魔法国の門をくぐって
「いや、こんなことは初めてですよ! 十年以上この仕事をやっていますが、ええ」
轟音を聞いて様子を見に来ていた御者と途中で合流し、二人は無事に馬車へ戻ることができた。荷を失わずにすんだのは的確に馬車を避難させた御者の手腕であると、キースは心付けを多めに渡した。
「元々荒地を渡る馬車が高価なのは、危険手当が含まれてるようなもんで……いや、でもありがたく頂きます」
御者は嬉しそうに金貨を受け取っていた。アーシェも飛び出してごめんなさいと謝罪して、それからいったん二人にその場を離れてもらい、客車を占領した。体をふいて服を着替えるためだ。
そうこうしてようやく馬車は再び走り出した。キースは自分は着替えはいいと断ったのに、馬車が走りはじめてから上着を脱ぎだした。
「どうしてさっき交代で着替えなかったの?」
一応、淑女として目をそらしながらアーシェは言った。
「到着が遅くなる。昼には着く予定だったが、夕刻になる。暗くなるのはまずい」
キースの言うことはもっともであった。
キースは荷物の中から魔法薬(おそらく)を取り出し、脇腹に塗り込んでいく。次いで、肘、それから、肩……
見ないようにしようと思ってもそれなりに見えるものである。子どもの頃に一緒に水遊びをした時とはまったく違う。兄はすっかり大人の男性の体つきになっていた。
「やっぱりだいぶ痛いんじゃない? 兄さまだけでも飛竜に乗せてもらえばよかったのに」
「おまえを残してどうする。意味がない。それにもう痛くはない。これは痛みを誤魔化すのによく効く」
「ただの痛み止めなの?!」
思わずキースの方を見てしまったが、すぐにさっと横を向いた。
「使うか?」
「いい。私はほんとに……かすり傷よ。血ももう止まったし」
アーシェはひたすら窓の外を睨んだ。
従兄に包帯を巻いてやることすらできない自分が嫌になる。
「俺は慣れている。そんな顔をするな」
「べつに……」
アーシェは涙がにじんでいるのを見られないよう片手を顔に当てた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「あの時、なにを投げた?」
「ああ……胡桃よ。飛竜は好きなの」
言っていて、あの場に胡桃割り器を落としてきたことに気づいた。今ごろ思い出してもどうにもならないが。
「なるほど。ヘルムート殿に返礼として送るか」
ヘルムートの飛竜、プレヒトといったか。たぶん、喜ぶだろうが。
「どうかしら。急所のような秘密というわけではないけど、ケルステンの外で知っている人はあまりいないかも」
「ふむ」
キースはようやく替えの上着に袖を通した。
「ケルステンで竜を育てていたというわけか?」
「さあ……特に懐かしい感じはしないけど、可能性は否定できない、かしら。ケルステン人だからといって、誰もが知れることではないし。竜騎兵だったりして」
「女戦士か。勇ましいな」
「飛竜に乗れるほど強かったら、兄さまと一緒に戦えるのにね」
「ム。おまえと一緒にか。それは……」
上着のボタンを留める手を止めて、キースは少し考えていたようだったが。結局、良いとも悪いとも言わなかった。
日が傾き始めたころ、地平線に緑が見えてきた。
広大な荒地の真ん中に作られた巨大な半球形の結界の中に、ファルネーゼ公国はあるのだ。近年、争いの多い東大陸で、唯一の中立・不可侵を掲げる魔術師たちの聖地。
魔術学院をはじめ、魔術研究の粋が集まる魔法国家ファルネーゼは、その気になればこの大陸を支配することも可能だと言われている。さすがにそれは誇張かな、とアーシェは思っていたが、さきほどの魔術を一度見ただけで、「できそう」と考えを改めたところだ。
ここに集まる生徒たちは、卒業すればそれぞれの国に帰り就職するか、残って研究を続けるかの道を選べる。外に出ても、死ぬまで公国との魔術契約は有効で、ファルネーゼに敵対する行為だけはできないことになっているという。そんな反則が許されるのか? やれそう。
誰もが見捨てたこの荒地の中心を改造して自分たちの国家を作り、周辺国の戦火をよそに、ひたすら魔術の極みを目指し続ける――大陸の中の異界。
「着きましたよ。ファルネーゼの入り口です」
大きなな門の前で、馬車は止まった。
「すごいでしょう? これをはじめて目にした方々の感想を聞くのが、私の楽しみでして」
御者が言った。すごいというか、奇妙な光景だった。
「ええと……」
「美しいな」
「そう。そうね! とてもきれいだわ、ええ」
荒地がまるで切り取られたように終わっている。目に見えない壁があり、その壁の向こうにだけ、草地が広がっている。
門はその境目にそびえ立っていて、御者が通行証を掲げると、音もなくひとりでに開いた。
「さあ、もう少しです」
馬車が通り過ぎると、門はまた閉じて、姿を消した。
「この門はね、ファルネーゼに害意のあるものが通ろうとするとね、ははは、大変なことになります」
そういうことは通る前に言ってほしい。馬車を降りたアーシェがぞっとしていると、キースがなぜか分解した槍の柄を持って歩いていく。
「兄さま?」
キースは門のあったあたりに立ち止まると柄を逆さに持ち、石突で結界を殴りつけた。
「ちょっと?!」
あわてて駆け寄るアーシェに、キースが顔をしかめて振り向いた。
「……相当硬いな。かなりのものだぞ」
(そういうところではないの? お嫁さんが来ないのは!)
「かつて世界を覆っていたという結界もこのようなものだったのかな。独特の手触りだ。おまえも試してみるといい」
はらはらしているアーシェとは対照的に、キースは無遠慮に結界をぺたぺたと触っている。そう言われると興味がないでもないが。
アーシェは振り返って、馬車のそばに赤いローブを着た人物がふたり近寄ってくるのを視認する。
「ほら兄さま、魔術師たちが来てますから! 戻りましょう」
御者は慣れたもので、てきぱきとアーシェたちに指示してくれた。入学許可証を出して、身分証明書も一緒に。
「ようこそ、我が公国へ」
「どうも。今日はトラブルがあって、少し遅い到着です」
「報告は受けています。救護師を待たせていますが、どうですか?」
「ええ、はい。お願いします。それから、私も今日はここに泊まれるように」
「どうぞこちらへ」
アーシェたちが口をはさむ隙もなく、話が進んでいく。
「新入学のお二人はこちらです。まずは個人登録をいたしましょう」
「あ、はい!」
御者と別れて、建物の中に入る。案内された部屋には簡素な木のテーブルがしつらえてあった。
テーブルには金属の平たい板が並んでいて、その下に紙が敷いてある。
「その金属板に手を触れてください。こうべたっと、手のひらの方を。どれを使ってもいいですよ」
「ふむ。手形をとるのか」
キースに続いてアーシェも手近な板に触れた。ひやりとした。
「そのまま。もうすこし。はい終了です」
「これで何が?」
「個人の特徴を計測してます。簡易な数値しか出ませんが、入国にはこのくらいで充分なので」
キースはわからないという顔をしている。
アーシェは自分の知識に聞いてみた。ただの手形ではなさそうだ。確か、魔力には波のようなものがあって、そのパターンはひとりひとり違う。それを見たとか?
魔術師はキースが手を置いた金属板を持ち上げた。すると魔術信と同じように紙の上で小さな火が踊り、文字を刻んでいく。
「はい、キース・バルフォア様。登録できました」
薄く煙のあがる紙の上にふたたび、蓋をするように板が乗せられた。
「これで冷やせば完成です。次……」
アーシェの金属板が持ち上げられる。
キースの時よく見えなかったので、自分のになにが書きつけられるか確かめようと興味津々でいたアーシェだったが、いつまで経っても火がつかない。
「あれ? おかしいな」
魔術師が小さい声で言った。
「なにか問題が?」
「いえ。アーシェ様、ちょっとこっちでもう一度やってみてください。しっかり手をついてくださいね」
「はい、すみません」
自分の手が小さいせいだろうか? アーシェは指をひろげて、体重をかけぎみに、じっくりとやってみた。
「このくらいで。はい」
ローブの魔術師の指示通りに、手を離す。
ふたたび金属板が外されたが、広げられた紙に、火のつく様子はない。
アーシェは不安になってきた。やっぱり魔術的に見て自分はどこかおかしいのか。門前払い? それとも、もう魂の固着がバレて連れていかれるのか。
「ええーっと。あ、いえいえ大丈夫です。たまにこういうこともございます。ちゃんとできます、ちゃんと」
魔術師は頭をかきながらアーシェをさらに別室に案内した。キースもぴったりとついてきた。だいぶ表情が険しくなっている。それを、不手際を責められていると感じたのか、魔術師は口早に説明した。
「こっちなら大丈夫です! 時間はかかるのですが精密に結果が出ますので。あのですね、さっきのは本当におおざっぱな数値しか出していないので、まれに誰かとかぶることがあるんですよ。そうなるとエラーが出て登録できないんです」
「えらー……?」
「えっと、まあ失敗するということです。アーシェ様と非常に似た魂を持ったどなたかが過去すでに登録していて、同一と判定されてしまい、駄目ですとなる。でもこの部屋の魔術具なら正確ですので、誰かと同じになるのはありえません。たとえ双子でも。さあ始めましょう」
アーシェとキースがはっと顔を見合わせている間に、魔術師は長い布のようなものをとりあげ、アーシェの腕をとって巻きつけようとした。
「あ」
「あ」
キースが止める間もなかった。
「え?!」
魔術師の男が驚きの声をあげる。
アーシェはその場で昏倒した。