさ。アーシェちゃんと話したかったんだよね」
ヘルムートは革袋の中から取り出した肉片を飛竜に与え、その鼻先を撫でた。
「こいつと近くて平気?」
アーシェはヘルムートの二歩後ろに立っていた。
「ヘルムート様と一緒ですから」
「どーも。ご信頼にはお応えしますよ」
ヘルムートは冗談めかして笑った。
「で、どう、あいつと上手くやってる?」
アーシェはそっと後ろを振り返った。ティアナとルシアは設置作業を続けていて、その横で腕を組んでいるキースと目が合った。たぶん手持ち無沙汰なのだろう。
「はい、まあなんとか」
会話がはっきり聞き取れないほどの距離があるし、たとえ聞こえたとしても問題のない三人だ。
「クラウディオのやつと魔術を使うと面白いだろ。まともに思考受け止めると酔いそうになんない?」
「な、なります……! なんというかものすごくぎっしりしていて……最初はなにがなんだかわからなくて、混乱して笑われてしまいました」
「はっはは。ソレは見てみたかった」
ヘルムートは愉快そうに肩を揺らした。
「あいつ同時に五つくらいのこと考えてたりするからなぁ。おまけにそれぞれの回転も速いのなんの。参るぜホント」
「そ、それは……」
想像以上だ。
「頭いいくせに、いやそのせいで、オレらが困ってることや悩んでることにはまるで気づかなかったりもするし。融通が利かないんだよな。まあ大目に見てやってよ」
「私は……大丈夫です。クラウディオ様のことは、その、……尊敬していますから」
「そっかそっか。大きなお世話だったかな?」
「いえ。ヘルムート様がクラウディオ様のことをとても気にかけていらっしゃるのは、よくわかりました」
「あー……そんな風に言われるとむず痒いな。まあ、なんかあったらズバっと言ってやってくれ。話せばわかるから。そんでもダメならオレんとこに言いつけな。おにーさんがなんとかしてやるよ」
アーシェは口元をおさえて笑った。
クラウディオがヘルムートを「ただ一人の家族」と慕っている理由がよくわかる。これまでもたくさん喧嘩して、仲直りして、支え合ってきたのだろう。
従兄、か。
アーシェが後ろを見ると、またキースと目が合った。キースもプレヒトのことが気になるのだろう。アーシェは手を振ろうとしたが、その前に目をそらされてしまった。




