違和感のひとしずく
どうしても気になって、アーシェは日曜の早朝、演習場をのぞいてみた。
ブームが落ち着いたのか日曜だからなのか、それともヘルムートがいないからか。久しぶりに来たアーシェには理由はよくわからないが、見学している女性の姿はちらほらとしか見受けられない。
キースはクラスメイトと手合わせの途中だったようだ。人が少なかったおかげで、すぐにアーシェに気づいて来てくれた。
「珍しいな。どうした、なにかあったか?」
「おはよう、兄さま。大したことじゃないんだけど……」
チェルシーとコリンに宛てて手紙を書いたのは、キースと同時だった。だからキースの方の状況も確認したかったのだ。
アーシェの話を聞いたキースは額に手を当てた。考えている時のいつものクセだ。
子どもの頃はわからなくて、聞いてみたことがあった。
「どうしたの? 頭が痛いの?」
「いや……少し考え事をしていただけだ」
アーシェが首をかしげると、キースは言った。
「俺が思案していると人からは睨んでいるように見えるらしい。だから……、顔を隠すようにしているんだ」
たぶん五歳くらいの頃の出来事だ。それ以上前のこととなると、アーシェはあまり覚えていない。
「私は大丈夫よ。兄さまがすごく優しいって知っているもの」
アーシェはキースの手をよけて、その顔をのぞきこんだ。
「ぜんぜん怒ってるようには見えないわ。平気よ」
キースは困ったような表情をしているだけだった。
それからも、キースが額をおさえるたび、アーシェは彼の手を「どれどれ」と外してその顔を観察するという遊びをやった。繰り返すうち、キースは隠されていた目がアーシェに見つかると笑ってくれるようになった。アーシェも笑った。
「ね! 私には見せてくれていいの」
そうやって教えたのに、結局クセは直らなかったようだ。今では彼の手を外すこともできないし。
「確かに少し遅いな。俺の方はどちらも先週受け取ったぞ」
アーシェが聞き取りやすいようにだろう、キースは少しかがんで言った。
ユーインはバルフォアの当主として忙しくしているはずだが、息子の要望に素早く対処してくれたようだ。
「そうよね? 私もいつも二週間か三週間で……」
母は筆まめだ。しかも、今回は大事なことを、ぼかしながらも知らせたのに。
「郵便事故では? たまにあるだろう」
こんな時魔術信なら間違いなく速く届くのだが。魔術信が使えないのはやはり不便だ。
「でもコリンのと一緒に出したのに……。母さまが先に返事を書いてくれて、それが事故にあったのかしら」
「係官は何も言わなかったんだろう。内容も、問題のあることは書いていないはずだな?」
「もちろん、ちゃんと。……私の過去のことに、進展があったって知らせたくて。でもそのまま書くわけにもいかないから、探し物が見つかりそうです、みたいな感じに」
「ふむ」
改めて考えてみても、特に変わったことはなかったはずだ。
「まあ、もう一度書いてみるわ。コースも決まったし、知らせることはたくさんあるものね。稽古の邪魔をしてごめんなさい」
「いや、構わない。叔母上には俺からもよろしくと伝えてくれ」
「ふふ。わかったわ」
手紙を書きに管理棟へ行くと言うと、じゃあわたしも、とマリーベルが付き合ってくれた。
傘をさして歩く道すがら、アーシェはマリーベルに今朝の疑問を投げかけてみた。
「ああ……。まあ日曜っていうのもあるかもしれないけど。確かに見学者は最近減ってるみたいね。あなたの友だちにもファンの子がいるんじゃなかったっけ。聞いてない?」
「いえ……」
アーシェがエルミニアから聞くキースの話は、大抵が妄想だった。
「一番の原因はもちろん、あなたの言うように、ヘルムート様がいないから。ここのところ姿を見せないらしいわ……どうでもいいけど」
マリーベルはひとつため息をついた。
「あとは、あなたが演習場に行ったから――わたしがあの時ハンカチを渡したりしたせいもあるかもだけど。キースさん、あの雰囲気だから話しかけることもできない子がほとんどだったけど、意外とそんなに冷たい人じゃないって広まって、お近づきになりたいって子が続出して、しばらくは騒がしかったみたいなのよね」
キースからもそんな話は聞いていない。というか、キースはアーシェから訊ねた場合をのぞいて、あまり自分のことを話そうとしないのだ。俺の話はつまらないだろうなどと言って。
くだらない話でもなんでも、キースのことなら聞きたいのに。
「でも結局、次々と振られて、だいぶ人も減ったみたい。ああいう素敵な人はちょっと離れたところから見守るに限るのにね。みんな勇気あるわぁ。ま、キースさんは属性付与だから、帰っちゃう前になんとかって焦る気持ちもわかるけど……」
そういえば、図書館で待ち合せた時も、キースは女生徒たちに話しかけられていた。
「だから、キースさんがコースを変更して残るってことが知られたらまた状況も変わるかもね。白の祭典とかすごいことになりそう」
白の祭典というのは、冬にやるお祭りらしい。アーシェはまだ詳しくは知らないのだが、ファルネーゼらしく、男女で組んで参加するプログラムが多いようだ。
「キースさんといえば、前に悩んでた友達とのことはどうなったの? 上手くやれてる?」
「あっ、はい。あれは……なんというか、やっぱりキース兄さまの誤解だったんです。今は、見守ってくれているといいますか……」
「そう。ならよかったわ」
詳細に聞かれたらどう誤魔化そうかと思ったが、ちょうどよく管理棟に到着したので、その話はそこまでとなった。
先月したためたお手紙は無事に手元に届きましたでしょうか?
私の抱えていた問題は少しずつ軽くなっているようです。ファルネーゼの先生方のご指導のおかげです。本当に助けられています――
気を抜くと「帰る頃には見違えるような私になっているかも」などと願望に満ちたことを書いてしまいそうで、アーシェは「我慢、我慢」と自分に言い聞かせた。
日曜の記入室は静かで、窓をたたく雨音が聞こえてくる。
隣を見ると、マリーベルは真剣な表情で、ゆっくりと書き進めていた。
アーシェがやってきてから三か月近くになるが、記憶をさらってみると、土曜の夕食前にマリーベルの名が呼ばれたことは一度もなかったような。
手紙を書き終わり、二人で管理棟を出ると、珍しく雨がやんでいた。
普段なら、朝食が終わるくらいから、夕方まで降り続くのだが。
「遅れて届くってこともあるわよ。わたしも、親戚からのが、二か月もかかって届いたことがあったし。まあ、アリンガムとは状況が違うけど」
母からの返信がなくて、と話すと、マリーベルはそんな風に言った。
「わたしは、今日は友達に書いたの。首都からはだいぶ離れてる田舎の町だから……、届くといいけど」
マリーベルは閉じたままの傘を手に、水たまりをよけながら歩いている。
「ご家族からの連絡は?」
「んー、もう四か月くらいかしら、返事が来なくなってから。たぶんどこか、別のところに移ってるんだと思う。いざとなったら逃げる準備はしてるって書いてたから、きっと……」
アーシェはヘルムートの言葉を思い出しながら、マリーベルの背中を見ていた。
――バチクか。あそこはもうダメだろう
「うちは商売をしていたの。手広くやっていて、わたし町では一番のお嬢様だったのよ。妹もいて、あなたと同じくらい……見た目がね。お金はたくさんあって、子どもの頃から公用語も勉強してたし、おかげでさほど苦労せずにファルネーゼにも受かったってわけ」
バチクがケルステンの支配下に置かれたのは三年前のことだ。開戦から決着まではあっという間だったという。国境付近で戦端が開かれるやいなや竜騎兵の軍団が首都を襲撃し、その日のうちに王とその子ら全員が殺された。アーシェも父から聞いた話でしか知らないが、大陸中の国が対空防衛の見直しに頭を悩ませることになったという。
ケルステンはバチク国民に、恭順すれば平和な統治を約束する、と布告した。しかしじわじわと、締め付けられた国民からの不満があがりはじめた。どちらの望んだ反乱なのか、各地で火の手はあがり、今もくすぶり続けている。
陽の光が水たまりに反射して、きらきらして、とても綺麗だった。マリーベルの傘の先から落ちた雫が、円になってひろがっていく。
「とにかくわたしにできることはなんだろうって考えて、……魔術をやりたいなんて大それた思いつき、はじめは反対されたけど。結局はみんな応援してくれた。合格した時は一緒に喜んでくれて、もしものことがあってはいけないからって、入学した時に四年分の授業料、全部払い込んでくれたわ」
ファルネーゼは平和だ。大陸の中で一番安全な場所だ。
「だからわたしは頑張るの。絶対に。戦えるわたしになる」
透明な結界の中にいるマリーベルは、家族が無事でいることを信じるほかないのだろう。
「だけど、まだあと三年もある……間に合わなかったらどうするの? なんの意味も」
小さく震えた声をかき消すように、ばらばらと大粒の雨が降り出した。
「もう!」
二人であわてて傘を広げて、女子寮に向かった。
「降るなら降るで、ちゃんとしてほしいわ!」
髪についたしずくを払いながら、マリーベルは文句を言った。
「ですね……今日は少し調子が悪いんでしょうか」
――その子、帰らない方がいいだろうな
ヘルムートの言うことはわかる。そのほうがいいと思う。
けれどマリーベルは、必ず帰ろうとするのだろう。家族のいるところへ。いるはずのところへ。
それを止めることは、アーシェにはできないし、してはいけないのだろうと思った。




